論究ジュリスト2014年秋号を読んでいたら、次の記述があった。
「例えば、司法試験を考えてみましょう。合格できなかった人の意見はもちろん参考にはなりますが、それだけを聞いていてもこうしてはだめということが分かるだけで、合格するために必要な道筋は見えてきません。合格へのプロセスは、合格した人の話を聞く必要があります。合格した人から、どういうスケジュールで、どういう勉強をし、どういう戦略で取り組んでいったのかということを聞いて初めて合格への道筋、モデルプランが見えてくるのです。失敗談だけでは、こうやって失敗した、こうやったほうが良かったかもしれないといったアイデアしか出てきません。」(224頁)
これを読み、「浜井浩一さんは、司法試験に合格しているんだっけ?」と思い、「一発合格の人には、自分のやり方のどこがよくて合格したかわかっているのだろうか?普通、人は失敗から学ぶんじゃないのか?旧試験の時代の合格体験記は何度も失敗してから合格した人が書いていたものだが、ロースクールになってからは、普通の人は卒業年に合格するんじゃないのか?というか、ロースクールのカリキュラムをちゃんとこなしただけで合格できなければダメだろう。」という感想を持った。
浜井浩一さんは、現在、龍谷大学の法科大学院の教授をしているようだ。大学のHPに二人の方の合格体験記がのっている。この合格体験記からどのようなモデルプランが出てくるのだろうか。一般的な受験生にとってどういうところが参考になるのだろうか。
2014年11月25日火曜日
2014年11月23日日曜日
プラネタリウム 銀河鉄道の夜
ポスターの色使いが綺麗で、さいたま青少年宇宙科学館に「銀河鉄道の夜」のプラネタリウムを見に行った。
プラネタリウムの方には、ほとんど色がついていない。ずっと夜汽車に乗っているようで、一人で見ていたら怖くなりそうだが、後ろの方で小さい子供の声が聞こえるので、それほど寂しくはならない。
大きな川の上を横断する線路の上を汽車が走って行く。白く見える川の向こうには街の明かりらしい白い光が見える。この風景なら、荒川の上を走る京浜東北線に似ていそうだと思う。
プラネタリウムの方には、ほとんど色がついていない。ずっと夜汽車に乗っているようで、一人で見ていたら怖くなりそうだが、後ろの方で小さい子供の声が聞こえるので、それほど寂しくはならない。
大きな川の上を横断する線路の上を汽車が走って行く。白く見える川の向こうには街の明かりらしい白い光が見える。この風景なら、荒川の上を走る京浜東北線に似ていそうだと思う。
2014年11月17日月曜日
毛糸が足りない
ネットの相談で、紳士用セーターなら12~3個くらいと店の人に言われ、買い足しできないようなので20個買って編んだら、後見頃だけで8個使い、同じ毛糸がみつからないのでどうしようという質問をみかけた。
相談者は別の毛糸を買い足して編み進める前提で質問しているので、その意向に沿った回答がベストアンサーに選ばれている。
他の回答で、大幅に見込みがくるった理由を確認した方がよいと勧めている人がいる。その人は考えられる原因として①縄編みが多い模様と②大きく編みすぎたことの2点をあげているが、自分はそれもあるが、③使った網棒の太さが細すぎたのが最大原因だと思う。
この3点は、それだからダメともいえないが、このままの編み方でいくと全部で25玉くらい使いそうだから、一玉40gとして、一キログラムのセーターになり、これはかなり重いセーターになる。重いセーターは着心地が悪いので、自分用ではなくプレゼントだと、逆効果になりそうだ。
三年前の相談なので、直接本人に伝えられずに残念だ。原因を突き止めてからと回答している人にカテゴリマスターというマークがついている。このカテゴリマスターと言うのは、そのカテゴリでベストアンサーに選ばれた回数が多い人の意味らしい。回答内容からも結構編み物経験があることが窺われる。ただ、質問者の実力からいって、自分で原因を見つけて適切な対処法を考えるのは無理なようだ。お店の人に相談するつもりとのことなので、まぁ、なんとかなったのだろう。
相談者は別の毛糸を買い足して編み進める前提で質問しているので、その意向に沿った回答がベストアンサーに選ばれている。
他の回答で、大幅に見込みがくるった理由を確認した方がよいと勧めている人がいる。その人は考えられる原因として①縄編みが多い模様と②大きく編みすぎたことの2点をあげているが、自分はそれもあるが、③使った網棒の太さが細すぎたのが最大原因だと思う。
この3点は、それだからダメともいえないが、このままの編み方でいくと全部で25玉くらい使いそうだから、一玉40gとして、一キログラムのセーターになり、これはかなり重いセーターになる。重いセーターは着心地が悪いので、自分用ではなくプレゼントだと、逆効果になりそうだ。
三年前の相談なので、直接本人に伝えられずに残念だ。原因を突き止めてからと回答している人にカテゴリマスターというマークがついている。このカテゴリマスターと言うのは、そのカテゴリでベストアンサーに選ばれた回数が多い人の意味らしい。回答内容からも結構編み物経験があることが窺われる。ただ、質問者の実力からいって、自分で原因を見つけて適切な対処法を考えるのは無理なようだ。お店の人に相談するつもりとのことなので、まぁ、なんとかなったのだろう。
2014年11月15日土曜日
2014埼玉県民の日
11月14日、埼玉県民の日にニューシャトルの一日乗車券が発売されるとのことで利用してみた。
終点内宿駅から歩いてすぐのところにある薔薇園に以前から興味があった。伊奈町の町制施行祈念公園内にあるので、薔薇園のほかもりだくさんだった。
公園内を抜けて県道87号線を東に歩き、綾瀬川と見沼代用水路を見に行った。綾瀬川は川幅が飛び越せるくらい細くなっていて、用水路の方は東西に分かれる前でさいたま市内で見るより幅も広く流れも速い。脇に緑のヘルシーロードが通っている。広くて歩きやすそうだが、やや単調に見える。ここで、県道を渡ろうとしたら切れ目なしに車が来てなかなか渡れない。
ニューシャトル丸山駅でイベントがあるので寄った。客車が展示されている。客車は小さくてかわいい。横幅が狭くて両脇の椅子の間に一人立ったらもう余裕がないという感じだ。
展示の客車は車体の下も全部見られ、タイヤが鉄ではなく自動車のタイヤのようにゴム製に見えるので、驚いた。
自分の頭の中では、いまだに蒸気機関車の車輪のイメージで、ピストン運動で車輪を回していたようだ。それなら現在他の普通の列車はどうなっているのかというとよくわからない。
最終的に一番印象的と言うか衝撃的だったのは、客車の車輪だった。
終点内宿駅から歩いてすぐのところにある薔薇園に以前から興味があった。伊奈町の町制施行祈念公園内にあるので、薔薇園のほかもりだくさんだった。
公園内を抜けて県道87号線を東に歩き、綾瀬川と見沼代用水路を見に行った。綾瀬川は川幅が飛び越せるくらい細くなっていて、用水路の方は東西に分かれる前でさいたま市内で見るより幅も広く流れも速い。脇に緑のヘルシーロードが通っている。広くて歩きやすそうだが、やや単調に見える。ここで、県道を渡ろうとしたら切れ目なしに車が来てなかなか渡れない。
ニューシャトル丸山駅でイベントがあるので寄った。客車が展示されている。客車は小さくてかわいい。横幅が狭くて両脇の椅子の間に一人立ったらもう余裕がないという感じだ。
展示の客車は車体の下も全部見られ、タイヤが鉄ではなく自動車のタイヤのようにゴム製に見えるので、驚いた。
自分の頭の中では、いまだに蒸気機関車の車輪のイメージで、ピストン運動で車輪を回していたようだ。それなら現在他の普通の列車はどうなっているのかというとよくわからない。
最終的に一番印象的と言うか衝撃的だったのは、客車の車輪だった。
2014年11月9日日曜日
迎賓館前庭公開
赤坂離宮の迎賓館の庭園公開に行ってきた。
正門から建物正面まで行って帰ってくるだけなので、正門の外から中を見る以上のものは見られないかと思ったら、近くで見て気づいたことがあった。
建物の正面の入口両脇の柱の上に、兜をかぶり鎧を着ている武士の上半身の像が左右にのっている。そしてその間の奥の方に日本風の瓦屋根らしきものが見える。
こういう和洋折衷は初めて見る。貰ったパンフレットを改めてよく見るとちゃんと写っているが、ぱっと見では、洋風の建物の印象が強くて、気付かなかった。壁面に徳川の葵の紋もあった。
庭内に建物内に飾られているという盆栽も展示され、こんなに大きな盆栽は初めて見た。
正門から建物正面まで行って帰ってくるだけなので、正門の外から中を見る以上のものは見られないかと思ったら、近くで見て気づいたことがあった。
建物の正面の入口両脇の柱の上に、兜をかぶり鎧を着ている武士の上半身の像が左右にのっている。そしてその間の奥の方に日本風の瓦屋根らしきものが見える。
こういう和洋折衷は初めて見る。貰ったパンフレットを改めてよく見るとちゃんと写っているが、ぱっと見では、洋風の建物の印象が強くて、気付かなかった。壁面に徳川の葵の紋もあった。
庭内に建物内に飾られているという盆栽も展示され、こんなに大きな盆栽は初めて見た。
2014年11月7日金曜日
パンドラハウス・メイトカード
5%割引パスポートから、7%割引パスポートになった。割引率アップによって新カードになると、またポイントゼロからスタートすることになる。割引の有効期限一年以内に貯めたポイント数によって次のカードの割引率が決まる。
有効期限が切れて新カードになった場合は、ポイントは移行する。そうすると向こう一年の間に60ポイント貯めて、7%割引を維持できれば、そのあとは、何年かけてもいずれ100ポイントに到達して10%割引カードになれそうだ。
割引カードを持つようになるとセールの葉書がきて、ポイントを貯めやすくなるので、それを最大限に生かすと一年で60ポイント貯める見込みはある。
ただ、一年以内に100ポイント貯められそうにない。7%にいったん落ちてから10%になると、また最初から貯めないとダメなので、7%と10%をいったりきたりになりそうだ。
仮に10%割引になって、その有効期限内に100ポイント貯めたらどうなるのか。ポイントは打ち止めになり、有効期限がきたら新カードにポイント移行し、その後はずっと10%割引を維持できるのだろうか。
10%割引カード三枚目の人のブログを見た。ポイント印は途中まで押されている。一度割引率を落としてから三回這い上がったということだろうか?
10%カードになって、今月2月末で1年の有効期限が切れる。パンドラのHPを見ると、ポイントが移行できるのは、次のステップになるまでとのこと。10%カードの有効期限が切れ新カードになっても、ポイントが移行しないことがわかった。
2月のセール期間にスタンプ100個を達成した。一年の期限が、まだ、終わっていないが新カードに切り替えるとのこと。100個ためた時点で即新しいカードになるので、100個たまった期限切れカードを持った人が存在しないから、カードに書く必要がないのだろう。
これで、一年以内にスタンプ100個をためても、新たに取得するスタンプが無駄にならないことはわかった。自分自身の経験で、カードのルールがようやっとすべてわかった。
すべてのルールがわかったところで、カードの説明でそれが読み取れるか読み直してみた。カードの「切り替え時」が①次のステップに移るときと②一年の期限が切れた時だけでなく、③スタンプを全部押したときの3種類あることがわかれば、カードの説明で充分だ。自分は読みとれなかったが、他の人はどうなのだろう。
有効期限が切れて新カードになった場合は、ポイントは移行する。そうすると向こう一年の間に60ポイント貯めて、7%割引を維持できれば、そのあとは、何年かけてもいずれ100ポイントに到達して10%割引カードになれそうだ。
割引カードを持つようになるとセールの葉書がきて、ポイントを貯めやすくなるので、それを最大限に生かすと一年で60ポイント貯める見込みはある。
ただ、一年以内に100ポイント貯められそうにない。7%にいったん落ちてから10%になると、また最初から貯めないとダメなので、7%と10%をいったりきたりになりそうだ。
仮に10%割引になって、その有効期限内に100ポイント貯めたらどうなるのか。ポイントは打ち止めになり、有効期限がきたら新カードにポイント移行し、その後はずっと10%割引を維持できるのだろうか。
10%割引カード三枚目の人のブログを見た。ポイント印は途中まで押されている。一度割引率を落としてから三回這い上がったということだろうか?
10%カードになって、今月2月末で1年の有効期限が切れる。パンドラのHPを見ると、ポイントが移行できるのは、次のステップになるまでとのこと。10%カードの有効期限が切れ新カードになっても、ポイントが移行しないことがわかった。
2月のセール期間にスタンプ100個を達成した。一年の期限が、まだ、終わっていないが新カードに切り替えるとのこと。100個ためた時点で即新しいカードになるので、100個たまった期限切れカードを持った人が存在しないから、カードに書く必要がないのだろう。
これで、一年以内にスタンプ100個をためても、新たに取得するスタンプが無駄にならないことはわかった。自分自身の経験で、カードのルールがようやっとすべてわかった。
すべてのルールがわかったところで、カードの説明でそれが読み取れるか読み直してみた。カードの「切り替え時」が①次のステップに移るときと②一年の期限が切れた時だけでなく、③スタンプを全部押したときの3種類あることがわかれば、カードの説明で充分だ。自分は読みとれなかったが、他の人はどうなのだろう。
2014年11月4日火曜日
さいたま芸術劇場20周年記念
20周年ということで、いつものプロムナード・コンサートと違い、昼と夜の二回あった。
夜の方が観客が少なくなったので、前列に座れた。といっても、階段の上に座布団が敷いてある席だ。途中、足と腰が痛くなり、すぐに席が埋まらなかった理由がわかった。
舞台は観客と一緒につくるものと聞いたことがあるが、今回それがよくわかった。
いつもは音楽だけだが、今回は踊りが入り、その踊りに子供が反応する声が、いい効果をあげていた。
暗くなったのがよかった点もある。
踊りの最中に上から白い紙をまいたが、その紙にライトがあたり、白い紙が上から下に落ちるのと同時に、紙の黒い影が中心から外側に向かって天井を走った。
書道も加わり、中心のガラスの壁に白い塗料で文字を書いたが、その字が反射して別のガラスの壁に映っている。どこからともなく現れた感が幻想的だ。
夜の方が観客が少なくなったので、前列に座れた。といっても、階段の上に座布団が敷いてある席だ。途中、足と腰が痛くなり、すぐに席が埋まらなかった理由がわかった。
舞台は観客と一緒につくるものと聞いたことがあるが、今回それがよくわかった。
いつもは音楽だけだが、今回は踊りが入り、その踊りに子供が反応する声が、いい効果をあげていた。
暗くなったのがよかった点もある。
踊りの最中に上から白い紙をまいたが、その紙にライトがあたり、白い紙が上から下に落ちるのと同時に、紙の黒い影が中心から外側に向かって天井を走った。
書道も加わり、中心のガラスの壁に白い塗料で文字を書いたが、その字が反射して別のガラスの壁に映っている。どこからともなく現れた感が幻想的だ。
2014年11月2日日曜日
フラッシュモブ
大宮駅西口、12時、フラッシュモブがあるということで見に行った。
知らずに通りかかった人が、突然踊りだす群衆を見て、びっくりするところを見たかったのに、踊っている人を見るのに忙しくて、見ている人の反応まで目がいかなかった。
ただ、自分のように知ってて集まっている人を見て、通りがかりの人も何かが始まりそうだという気配を感じたようで、不意打ちで驚いた人はあまりいなさそうだ。
知らずに通りかかった人が、突然踊りだす群衆を見て、びっくりするところを見たかったのに、踊っている人を見るのに忙しくて、見ている人の反応まで目がいかなかった。
ただ、自分のように知ってて集まっている人を見て、通りがかりの人も何かが始まりそうだという気配を感じたようで、不意打ちで驚いた人はあまりいなさそうだ。
2014年10月31日金曜日
一度着た服
テレビで、片付けられない人の番組を見た。ゲストの女性が、「一度着たけれど、まだ洗濯はしないし、かといって、すぐにクローゼットにしまうのもいやで、とりあえずかけておく・・・」と言いだしたら、即座に男性ゲストに「それでも駄目なの!」と叱られたので、それ以上話が発展しなかった。
そういう場合に、他の人はどうしているのか、何かいい方法があるのか気になっていたので、話が広がらずに残念だった。
多分、その男性ゲストは、広い専用の衣裳部屋でもあるのだろう。その場合は、片付けずに出しっぱなしは、だらしがないだけだ。
でも普通の人の場合は、引き出しや狭い洋服ダンスなど、定位置にすぐしまうと、お日様や埃の臭いがこもるので、しばらく風とおしのよいところに出しておくしかない。
ただ、その場合でも床にはおかないし、着る季節が終わったらしまうだろう。
それにしても、随分たくさん服を買うのだと感心する。着てない服は捨てるようにと言われていたが、片付けていないので、自分がどういう服を持っているのかもわからなくなり、生かせていないだけじゃないかと思う。
そういう場合に、他の人はどうしているのか、何かいい方法があるのか気になっていたので、話が広がらずに残念だった。
多分、その男性ゲストは、広い専用の衣裳部屋でもあるのだろう。その場合は、片付けずに出しっぱなしは、だらしがないだけだ。
でも普通の人の場合は、引き出しや狭い洋服ダンスなど、定位置にすぐしまうと、お日様や埃の臭いがこもるので、しばらく風とおしのよいところに出しておくしかない。
ただ、その場合でも床にはおかないし、着る季節が終わったらしまうだろう。
それにしても、随分たくさん服を買うのだと感心する。着てない服は捨てるようにと言われていたが、片付けていないので、自分がどういう服を持っているのかもわからなくなり、生かせていないだけじゃないかと思う。
2014年10月30日木曜日
季節の変わり目
一日の室内の最低気温が20度で、まだ暖房をしなくても大丈夫だ。とはいえ、厳寒期並みの服装だ。
午後になると温かくなり、秋らしい服装に替える。むしろ真夏や真冬の方が冷暖房をするので過ごしやすいような気がしてくる。
午後になると温かくなり、秋らしい服装に替える。むしろ真夏や真冬の方が冷暖房をするので過ごしやすいような気がしてくる。
2014年10月29日水曜日
床ずれ
背中に床ずれができた。
最初に背中の肌荒れに気づいた時は、原因がわからなかった。いろいろ考えて、背中と椅子の背もたれが接するところの血流が悪くなったせいだろうと思う。
理屈は床ずれと同じだ。椅子の背もたれが木なので、背もたれと背中の間にクッションを入れてみたが、うまくいかない。そこで、椅子にもたれないことに決めた。最初は、うっかり気を緩めると、いつのまにかもたれている。もたれない状態を続けたら、肌荒れがなおったので、考えは正しかったのだろう。
長時間座ったときになる腰痛もなくなったので、これからも続けようと思う。
最初に背中の肌荒れに気づいた時は、原因がわからなかった。いろいろ考えて、背中と椅子の背もたれが接するところの血流が悪くなったせいだろうと思う。
理屈は床ずれと同じだ。椅子の背もたれが木なので、背もたれと背中の間にクッションを入れてみたが、うまくいかない。そこで、椅子にもたれないことに決めた。最初は、うっかり気を緩めると、いつのまにかもたれている。もたれない状態を続けたら、肌荒れがなおったので、考えは正しかったのだろう。
長時間座ったときになる腰痛もなくなったので、これからも続けようと思う。
2014年9月27日土曜日
きもの
どうやったら夏に着物を着られるのか、興味があったので群ようこ著『きもの365日』を読んでみることにした。ついでに『きものが欲しい』も図書館から借りた。
『きもの365日』は知らないことが次々に出てきて、自分にとってはよくわからない専門書を読むようなので、先に『きものが欲しい』を読むことにした。
そこで、″三十分、五百万円お買い上げ事件″の真相を読み、なんだか嫌な気分になって、やっぱり『きもの365日』を読むことにした。
そうしたら、139頁でその事件のことについて悪意のある書き込みがされたことが書かれていた。どうもその書き込みは妬みから書かれたものらしい。
自分がいやな気分になったのはうらやましかったからではない。銀行に残高五百万円以上あるから、同じことをしたいと思えば同じことができるし、そもそも同じことがしたいとは全く思わない。
母親にねだられてことわりきれなかった話で、自慢と言うより災難にあった話だ。全然笑えない災難だからいやな気分になったということもある。
自分がいやな気分になったのは、「なんだ、全然貧乏じゃないんだな」と思い、なんだか裏切られたようで、がっかりしたからだ。作家として売れたあとだから、若い時と違うのは当然なのだけれど、貧乏好きの貧乏人が本を買った、そのお金が出所なんだなと思ってしまった。
自分も今は図書館で借りて読んでいるが、森茉莉著『贅沢貧乏』が好きなので、群ようこ著『贅沢貧乏のマリア』を買った。他に『働く女』を買った。
とはいえ、『きものが欲しい』を最後まで読むと、おしゃれ心を刺激され面白かった。きものの趣味はないが、編み物の趣味があるので、読んでいる途中で何回も自分の編んだものを出して眺めてしまった。
今回、もうひとつがっかりしたのは、以前読んだ『衣もろもろ』のなかで洋服の数を絞った話がでていて、その枚数を読んで「すごい」と思ったが、これだけの着物を持っているなら、すごくもなんともなかったということだ。確かに着物も持っているからとは書かれていたが、そのときにはこんなに持っているとは思わなかった。こちらが事情がよくわからず、勝手に勘違いしただけではあるが、改めて、着物がこれだけあって、洋服はこんなに少しということに何の意味があるのだろうと思う、結局どういう話なのだろうと、現在少し頭が混乱している。
『きもの365日』は知らないことが次々に出てきて、自分にとってはよくわからない専門書を読むようなので、先に『きものが欲しい』を読むことにした。
そこで、″三十分、五百万円お買い上げ事件″の真相を読み、なんだか嫌な気分になって、やっぱり『きもの365日』を読むことにした。
そうしたら、139頁でその事件のことについて悪意のある書き込みがされたことが書かれていた。どうもその書き込みは妬みから書かれたものらしい。
自分がいやな気分になったのはうらやましかったからではない。銀行に残高五百万円以上あるから、同じことをしたいと思えば同じことができるし、そもそも同じことがしたいとは全く思わない。
母親にねだられてことわりきれなかった話で、自慢と言うより災難にあった話だ。全然笑えない災難だからいやな気分になったということもある。
自分がいやな気分になったのは、「なんだ、全然貧乏じゃないんだな」と思い、なんだか裏切られたようで、がっかりしたからだ。作家として売れたあとだから、若い時と違うのは当然なのだけれど、貧乏好きの貧乏人が本を買った、そのお金が出所なんだなと思ってしまった。
自分も今は図書館で借りて読んでいるが、森茉莉著『贅沢貧乏』が好きなので、群ようこ著『贅沢貧乏のマリア』を買った。他に『働く女』を買った。
とはいえ、『きものが欲しい』を最後まで読むと、おしゃれ心を刺激され面白かった。きものの趣味はないが、編み物の趣味があるので、読んでいる途中で何回も自分の編んだものを出して眺めてしまった。
今回、もうひとつがっかりしたのは、以前読んだ『衣もろもろ』のなかで洋服の数を絞った話がでていて、その枚数を読んで「すごい」と思ったが、これだけの着物を持っているなら、すごくもなんともなかったということだ。確かに着物も持っているからとは書かれていたが、そのときにはこんなに持っているとは思わなかった。こちらが事情がよくわからず、勝手に勘違いしただけではあるが、改めて、着物がこれだけあって、洋服はこんなに少しということに何の意味があるのだろうと思う、結局どういう話なのだろうと、現在少し頭が混乱している。
2014年9月26日金曜日
足つぼマット
別所沼公園の健康器具のなかに、足のつぼを刺激するコーナーがあったので、どれだけ痛いのか試してみた。
確かに痛いが、足の乗せ方や歩き方の工夫によって違ってくるような気もする。
アメトークでゲストの女優が全く痛がらずにすいすい歩いていた。周りで、「健康だから」と騒いでいたが、それだけの違いとは思えない。
男性と女性の差か。そこでひらめいた。「ハイヒール」だ。ゲストの主演ドラマで、主人公が高さ10センチ以上はありそうなピンヒールをはいて、闊歩したり走ったりするところがある。
足つぼマットの平らの小さい部分だけに体重を乗せて歩いたら、痛くなく歩けるのじゃないか。
明日、この仮説を検証してみようと思う。
9月27日、試してみたが、理屈どおりにはいかない。足の裏の土踏まずのところをなるべくアーチ形にして、突起部分に体重が軽くかかるようにすると痛さが減り、立っているだけならそんなに痛くない。ただ、歩こうとすると突起部分に体重をのせないと歩けず、体重をのせると痛い。
歩き方を練習していたら、後ろに人がいるのに気付き、思わず謝ってどいた。謝る必要はなかったかと思うが、本来の目的と違うことをしていたので、なんとなく後ろめたかったのだろう。
本来の目的と違う使い方という点で、前から気になっていたのが「背のばし」だ。これは、椅子に座って背もたれにもたれて、背中を後ろにそらせて使うらしい。背もたれが半円状になっている。その椅子に座らずに反対側から立ったまま背中をそらせている人がいた。
背中が固くて板のように真直ぐになっている。腕を上に伸ばして、うんうんいっている様子を見ると腹筋運動をしているように見える。実際、後ろにもたれずに背中を起こした姿勢を保とうとしたら、腹筋が鍛えられると思う。
少しして同じ人を見かけたが、今度は前より背中が背もたれにくっついている。よく見ると、膝がまがってだんだん身体が下にさがっている。半円状の背もたれは上は平らに近く、下は垂直に近くなる。その垂直に近い方に背中をあわせてきたので、背中と背もたれがちかくなったのだ。膝をまげて姿勢を保っていたら腿の筋肉が鍛えられるのじゃないかと思う。
だんだん、何を鍛えるためのものかわからなくなる。
確かに痛いが、足の乗せ方や歩き方の工夫によって違ってくるような気もする。
アメトークでゲストの女優が全く痛がらずにすいすい歩いていた。周りで、「健康だから」と騒いでいたが、それだけの違いとは思えない。
男性と女性の差か。そこでひらめいた。「ハイヒール」だ。ゲストの主演ドラマで、主人公が高さ10センチ以上はありそうなピンヒールをはいて、闊歩したり走ったりするところがある。
足つぼマットの平らの小さい部分だけに体重を乗せて歩いたら、痛くなく歩けるのじゃないか。
明日、この仮説を検証してみようと思う。
9月27日、試してみたが、理屈どおりにはいかない。足の裏の土踏まずのところをなるべくアーチ形にして、突起部分に体重が軽くかかるようにすると痛さが減り、立っているだけならそんなに痛くない。ただ、歩こうとすると突起部分に体重をのせないと歩けず、体重をのせると痛い。
歩き方を練習していたら、後ろに人がいるのに気付き、思わず謝ってどいた。謝る必要はなかったかと思うが、本来の目的と違うことをしていたので、なんとなく後ろめたかったのだろう。
本来の目的と違う使い方という点で、前から気になっていたのが「背のばし」だ。これは、椅子に座って背もたれにもたれて、背中を後ろにそらせて使うらしい。背もたれが半円状になっている。その椅子に座らずに反対側から立ったまま背中をそらせている人がいた。
背中が固くて板のように真直ぐになっている。腕を上に伸ばして、うんうんいっている様子を見ると腹筋運動をしているように見える。実際、後ろにもたれずに背中を起こした姿勢を保とうとしたら、腹筋が鍛えられると思う。
少しして同じ人を見かけたが、今度は前より背中が背もたれにくっついている。よく見ると、膝がまがってだんだん身体が下にさがっている。半円状の背もたれは上は平らに近く、下は垂直に近くなる。その垂直に近い方に背中をあわせてきたので、背中と背もたれがちかくなったのだ。膝をまげて姿勢を保っていたら腿の筋肉が鍛えられるのじゃないかと思う。
だんだん、何を鍛えるためのものかわからなくなる。
2014年9月10日水曜日
長谷川かな
別所沼公園で俳句が書かれた石碑を見つけた。沼の周囲を歩く道から外れていたので最近気付いた。
「野球少年 あつまり丘を うかせけり」と読めた。少年が集まって野球をしているのか。最後の五文字の意味がわからない。「う」で始まるので球を打つのと関係があるのか。変体仮名を見誤っているのか。広場で野球をするのならわかるが、丘で野球をするのは無理がある。それにどこに丘があるのだろうと思って気付いた。公園の東側がすこし高くなっている。公園から二列目の住宅は一列目の住宅より一階分くらい高いところに建っている。家が建つ前は丘に見えただろう。
そこで、前の方に案内板があるのに気付いた。出だしは「曼珠沙華」だった。石碑の方は達筆で見誤ったのだ。作者は長谷川かな、といっても知らない人だった。
最近、鰻を食べさせるお店の「別所」が取り壊されて空き地になり、公園内の道から後ろの住宅が見えている。コンクリートの擁壁の上に目隠しの塀の裏側が見える。芝居の書き割を後ろから見るようだ。もともと丘だったのが一目瞭然だ。
跡地がどうなるか気になる。以前からランニングコース沿いに空き地になっているところが二区画ある。一つは市が管理しているようでそれなりに手入れされているが、隣の方は雑草が茂り荒れている。崖下で利用制限でもかかっているのだろうか。『秘密の花園』を連想する。
俳句の方は、曼珠沙華が丘一面に咲いていて、その赤い色で丘を浮き上がらせているという意味だろう。
9月14日朝、南東角の最近季節の花が植えられているところで、曼珠沙華が咲いているのを見かけた。
10月23日、空き地横を歩いていて気付いたが、その空き地は自動車が通れる道路と接していない。これでは、物理的にも建物を建てるのは無理だなと思う。
「野球少年 あつまり丘を うかせけり」と読めた。少年が集まって野球をしているのか。最後の五文字の意味がわからない。「う」で始まるので球を打つのと関係があるのか。変体仮名を見誤っているのか。広場で野球をするのならわかるが、丘で野球をするのは無理がある。それにどこに丘があるのだろうと思って気付いた。公園の東側がすこし高くなっている。公園から二列目の住宅は一列目の住宅より一階分くらい高いところに建っている。家が建つ前は丘に見えただろう。
そこで、前の方に案内板があるのに気付いた。出だしは「曼珠沙華」だった。石碑の方は達筆で見誤ったのだ。作者は長谷川かな、といっても知らない人だった。
最近、鰻を食べさせるお店の「別所」が取り壊されて空き地になり、公園内の道から後ろの住宅が見えている。コンクリートの擁壁の上に目隠しの塀の裏側が見える。芝居の書き割を後ろから見るようだ。もともと丘だったのが一目瞭然だ。
跡地がどうなるか気になる。以前からランニングコース沿いに空き地になっているところが二区画ある。一つは市が管理しているようでそれなりに手入れされているが、隣の方は雑草が茂り荒れている。崖下で利用制限でもかかっているのだろうか。『秘密の花園』を連想する。
俳句の方は、曼珠沙華が丘一面に咲いていて、その赤い色で丘を浮き上がらせているという意味だろう。
9月14日朝、南東角の最近季節の花が植えられているところで、曼珠沙華が咲いているのを見かけた。
10月23日、空き地横を歩いていて気付いたが、その空き地は自動車が通れる道路と接していない。これでは、物理的にも建物を建てるのは無理だなと思う。
2014年9月7日日曜日
避暑地
いつものように住宅地の中を散歩していて、ふと視線を上げたら、「森の中の別荘みたい」なものを見つけた。
三階建の住宅の屋上が平らになっていて、その真ん中に木のテーブルとそれを囲んだ椅子があり、周りの四隅の柱の上に、ヨットのような三角の布が張られて日差しを遮っている。壁がないので風通しもよさそうだ。その背後に樹木が広がっている。近くで見ると一軒おいた隣の家の庭の木だ。「随分と得しているな」と思う。
三階建の住宅の屋上が平らになっていて、その真ん中に木のテーブルとそれを囲んだ椅子があり、周りの四隅の柱の上に、ヨットのような三角の布が張られて日差しを遮っている。壁がないので風通しもよさそうだ。その背後に樹木が広がっている。近くで見ると一軒おいた隣の家の庭の木だ。「随分と得しているな」と思う。
2014年9月2日火曜日
別所沼のかいぼり(あぶく)
別所沼の南側沿いを歩いていたら、水中からあぶくが出ていた。かいぼり後に時々みかける。
水をかき混ぜると空気の泡がたくさんできるが、水の動きは全くない。
泡が出る場所が移動していて、亀が泳いでいるところを見たことがあるので、亀の吐く息が原因なのだろうか。かいぼり前に一度も泡が出ているのに気づかなかった理由はわからない。
「よどみに浮かぶうたかたは、」を初めて聞いた時には、どうして泡ができるのか、全く不思議に思わなかった。流れている川しか見たことがなかったせいもあるだろう。
ただ、「よどみ」とあるから水の動きでできたとは思えず、鴨長明の見た泡はどうやってできたのだろうと思う。
やっぱり亀なのか、方丈記の研究で、今まで問題にされたことはないのだろうか。
9月2日、久しぶりに晴天で気温が上がっている。水面に以前と同じように茶色くなっているところがある。
水をかき混ぜると空気の泡がたくさんできるが、水の動きは全くない。
泡が出る場所が移動していて、亀が泳いでいるところを見たことがあるので、亀の吐く息が原因なのだろうか。かいぼり前に一度も泡が出ているのに気づかなかった理由はわからない。
「よどみに浮かぶうたかたは、」を初めて聞いた時には、どうして泡ができるのか、全く不思議に思わなかった。流れている川しか見たことがなかったせいもあるだろう。
ただ、「よどみ」とあるから水の動きでできたとは思えず、鴨長明の見た泡はどうやってできたのだろうと思う。
やっぱり亀なのか、方丈記の研究で、今まで問題にされたことはないのだろうか。
9月2日、久しぶりに晴天で気温が上がっている。水面に以前と同じように茶色くなっているところがある。
白く見えるのが泡
9月3日、亀が水面近くを泳いでいた。ずっと見ていたら、口元から泡が出ていた。亀は水中でも呼吸できるらしい。水中の酸素が不足しているのだろうか。かいぼりで大型の魚が大量に減ったので、以前より酸素が足りないというのも変な話だ。かいぼり前には亀を見かけたことがないので、そもそも以前からいたのかも不明だ。
2014年8月31日日曜日
御嶽社の井戸
今年の正月に母と与野七福神巡りをした。与野七福神の一つの御嶽社で、井戸の再建のために寄付した人の名前が刻まれると聞いていたので、どうなったのか見に行った。
井戸の横に板が設置され、そこに名前を書いた木札が打ちつけられている。札は、出欠を示す名札と同じくらいの大きさだ。
母の名前は上段の右から数人くらいの場所にあった。朝早かったので、早い順番になったのだろう。
最後にもう一人札を置けるスペースがあった。丁度きりのいい人数にならなかったようだ。「自分も寄付しておけば、全部埋まったな」と思う。
井戸の横に板が設置され、そこに名前を書いた木札が打ちつけられている。札は、出欠を示す名札と同じくらいの大きさだ。
母の名前は上段の右から数人くらいの場所にあった。朝早かったので、早い順番になったのだろう。
最後にもう一人札を置けるスペースがあった。丁度きりのいい人数にならなかったようだ。「自分も寄付しておけば、全部埋まったな」と思う。
2014年8月29日金曜日
与野中央公園整備(鳩)
8月28日夕方、与野中央公園予定地横の高沼用水路西縁沿いの遊歩道を歩いていたら、突然耳の後ろで鳥の羽ばたきの音がした。
振り返って見たら、鳩だった。鳥の巣の近くを通ると襲われるという話を思い出し、あたりを見渡したが、鳥の巣がありそうな木が見当たらない。
不思議に思いながら歩きだしたら、また耳の後ろでせわしなくパタパタする音と気配を感じる。小走りに逃げる途中、横の方の様子が目に入った。きれいに草が刈られていて、刈られた場所の上を数羽の鳩が飛びまわっている。
それまで、そのあたりで鳩に気づいたことはなかったので、夜だけ寝にきていたのだと思う。
少し離れて同じように草が刈られているところがあり、そちらの方は、鳩より小さく、雀よりは大きそうな鳥が十羽ほどやっぱり上を旋回している。
ただの草むらかと思っていたら鳥のねぐらだったとは。突然家がなくなってびっくりしたろうにと思うと、哀れだ。
それにしても、やっぱり鳩は平和の象徴だと思う。過去に二度カラスに襲われたことがあるが、こちらは二度ともいきなり後ろから頭にぶつかってきて、だれかに殴られたのかと思った。後ろからなので、カラスのどの部分があたったのかわからないが、まさに、肉弾攻撃という感じ。それにひきかえ、鳩の方は身体の近くでパタパタするだけだった。攻撃ではなく威嚇したのだろう。
振り返って見たら、鳩だった。鳥の巣の近くを通ると襲われるという話を思い出し、あたりを見渡したが、鳥の巣がありそうな木が見当たらない。
不思議に思いながら歩きだしたら、また耳の後ろでせわしなくパタパタする音と気配を感じる。小走りに逃げる途中、横の方の様子が目に入った。きれいに草が刈られていて、刈られた場所の上を数羽の鳩が飛びまわっている。
それまで、そのあたりで鳩に気づいたことはなかったので、夜だけ寝にきていたのだと思う。
少し離れて同じように草が刈られているところがあり、そちらの方は、鳩より小さく、雀よりは大きそうな鳥が十羽ほどやっぱり上を旋回している。
ただの草むらかと思っていたら鳥のねぐらだったとは。突然家がなくなってびっくりしたろうにと思うと、哀れだ。
それにしても、やっぱり鳩は平和の象徴だと思う。過去に二度カラスに襲われたことがあるが、こちらは二度ともいきなり後ろから頭にぶつかってきて、だれかに殴られたのかと思った。後ろからなので、カラスのどの部分があたったのかわからないが、まさに、肉弾攻撃という感じ。それにひきかえ、鳩の方は身体の近くでパタパタするだけだった。攻撃ではなく威嚇したのだろう。
2014年8月24日日曜日
ベイズの定理(2)
ベイズの定理の説明で使用されている事例は、アメリカで実際にあった事件で裁判になっている。
女性が道路で突然後ろから突き飛ばされ、ショッピングバッグの上に載せていた財布を奪われる。
その直後、被害者の女性は走り去る女性を目撃、近くに住む男性が、自宅の庭で、叫び声のする方から女性が走ってきて男性が待つ自動車で走り去るのを目撃する。
犯人として捕まった女性と男性は、結婚したばかりの金髪の女性(白人で事件当日ポニーテール)と黒人男性(ひげをはやしていて当時無職)だった。近所の男性が目撃したカップルと同じ特徴を持っていて、男性は事件があった翌日に、被害金額とほぼ同額の交通反則金を支払っている。お金の出所は女性は家政婦の仕事で得たと言い、男性は賭けごとで得たと言っているが、当時二人はほとんどお金を持っていなかったはずだということがわかっている。事件当日、女性が事件現場近くで家政婦の仕事をし、夫の男性が運転する車で帰ったことを雇い主が証言している。
検察官は当時(1964年)、白人女性と黒人男性のカップルが少なく、他の犯人の特徴とあわせて、同じ特徴を持つカップルの少なさから、被告人が犯人であることを立証しようとした。
犯人でもないのに犯人と同じ特徴を持つことの確率の低さから被告人が犯人である確率が高いことを主張している。
ところが、ベイズの定理を使うと、こうは簡単にいえないことがわかる。前者と後者を足すと1(100パーセント)なら、前者が低いほど後者が高いが、両者の関係はそうはなっていないことがわかる。今問題になっている犯人であることを示す証拠を考慮しない場合の犯人である確率によって、その証拠によって犯人であることの確率が影響を受ける。
検察官の主張は、その証拠を除いて被告人が犯人である確率を二分の一、五分五分であることを暗黙の前提とした主張になっている。
裁判は二人とも有罪となったが、男性のみ上訴し、上訴審では原判決を破棄し原審に対して事実審理のやりなおしを命じている。
ジュリストの筆者は、裁判官も逆に被告人が犯人であることを示す他の証拠を無視しているので、確率の話としては誤っていると書いている。
その他の証拠と言うのは出所不明のお金を事件後被告人が所持していたという事実だ。
ただ、若い女性が夫にも世間にも知られたくない方法でお金を手に入れるのは、それほどあり得ないこととも思えない。女性が他の犯罪方法(たとえば家政婦の仕事先で財布から少しずつお金を抜き取るとか)で入手した場合でも、お金の入手方法の不明さについては充分納得のいく説明がつく。
さらに、この件は、被害者の目撃した女性と近所の男性が目撃した女性が同一人物で犯人であることを前提としているが、ベイズの定理の説明として使うだけのものとして考えずに、実際に二人が犯人かどうかを考えると、この前提はそれほど確実か疑問だ。近所の男性が目撃した二人が被告人夫婦であるのはほぼ間違いなさそうに思うが、そうであったとしても被告人夫婦が犯人であったか疑問だ。
また、女性が有罪だとしても男性は無罪である可能性も高いと思う。
女性が待っている男性のもとに行く途中に犯行に及んだ場合で、女性が自分のしたことを終始男性に話しておらず、男性も女性の無実を信じていたら、男性の方には何の犯罪も成立しないだろう。
その点で、女性の雇い主が事件があった日に現実に女性が男性の車に乗り込むところを見ているのか、女性の話や他の日の経験も合わせて証言しているのか気になる。いったん車に乗り込んでから、車を降りて、その後走って車に乗り込んだのなら、女性が犯行を行ったことと事前共謀があったのは確実だろう。
自分が陪審員だったら非常に迷うだろう。裁判にでた事実をもとにしたとしても、弁護人が主張してもいない推論に基づいて無罪にするのも迷うし(結局検察官が有罪立証に失敗したとして割り切るか?)、検察官が明らかにしていないことについて、もう少し調べたら、事実が明らかになって有罪と確信できるのにと思っても、自分の疑問に基づいて追加調査をしたり、自分が尋問できるわけではない。
結局、上訴審の裁判官は、確率論としては間違いを犯していたとしても、裁判官としては間違っていなかったのだろうと思う。
女性が道路で突然後ろから突き飛ばされ、ショッピングバッグの上に載せていた財布を奪われる。
その直後、被害者の女性は走り去る女性を目撃、近くに住む男性が、自宅の庭で、叫び声のする方から女性が走ってきて男性が待つ自動車で走り去るのを目撃する。
犯人として捕まった女性と男性は、結婚したばかりの金髪の女性(白人で事件当日ポニーテール)と黒人男性(ひげをはやしていて当時無職)だった。近所の男性が目撃したカップルと同じ特徴を持っていて、男性は事件があった翌日に、被害金額とほぼ同額の交通反則金を支払っている。お金の出所は女性は家政婦の仕事で得たと言い、男性は賭けごとで得たと言っているが、当時二人はほとんどお金を持っていなかったはずだということがわかっている。事件当日、女性が事件現場近くで家政婦の仕事をし、夫の男性が運転する車で帰ったことを雇い主が証言している。
検察官は当時(1964年)、白人女性と黒人男性のカップルが少なく、他の犯人の特徴とあわせて、同じ特徴を持つカップルの少なさから、被告人が犯人であることを立証しようとした。
犯人でもないのに犯人と同じ特徴を持つことの確率の低さから被告人が犯人である確率が高いことを主張している。
ところが、ベイズの定理を使うと、こうは簡単にいえないことがわかる。前者と後者を足すと1(100パーセント)なら、前者が低いほど後者が高いが、両者の関係はそうはなっていないことがわかる。今問題になっている犯人であることを示す証拠を考慮しない場合の犯人である確率によって、その証拠によって犯人であることの確率が影響を受ける。
検察官の主張は、その証拠を除いて被告人が犯人である確率を二分の一、五分五分であることを暗黙の前提とした主張になっている。
裁判は二人とも有罪となったが、男性のみ上訴し、上訴審では原判決を破棄し原審に対して事実審理のやりなおしを命じている。
ジュリストの筆者は、裁判官も逆に被告人が犯人であることを示す他の証拠を無視しているので、確率の話としては誤っていると書いている。
その他の証拠と言うのは出所不明のお金を事件後被告人が所持していたという事実だ。
ただ、若い女性が夫にも世間にも知られたくない方法でお金を手に入れるのは、それほどあり得ないこととも思えない。女性が他の犯罪方法(たとえば家政婦の仕事先で財布から少しずつお金を抜き取るとか)で入手した場合でも、お金の入手方法の不明さについては充分納得のいく説明がつく。
さらに、この件は、被害者の目撃した女性と近所の男性が目撃した女性が同一人物で犯人であることを前提としているが、ベイズの定理の説明として使うだけのものとして考えずに、実際に二人が犯人かどうかを考えると、この前提はそれほど確実か疑問だ。近所の男性が目撃した二人が被告人夫婦であるのはほぼ間違いなさそうに思うが、そうであったとしても被告人夫婦が犯人であったか疑問だ。
また、女性が有罪だとしても男性は無罪である可能性も高いと思う。
女性が待っている男性のもとに行く途中に犯行に及んだ場合で、女性が自分のしたことを終始男性に話しておらず、男性も女性の無実を信じていたら、男性の方には何の犯罪も成立しないだろう。
その点で、女性の雇い主が事件があった日に現実に女性が男性の車に乗り込むところを見ているのか、女性の話や他の日の経験も合わせて証言しているのか気になる。いったん車に乗り込んでから、車を降りて、その後走って車に乗り込んだのなら、女性が犯行を行ったことと事前共謀があったのは確実だろう。
自分が陪審員だったら非常に迷うだろう。裁判にでた事実をもとにしたとしても、弁護人が主張してもいない推論に基づいて無罪にするのも迷うし(結局検察官が有罪立証に失敗したとして割り切るか?)、検察官が明らかにしていないことについて、もう少し調べたら、事実が明らかになって有罪と確信できるのにと思っても、自分の疑問に基づいて追加調査をしたり、自分が尋問できるわけではない。
結局、上訴審の裁判官は、確率論としては間違いを犯していたとしても、裁判官としては間違っていなかったのだろうと思う。
2014年8月23日土曜日
ベイズの定理
論究ジュリスト2014年夏号を読んでいたら、ベイズの定理が紹介されていた。犯人が有する特徴と同じ特徴を持つ被告人が犯人である確率についての話だが、簡単にまとめるとその特徴を有する確率だけを問題にしてもダメで犯人であるかどうかの確率は、他の証拠による犯人であることの確率も合わせて考えなければダメという話だと思った。
最後の例題を読んで、NHKの『ハードナッツ』で刑事が病気に罹患しているかどうかについて主人公が話していたのは、このベイズの定理を使ったのだと気づいた。
テレビを見ていた時は、主人公の説明はすぐには理解できなかったが、見終わって、改めて自分で考えて見ると、検査で病気だという結果が出て、その検査の精度が高くても、間違いの可能性もあり、そもそも病気になる確率がものすごく低いので、検査結果が間違っていた方の人間のグループに入る確率は、意外と高いだろうということは理解できた。ただ、数式までは考えつかなかった。
それにしても、『ハードナッツ』の第一回目は、再放送を見ようと思っていたら、中止になり、もう放送しないのかと思ったら、最終回の直前の夜中に再放送をしていたのを、最終回を見終わってから気づいた。どうして最終回の前の回の放送の時にでも再放送の宣伝をしないのかと思う。(それとも自分が見逃したのか)
シャーロック・ホームズの人形劇も7時のニュースをたまたま見ていて放送するのに気付いた。HPに載せていたって、いつそのHPを見たらいいのか、そんなにしょっちゅうチェックするほど暇な人はいないだろうにと思う。
最後の例題を読んで、NHKの『ハードナッツ』で刑事が病気に罹患しているかどうかについて主人公が話していたのは、このベイズの定理を使ったのだと気づいた。
テレビを見ていた時は、主人公の説明はすぐには理解できなかったが、見終わって、改めて自分で考えて見ると、検査で病気だという結果が出て、その検査の精度が高くても、間違いの可能性もあり、そもそも病気になる確率がものすごく低いので、検査結果が間違っていた方の人間のグループに入る確率は、意外と高いだろうということは理解できた。ただ、数式までは考えつかなかった。
それにしても、『ハードナッツ』の第一回目は、再放送を見ようと思っていたら、中止になり、もう放送しないのかと思ったら、最終回の直前の夜中に再放送をしていたのを、最終回を見終わってから気づいた。どうして最終回の前の回の放送の時にでも再放送の宣伝をしないのかと思う。(それとも自分が見逃したのか)
シャーロック・ホームズの人形劇も7時のニュースをたまたま見ていて放送するのに気付いた。HPに載せていたって、いつそのHPを見たらいいのか、そんなにしょっちゅうチェックするほど暇な人はいないだろうにと思う。
2014年8月20日水曜日
バットレス構造のダム
DVD『水の旅路 坂東太郎物語』第二章、第二十話「片品川」にバットレス構造でつくられた丸沼ダムが出てくる。ダムを見た瞬間、見たことがある気がするだけでなく懐かしさを感じる。丸沼ダムを見るのは初めてなので、函館の赤川にあるダムに似ているからじゃないかと思う。そのダムは、子供の頃炊事遠足や春の遠足などで何度も見たことがある。調べると笹流ダムという名前でバットレス構造のダムとしては、日本で最初に作られたダムだった。そんなすごいダムとは知らなかった。
今まで赤川水源地のダムとしか言ったことがなく、川の名前が笹流というのも今初めて知った。赤川は川の名前ではなく地名だった。
今まで赤川水源地のダムとしか言ったことがなく、川の名前が笹流というのも今初めて知った。赤川は川の名前ではなく地名だった。
2014年8月15日金曜日
レンズの曇り
冷房が効いた建物から外に出た瞬間、眼鏡のレンズが曇った。
北海道の冬なら、寒い戸外から温かい建物に入った瞬間、よくあることだ。夏に、埼玉でレンズの曇りを経験するのは初めてなので意外だった。
次に思ったのは、いままでどうして曇らなかったのかということ。多分、湿度の問題なのだろう。八月の上旬には珍しく、ぐずついた天気だった。
北海道の冬なら、寒い戸外から温かい建物に入った瞬間、よくあることだ。夏に、埼玉でレンズの曇りを経験するのは初めてなので意外だった。
次に思ったのは、いままでどうして曇らなかったのかということ。多分、湿度の問題なのだろう。八月の上旬には珍しく、ぐずついた天気だった。
2014年8月14日木曜日
暑中見舞い
暑中お見舞い申し上げます。
といっても暑さのピークは過ぎたようだ。
8月に入って蝉の鳴き声に気づき、道路に死んだ蝉がころがっているのを見て秋が近づいたのを感じた。
蝉の季語は夏らしいが、埼玉で初めて蝉の鳴き声のすごさを知ったのが9月だったせいか、蝉の鳴き声がすると「もう秋」という感じになる。
食欲不振で夏バテしないための献立というのをテレビで見て、暑くて食欲がなくなった経験がないので、夏バテとは無縁かと思っていたら、今年は、暑くて疲れたので胃腸の働きが衰えたためか、急に吐き気がして吐いたり下痢をした。その後も消化不良気味だ。こういうのが夏バテかと思う。
最近、埼玉にも水族館があるのを知った。利根川の東遷で最初に話が出る会の川の締切があった場所の近くらしい。水はどうするのかと思ったら、海の魚の水族館ではなく川の魚の水族館のようだ。
体長一メートルくらいの鯉が見られるらしいが、それなら別所沼のかいぼりでたくさん見たので、残念ながら今ではあまり珍しくない気がする。
会の川の締切の場所はどこだろうと思ったら、川俣締切阯というものがあるのがわかった。川俣締切阯の場所は、国道122号線が利根川を超える昭和橋の西側にある。東側には道の駅がある。秩父鉄道の新郷駅からなら歩いても行けそうだ(二km を少し超えるくらい)。グーグルの地図でも見える。
実際に行ってみるのは、もう少し涼しくなってからの方がいいだろう。
といっても暑さのピークは過ぎたようだ。
8月に入って蝉の鳴き声に気づき、道路に死んだ蝉がころがっているのを見て秋が近づいたのを感じた。
蝉の季語は夏らしいが、埼玉で初めて蝉の鳴き声のすごさを知ったのが9月だったせいか、蝉の鳴き声がすると「もう秋」という感じになる。
食欲不振で夏バテしないための献立というのをテレビで見て、暑くて食欲がなくなった経験がないので、夏バテとは無縁かと思っていたら、今年は、暑くて疲れたので胃腸の働きが衰えたためか、急に吐き気がして吐いたり下痢をした。その後も消化不良気味だ。こういうのが夏バテかと思う。
最近、埼玉にも水族館があるのを知った。利根川の東遷で最初に話が出る会の川の締切があった場所の近くらしい。水はどうするのかと思ったら、海の魚の水族館ではなく川の魚の水族館のようだ。
体長一メートルくらいの鯉が見られるらしいが、それなら別所沼のかいぼりでたくさん見たので、残念ながら今ではあまり珍しくない気がする。
会の川の締切の場所はどこだろうと思ったら、川俣締切阯というものがあるのがわかった。川俣締切阯の場所は、国道122号線が利根川を超える昭和橋の西側にある。東側には道の駅がある。秩父鉄道の新郷駅からなら歩いても行けそうだ(二km を少し超えるくらい)。グーグルの地図でも見える。
実際に行ってみるのは、もう少し涼しくなってからの方がいいだろう。
2014年7月27日日曜日
痛いくらい
沢木耕太郎著『深夜特急」、第二便281頁、イランでペルセポリスの遺跡に行く。
「空は恐ろしいくらいに蒼く、陽差しは痛いくらいに強い。」と読んだところで、「さいたまは実際に日差しが強くて肌に痛みを感じるぞ」と思い、さいたまの方がすごいんじゃないかと思う。
しかし、陽射しの強さは、痛みを感じる程度だという意味で「痛いくらい」と書いているのなら、実際に痛みを感じているのかと思う。(ひざしと打っても陽差しに変換しない理由はわからない)
でも「空は恐ろしいくらいに蒼く」のところは、実際に恐ろしく思っているわけではないのは確かだと思う。それに「泣きたいくらい」という場合は、たいてい実際には泣いていないと思う。でも、このくらいの大きさと手で示したら、実際にその大きさだろう(逃がした魚は大きいという場合もあるが)。
「泣きたいくらいだった」とか「吐きたいくらいだった」と書かれると、実際に泣いたり吐いたりはしておらず、その一歩手前と言う感じを持ち、実際にそういった状況で泣いたり吐いたりしたことのある人間が読むと、筆者の意図とは逆に「なんだ、それくらいのものだったのか」と思ってしまう。それともその違いは状況の程度の違いではなく、その人間の強さの違いだろうか。「死にそうなくらい辛かった」なんて書かれると同情する気持ちより反発する感情が湧くのも、「でも、死ななかったんだよね」と思ってしまうからかもしれない。つまり、結局大したことなかったのを大げさに言っているのか、自分は頑張ったという自慢かと思ってしまうのだろう。
続いて「二千五百年分の陽光を吸いこんだ巨大な石畳からは、めまいのしそうな熱気が立ち昇ってくる。」を読んで実際にめまいがしたのかしないのかはっきりしろと少しイラッときた。自分は低血圧のせいか自律神経失調症のせいか栄養不良のせいか運動不足のせいかわからないが、身体がふらっとして立っていられず座り込んだり、目の前が真っ暗になって何も見えなくなることが実際にある。
「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」を読み、丸太造(時間が経つと乾燥と荷重によって縮み、下がるので建具の間に隙間を作っておくらしい)やコンクリート造(最初は水分が出るらしい)は新築かどうかで違いがあるらしいが、石と言うのは建築年で陽光の熱の放射について、物理的に違いがあるのだろうかと思う。それに天然石なら新しい建物でも、建物になる前に別の場所で日差しをあびているかもしれないじゃないかと思う。
結論として「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」は状況を客観的に正しく伝えるための修飾ではなく(二千五百年前に建てられたらしいという情報は得られるが)、筆者の感傷を含んだ文学的修辞だと思う。
それが悪いというのではなく、なんだか「らしくない」と感じた。
『旅する力 深夜特急ノート」の44頁に「ボクサーがトレーナーからシャープでストレートなジャブを打てと言われつづけるように、私も太田氏にセンテンスを短くしろと言われつづけた。過剰な修飾語を排せ。修飾したければ修飾語でなく前後のセンテンスで説明しろ」と書いている。
同感だ。
改めて読むと、「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」は「巨大な石畳」を修飾しているだけで、それが発する熱気の強さと客観的に関係があるとまでは言っていないのかもしれないと思う。だったら一つの文章にせず、二つに分けた方がいいんじゃないかと思う。
「空は恐ろしいくらいに蒼く、陽差しは痛いくらいに強い。」と読んだところで、「さいたまは実際に日差しが強くて肌に痛みを感じるぞ」と思い、さいたまの方がすごいんじゃないかと思う。
しかし、陽射しの強さは、痛みを感じる程度だという意味で「痛いくらい」と書いているのなら、実際に痛みを感じているのかと思う。(ひざしと打っても陽差しに変換しない理由はわからない)
でも「空は恐ろしいくらいに蒼く」のところは、実際に恐ろしく思っているわけではないのは確かだと思う。それに「泣きたいくらい」という場合は、たいてい実際には泣いていないと思う。でも、このくらいの大きさと手で示したら、実際にその大きさだろう(逃がした魚は大きいという場合もあるが)。
「泣きたいくらいだった」とか「吐きたいくらいだった」と書かれると、実際に泣いたり吐いたりはしておらず、その一歩手前と言う感じを持ち、実際にそういった状況で泣いたり吐いたりしたことのある人間が読むと、筆者の意図とは逆に「なんだ、それくらいのものだったのか」と思ってしまう。それともその違いは状況の程度の違いではなく、その人間の強さの違いだろうか。「死にそうなくらい辛かった」なんて書かれると同情する気持ちより反発する感情が湧くのも、「でも、死ななかったんだよね」と思ってしまうからかもしれない。つまり、結局大したことなかったのを大げさに言っているのか、自分は頑張ったという自慢かと思ってしまうのだろう。
続いて「二千五百年分の陽光を吸いこんだ巨大な石畳からは、めまいのしそうな熱気が立ち昇ってくる。」を読んで実際にめまいがしたのかしないのかはっきりしろと少しイラッときた。自分は低血圧のせいか自律神経失調症のせいか栄養不良のせいか運動不足のせいかわからないが、身体がふらっとして立っていられず座り込んだり、目の前が真っ暗になって何も見えなくなることが実際にある。
「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」を読み、丸太造(時間が経つと乾燥と荷重によって縮み、下がるので建具の間に隙間を作っておくらしい)やコンクリート造(最初は水分が出るらしい)は新築かどうかで違いがあるらしいが、石と言うのは建築年で陽光の熱の放射について、物理的に違いがあるのだろうかと思う。それに天然石なら新しい建物でも、建物になる前に別の場所で日差しをあびているかもしれないじゃないかと思う。
結論として「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」は状況を客観的に正しく伝えるための修飾ではなく(二千五百年前に建てられたらしいという情報は得られるが)、筆者の感傷を含んだ文学的修辞だと思う。
それが悪いというのではなく、なんだか「らしくない」と感じた。
『旅する力 深夜特急ノート」の44頁に「ボクサーがトレーナーからシャープでストレートなジャブを打てと言われつづけるように、私も太田氏にセンテンスを短くしろと言われつづけた。過剰な修飾語を排せ。修飾したければ修飾語でなく前後のセンテンスで説明しろ」と書いている。
同感だ。
改めて読むと、「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」は「巨大な石畳」を修飾しているだけで、それが発する熱気の強さと客観的に関係があるとまでは言っていないのかもしれないと思う。だったら一つの文章にせず、二つに分けた方がいいんじゃないかと思う。
2014年7月24日木曜日
深夜特急
沢木耕太郎著『深夜特急』第一便第六章「海の向こうに」のなかで、一日で会社を辞めた理由を考え、偶然始めたルポルタージュを書くという仕事が意外なほど面白かったと書いている。
そこでアメリカのハードボイルドの小説に出てくる私立探偵の言葉を引用している。
「私は、人々の生活の中に入り込み、また出て行くのが好きなのです。一定の場所で一定の人間たちと生活するのに、退屈を覚えるのです」
著者が会社に残ったとしても、「一定の場所で一定の人間たちと」仕事をしたり遊んだりする生活を送ることはできなかっただろうと思う。家族とずっと生活することができたかも疑問だ。大きな組織には転勤もあれば人事異動もある。会社を辞めなくても異動によってガラッと仕事の内容が変わることもある。転勤先で知っている人間が一人もいないことも珍しいことではないだろう。むしろ個人事業主の方が、一定の場所で一定の人間とずっと関わっていられ、同じ種類の仕事をし続けることになるのではないかと思う。
そして、普通の人は、一時的に別の人生を体験したいと思って小説を読んだり映画を見たりするのだろう。ところが、小説の中の設定が自分の人生より退屈でつまらない場合がある。今の日本を生きる主人公の場合はたいていそうだ。プロの小説家は社会人生活もなしに小説家になることが多いのだから、特別な職種の普通の人が知らない生活を知っているわけがないので、あたりまえかと思う。
その点、昔の外国の小説は、普通の人の普通の人の生活を書いていても、知らないことだらけで刺激的だ。ただ、当然読者が知っているだろうことはわざわざ書かないが、こっちは、それを知らないので、よく理解できないところも出てくる。この点は、いろいろ推理したり推測する楽しさがある。
そこでアメリカのハードボイルドの小説に出てくる私立探偵の言葉を引用している。
「私は、人々の生活の中に入り込み、また出て行くのが好きなのです。一定の場所で一定の人間たちと生活するのに、退屈を覚えるのです」
著者が会社に残ったとしても、「一定の場所で一定の人間たちと」仕事をしたり遊んだりする生活を送ることはできなかっただろうと思う。家族とずっと生活することができたかも疑問だ。大きな組織には転勤もあれば人事異動もある。会社を辞めなくても異動によってガラッと仕事の内容が変わることもある。転勤先で知っている人間が一人もいないことも珍しいことではないだろう。むしろ個人事業主の方が、一定の場所で一定の人間とずっと関わっていられ、同じ種類の仕事をし続けることになるのではないかと思う。
そして、普通の人は、一時的に別の人生を体験したいと思って小説を読んだり映画を見たりするのだろう。ところが、小説の中の設定が自分の人生より退屈でつまらない場合がある。今の日本を生きる主人公の場合はたいていそうだ。プロの小説家は社会人生活もなしに小説家になることが多いのだから、特別な職種の普通の人が知らない生活を知っているわけがないので、あたりまえかと思う。
その点、昔の外国の小説は、普通の人の普通の人の生活を書いていても、知らないことだらけで刺激的だ。ただ、当然読者が知っているだろうことはわざわざ書かないが、こっちは、それを知らないので、よく理解できないところも出てくる。この点は、いろいろ推理したり推測する楽しさがある。
2014年7月23日水曜日
住宅カプセル
平成26年7月、北浦和公園の横を歩いていて、住宅カプセルの壁が殺風景な白一色なのを見て違和感を感じた。
外壁に絵があったように思ったが、反対側だけだったろうかと思い、公園の中に入り反対側も見た。こちらも白一色だ。
初めて見た時に仮設トイレを設置したのかと思ったが、外壁が白一色になると更にその感が強まる。
どうして、白く塗りつぶしたのかはわからない。以前に撮った写真を探してみた。公園の側の壁が映っているものしか、見当たらなかったが、反対側がどうなっていたか思い出せない。建物が取り壊された空き地を見て、どんな建物が建っていたのか思い出せないのと一緒だ。
実家に帰って、久しぶりに見る町はどんどん変わっている。故郷に拘る人がいるが、何に拘っているのだろうと思う時がある。自分の子供のころと違う町に住んでいるという点では、よそに移っても程度の違いにすぎないように思うからだ。
同窓会には出ない主義だ。昔あんなに親しかった人が、今はそうではなくなったのを感じるのがいやだからだ。思い出を下手に変えたくないという気持ちだ。
将来もずっと会い続けたいと思う人とは、変化をあまり感じずにすむように、合わないまでも近況を伝えあうくらいの関係は続けていたいと思う。
平成24年5月に撮影した写真
外壁に絵があったように思ったが、反対側だけだったろうかと思い、公園の中に入り反対側も見た。こちらも白一色だ。
初めて見た時に仮設トイレを設置したのかと思ったが、外壁が白一色になると更にその感が強まる。
どうして、白く塗りつぶしたのかはわからない。以前に撮った写真を探してみた。公園の側の壁が映っているものしか、見当たらなかったが、反対側がどうなっていたか思い出せない。建物が取り壊された空き地を見て、どんな建物が建っていたのか思い出せないのと一緒だ。
実家に帰って、久しぶりに見る町はどんどん変わっている。故郷に拘る人がいるが、何に拘っているのだろうと思う時がある。自分の子供のころと違う町に住んでいるという点では、よそに移っても程度の違いにすぎないように思うからだ。
同窓会には出ない主義だ。昔あんなに親しかった人が、今はそうではなくなったのを感じるのがいやだからだ。思い出を下手に変えたくないという気持ちだ。
将来もずっと会い続けたいと思う人とは、変化をあまり感じずにすむように、合わないまでも近況を伝えあうくらいの関係は続けていたいと思う。
平成24年5月に撮影した写真

2014年7月22日火曜日
丁か半か
沢木耕太郎著『旅する力』に、「丁も半も、無限に繰り返していけば、出る確率は五分五分になってしまう。」(215P)という記述がある。
これを読んで、最近、丁より半が出る確率の方が低いと書かれた小説を読んだのを思い出した。
自分はずっと丁か半か五分五分と思っていたが、半が出る確率が低いというのを読んだ時は、それなりに納得させられてしまった。
それで、ちゃんと確率の問題として考えて見た。結果、五分五分が正しいと確信した。
人を惑わした小説は、山口瞳著『巷説天保水滸伝』(124P)、
「そんなに半にばかり張るやつがあるかよう。いいかね」
「彼の言うのは、ふたつの賽が両方とも奇数だったら、結果は丁(偶数)である。また両方とも偶数だったとしても、丁である。すなわち、奇数に奇数を加えても偶数であるし、偶数に偶数を加えても偶数(丁)である。これに反して、半(奇数)は偶数の目と奇数の目が出たときにかぎられている。」
「それは留吉のいう通りであった。ふたつの賽をふって出る目の種類は二十一通りである。このうち十二通りが丁であり、九通りが半である。つまり、四対三の比率で丁となるから、丁に賭けた方が有利なのである。」
二十一通りがそれぞれ同じ確率で出るのなら、その通りだ。この二十一通りと言うのは、一と二が出た場合と二と一が出た場合を同じ種類と考ええる考え方だ。ちょっと考えると、この組み合わせが出る確率と一と一が出る確率が同じではないことがすぐわかる。
確率の問題として考えるなら、三十六通りの出方があり、丁と半の出方は、ともに十八通りあるので、丁と半が出る比率は同じとなる。
山口瞳本人が勘違いしていたのか、文学表現として、登場人物が勘違いしていることを示したかっただけなのかは、断定できない。
小説は、登場人物が考えていることか、作者が考えていることかよくわからない場合がある。普通は、作者が考えている部分で正しい答えがあることについて、わざと間違えたことを書くとは思わない。でも作者がどこまで取材して書いているかはわからないので、書いてあることをうのみにして受け売りで他人に話すのは要注意だろう。
これを読んで、最近、丁より半が出る確率の方が低いと書かれた小説を読んだのを思い出した。
自分はずっと丁か半か五分五分と思っていたが、半が出る確率が低いというのを読んだ時は、それなりに納得させられてしまった。
それで、ちゃんと確率の問題として考えて見た。結果、五分五分が正しいと確信した。
人を惑わした小説は、山口瞳著『巷説天保水滸伝』(124P)、
「そんなに半にばかり張るやつがあるかよう。いいかね」
「彼の言うのは、ふたつの賽が両方とも奇数だったら、結果は丁(偶数)である。また両方とも偶数だったとしても、丁である。すなわち、奇数に奇数を加えても偶数であるし、偶数に偶数を加えても偶数(丁)である。これに反して、半(奇数)は偶数の目と奇数の目が出たときにかぎられている。」
「それは留吉のいう通りであった。ふたつの賽をふって出る目の種類は二十一通りである。このうち十二通りが丁であり、九通りが半である。つまり、四対三の比率で丁となるから、丁に賭けた方が有利なのである。」
二十一通りがそれぞれ同じ確率で出るのなら、その通りだ。この二十一通りと言うのは、一と二が出た場合と二と一が出た場合を同じ種類と考ええる考え方だ。ちょっと考えると、この組み合わせが出る確率と一と一が出る確率が同じではないことがすぐわかる。
確率の問題として考えるなら、三十六通りの出方があり、丁と半の出方は、ともに十八通りあるので、丁と半が出る比率は同じとなる。
山口瞳本人が勘違いしていたのか、文学表現として、登場人物が勘違いしていることを示したかっただけなのかは、断定できない。
小説は、登場人物が考えていることか、作者が考えていることかよくわからない場合がある。普通は、作者が考えている部分で正しい答えがあることについて、わざと間違えたことを書くとは思わない。でも作者がどこまで取材して書いているかはわからないので、書いてあることをうのみにして受け売りで他人に話すのは要注意だろう。
2014年7月18日金曜日
佐々木マキと村上春樹(3)
『図書館奇譚』を読んでいたら、「とても深くてうす暗い地下室で、ドアを開けたらそのままブラジルにでも出てしまいそうな気がする。」という文章に出会った。(文庫版201頁)
「ブラジルの人、聞こえますか?」は、笑えるが、春樹のこの文章に笑いは感じない。なんだか残念な人のような気がする。多分マジで書いたのだと思う。こういう文章表現が出てくるところが、村上春樹の評価を難しくさせるのだと思う。
『ふしぎな図書館』の羊男の絵と『羊男のクリスマス』の羊男の絵は、同じ絵だ。文章も『ふしぎな図書館』は『図書館奇譚』を子供向けに手直ししたという感じだ。
『ふしぎな図書館』の方は、「ぼくはあきらめて階段をおりた。長い階段だった。そのままブラジルまでとどきそうな階段だった。」(22頁)となっている。
主人公は図書館の地下で老人に会い、老人に連れられて更に下に降りて羊男に会う。
『図書館奇譚』では、最初に地下に降りて、ドアを開けるところでブラジルの表現が使われ(川端康成の『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」からの連想だろうか?)、『ふしぎな図書館』では、老人に連れられ更に下に降りる階段でブラジルの表現が使われている。『図書館奇譚』で、この階段のところは「僕はあきらめて階段を下りつづけた。おそろしく長い階段だった。まるでインカの井戸みたいだ。」と表現されている。
なぜ、深い井戸ではなく、「インカの井戸」なのだろうか?オシャレなカタカナで普通の人は「それ知らないだろう?」という言葉で修飾されているのが村上春樹の文体だ。そして、どこか有名な文学を真似たように感じられるところがある。
「ブラジルの人、聞こえますか?」は、笑えるが、春樹のこの文章に笑いは感じない。なんだか残念な人のような気がする。多分マジで書いたのだと思う。こういう文章表現が出てくるところが、村上春樹の評価を難しくさせるのだと思う。
『ふしぎな図書館』の羊男の絵と『羊男のクリスマス』の羊男の絵は、同じ絵だ。文章も『ふしぎな図書館』は『図書館奇譚』を子供向けに手直ししたという感じだ。
『ふしぎな図書館』の方は、「ぼくはあきらめて階段をおりた。長い階段だった。そのままブラジルまでとどきそうな階段だった。」(22頁)となっている。
主人公は図書館の地下で老人に会い、老人に連れられて更に下に降りて羊男に会う。
『図書館奇譚』では、最初に地下に降りて、ドアを開けるところでブラジルの表現が使われ(川端康成の『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」からの連想だろうか?)、『ふしぎな図書館』では、老人に連れられ更に下に降りる階段でブラジルの表現が使われている。『図書館奇譚』で、この階段のところは「僕はあきらめて階段を下りつづけた。おそろしく長い階段だった。まるでインカの井戸みたいだ。」と表現されている。
なぜ、深い井戸ではなく、「インカの井戸」なのだろうか?オシャレなカタカナで普通の人は「それ知らないだろう?」という言葉で修飾されているのが村上春樹の文体だ。そして、どこか有名な文学を真似たように感じられるところがある。
佐々木マキと村上春樹(2)
『カンガルー日和』には挿絵があり、一連の村上春樹の長編の表紙と同じ雰囲気の絵になっている。
絵本作家ではなく、イラストレーターが書いたような絵だ。絵を見ただけでは、『やっぱりおおかみ』を書いたのと同じ人間とは想像もつかない。
最初の短編『カンガルー日和』と最後の『図書館奇譚』を読んだだけだが、挿絵を見て、それから感じる自分のイメージを楽しんだ方がいいように思う。
作者もあとがきで「お気に入られなかったところは佐々木マキさんの素敵な絵をじっと眺めて、それで許してください。」と書いている。
AとBは気が合って、BとCは気が合っても、AとCが気が合うとは限らない、そんな感じだ。
『やっぱりおおかみ』は大人になってから本屋でみかけて買った本だが、気にいったのは、おおかみが「け」というところ。
村上春樹の小説で、主人公が「け」というようなものがあるのか期待したが、ちょっと違うようだ。村上春樹の主人公が孤独でちょっとクールで、日本の小説にありがちな貧乏くさく妙にじめじめとしたところがないのは、いいのだが、「け」から感じる力強さがないように思う。そして、どこか精神を病んでいるような、病気までいかない、その一歩手前のような人間が決まって出てくるが、それも、また自己主張が弱く他人に遠慮しすぎで気がめいるだけだ。
絵本作家ではなく、イラストレーターが書いたような絵だ。絵を見ただけでは、『やっぱりおおかみ』を書いたのと同じ人間とは想像もつかない。
最初の短編『カンガルー日和』と最後の『図書館奇譚』を読んだだけだが、挿絵を見て、それから感じる自分のイメージを楽しんだ方がいいように思う。
作者もあとがきで「お気に入られなかったところは佐々木マキさんの素敵な絵をじっと眺めて、それで許してください。」と書いている。
AとBは気が合って、BとCは気が合っても、AとCが気が合うとは限らない、そんな感じだ。
『やっぱりおおかみ』は大人になってから本屋でみかけて買った本だが、気にいったのは、おおかみが「け」というところ。
村上春樹の小説で、主人公が「け」というようなものがあるのか期待したが、ちょっと違うようだ。村上春樹の主人公が孤独でちょっとクールで、日本の小説にありがちな貧乏くさく妙にじめじめとしたところがないのは、いいのだが、「け」から感じる力強さがないように思う。そして、どこか精神を病んでいるような、病気までいかない、その一歩手前のような人間が決まって出てくるが、それも、また自己主張が弱く他人に遠慮しすぎで気がめいるだけだ。
佐々木マキと村上春樹
図書館の新書コーナーに置いてある本の表紙の絵を一目見て、自分が持っている絵本『やっぱりおおかみ』の主人公のオオカミと同じ絵だと気づいた。
本の題名が『佐々木マキ』で、その絵本の作者について書かれた本だとわかり、読んでみることにした。
本を読み、佐々木マキが村上春樹の本の表紙の絵も書いていると知り驚く。村上春樹が佐々木マキの絵を望んだとのこと。これで、村上春樹に対する評価が変わった。
本を読むと、村上春樹が文章を書き、佐々木マキが挿絵を担当して、『ふしぎな図書館』と『羊男のクリスマス』をつくり、『ふしぎな図書館』は、『カンガルー日和』に入っている『図書館奇譚』に手を入れたものだとわかった。
『ふしぎな図書館』と『羊男のクリスマス』と『カンガルー日和』を借り、村上春樹にとって羊男とは何なのかと思い、『羊をめぐる冒険』も一緒に借りた。
本の題名が『佐々木マキ』で、その絵本の作者について書かれた本だとわかり、読んでみることにした。
本を読み、佐々木マキが村上春樹の本の表紙の絵も書いていると知り驚く。村上春樹が佐々木マキの絵を望んだとのこと。これで、村上春樹に対する評価が変わった。
本を読むと、村上春樹が文章を書き、佐々木マキが挿絵を担当して、『ふしぎな図書館』と『羊男のクリスマス』をつくり、『ふしぎな図書館』は、『カンガルー日和』に入っている『図書館奇譚』に手を入れたものだとわかった。
『ふしぎな図書館』と『羊男のクリスマス』と『カンガルー日和』を借り、村上春樹にとって羊男とは何なのかと思い、『羊をめぐる冒険』も一緒に借りた。
2014年7月14日月曜日
田山花袋
田山花袋の書いた「東京とその近郊」を読んだ。東京の近郊を東西南北に分けてその特徴を書いている。
西は武蔵野だ。武蔵野は荒川と多摩川に挟まれた地域だ。今でも川沿いに整備された緑道を歩くとその雰囲気を味わえるように感じる。
東は川が特徴だ。川が多いのは今も変わっていないが、白帆はもう見られない。田山花袋が知っているのは、汽車と蒸気船と高瀬舟が同時に存在する時代だ。
田山花袋は、こう書いている。
白帆は東郊の特色だ。荒川にも中川にも墨田川にもある。しかし小利根ほど白帆の多いところはなかった。
『どうだ!あの帆!』
『川がすべて帆だ』
『皆な上流に登って行くんだね』
『とにかく奇観だ』
汽車の窓からこんなことを言ったことがあったのを私は覚えている。
―略―
この川を往来する汽船通運丸のことも此処に書きたいと思う。
田山花袋の書いている小利根は江戸川のことだ。花袋の『布団』は読んだことはないが、この「東京とその近郊」はおもしろかった。
西は武蔵野だ。武蔵野は荒川と多摩川に挟まれた地域だ。今でも川沿いに整備された緑道を歩くとその雰囲気を味わえるように感じる。
東は川が特徴だ。川が多いのは今も変わっていないが、白帆はもう見られない。田山花袋が知っているのは、汽車と蒸気船と高瀬舟が同時に存在する時代だ。
田山花袋は、こう書いている。
白帆は東郊の特色だ。荒川にも中川にも墨田川にもある。しかし小利根ほど白帆の多いところはなかった。
『どうだ!あの帆!』
『川がすべて帆だ』
『皆な上流に登って行くんだね』
『とにかく奇観だ』
汽車の窓からこんなことを言ったことがあったのを私は覚えている。
―略―
この川を往来する汽船通運丸のことも此処に書きたいと思う。
田山花袋の書いている小利根は江戸川のことだ。花袋の『布団』は読んだことはないが、この「東京とその近郊」はおもしろかった。
別所沼のかいぼり(噴水復帰)
7月14日、別所沼に噴水が戻っていた。かいぼりの作業もこれで終わったのだろう。効果のほうは、期待通りだったのかはよくわからない。水質はあまり変わっていないように思う。別所沼は湧水ではなく、川から水を引いているのだろうから、沼の水質も川の水質次第なのだろうと思う。川の水質は、かいぼり作業の前後で変化はないので、かいぼり後でそんなに変わり映えがしないように感じるのもあたりまえかもしれない。
7月15日、昨日噴水が傾いていたような気がしたが、今日見たら、気のせいではなかった。水深が以前より低いのが関係あるのかないのか?
写真を見ると「おっとっと」としか言いようがない。
自分のHPのありし日の噴水

ところで、写真の中央に映っているマンションは別所沼公園の景観にマッチしているだろうか。今、このマンションの向かって左手に葬祭場が建設されようとしている。葬祭場の建設に反対する署名活動が別所沼公園内で行われていた。なぜ、ダメなのか理解できないので署名は断った。マンションに「別所沼の環境にふさわしい施設を!」と書かれた幕が張られている。このマンションを別所沼の環境にふさわしいと感じている人たちがしている運動なら、あまり期待できない。
「毎日、葬式」と書かれた幟が出ていたのも見た。(その後撤去された)マンション住民は住環境を考えているのかもしれないが、公園利用者の利害とは必ずしも一致しない。
自分は、むしろ葬祭場なら、良い方ではないかと思う。民間業者が経営するのでも、施設の性質からして公共的な建物だ。別所沼の景観は、たまたま接する土地の所有権を取得した者だけが、享受するものではないように思う。
7月16日、噴水の傾きが直ったかと思ったら、ますます傾いている。地盤の不等沈下を連想した。もしかしたら、ゴミ(あのあたりに古いボートがあったように思う)を取り除いたために、足場を固めていたものが無くなったせいかとも思う。
7月19日、とうとう噴水が岸に揚げられていた。もともと噴水は二基あったようだ。公園内の新しい案内板が一基になっているので、二基に戻ることはないと思うが、このまま噴水無しに終わるのだろうか?
8月26日朝、噴水が戻っていた。ちゃんと水平に水を噴き出している。前日設置したようだ。予感はしていた。昨日の朝、岸に置かれていた噴水の円盤の部分がいったん姿を消した後、戻っていたからだ。不具合を調整していたのだろう。地盤のせいではなかったのか?
緑のシートはそのままで、浮島のかわりになっている。時々その上で鳥が羽を休めている。
あとは、水深が戻れば以前と同じだ。これからの台風による大雨でなんとかなるだろう。
もっとも、全部以前と同じではかいぼりをした意味がない。今はアオコが見えるようだ。色が緑なので、以前の茶色よりはましだが、水質が改善されたとはいえないようだ。もっとも、かいぼりといっても、肝心の底の土を掻きだしていないので、かいぼりをしても意味がなかったのかは、わからない。
7月15日、昨日噴水が傾いていたような気がしたが、今日見たら、気のせいではなかった。水深が以前より低いのが関係あるのかないのか?
写真を見ると「おっとっと」としか言いようがない。
自分のHPのありし日の噴水

ところで、写真の中央に映っているマンションは別所沼公園の景観にマッチしているだろうか。今、このマンションの向かって左手に葬祭場が建設されようとしている。葬祭場の建設に反対する署名活動が別所沼公園内で行われていた。なぜ、ダメなのか理解できないので署名は断った。マンションに「別所沼の環境にふさわしい施設を!」と書かれた幕が張られている。このマンションを別所沼の環境にふさわしいと感じている人たちがしている運動なら、あまり期待できない。
「毎日、葬式」と書かれた幟が出ていたのも見た。(その後撤去された)マンション住民は住環境を考えているのかもしれないが、公園利用者の利害とは必ずしも一致しない。
自分は、むしろ葬祭場なら、良い方ではないかと思う。民間業者が経営するのでも、施設の性質からして公共的な建物だ。別所沼の景観は、たまたま接する土地の所有権を取得した者だけが、享受するものではないように思う。
7月16日、噴水の傾きが直ったかと思ったら、ますます傾いている。地盤の不等沈下を連想した。もしかしたら、ゴミ(あのあたりに古いボートがあったように思う)を取り除いたために、足場を固めていたものが無くなったせいかとも思う。
7月19日、とうとう噴水が岸に揚げられていた。もともと噴水は二基あったようだ。公園内の新しい案内板が一基になっているので、二基に戻ることはないと思うが、このまま噴水無しに終わるのだろうか?
8月26日朝、噴水が戻っていた。ちゃんと水平に水を噴き出している。前日設置したようだ。予感はしていた。昨日の朝、岸に置かれていた噴水の円盤の部分がいったん姿を消した後、戻っていたからだ。不具合を調整していたのだろう。地盤のせいではなかったのか?
緑のシートはそのままで、浮島のかわりになっている。時々その上で鳥が羽を休めている。
あとは、水深が戻れば以前と同じだ。これからの台風による大雨でなんとかなるだろう。
もっとも、全部以前と同じではかいぼりをした意味がない。今はアオコが見えるようだ。色が緑なので、以前の茶色よりはましだが、水質が改善されたとはいえないようだ。もっとも、かいぼりといっても、肝心の底の土を掻きだしていないので、かいぼりをしても意味がなかったのかは、わからない。
高沼用水導水路(水草)
けやき広場の円テーブル
2014年7月9日水曜日
夏祭り
2014年7月5日土曜日
トリトマ
2014年7月3日木曜日
社会と理科
最近、関東の河川についての本で、利根川はもともと東京湾に注いでいたが、それを江戸時代に銚子で海に注ぐようにしたというのを読んだ。これは、今初めて知ったことではなく、子供の頃何かで読むか学校で習って知ったかすかな記憶がある。
地理か歴史かと思い、小学校時代なら、社会科として勉強したのだろうと思う。
扇状地や川の蛇行について読み、これは地学だなと思い、川の流速やその力について読むと物理の話かとも思う。地学も物理も理科だが、社会科と理科を相互に関連付けて学ぶ機会はなかったなと思う。
学生時代は、傾向として、歴史と物理はおもしろく、地理と地学は退屈という感じがした。前者は「どうしてそうなるのか、なったのか」という物語があるのに対して、後者は単に暗記するだけのことが多かったからだ。
地理と地学が本当はおもしろいのだと気付いたのは、大人になって、旅行先のことを自分でいろいろ調べるようになってからだ。見どころや特産物を調べると、自然に歴史や地理を知り、更に掘り下げると地質や気候の話にまでなる。
一枚の地図が小説を読むより面白いことがある。
地理か歴史かと思い、小学校時代なら、社会科として勉強したのだろうと思う。
扇状地や川の蛇行について読み、これは地学だなと思い、川の流速やその力について読むと物理の話かとも思う。地学も物理も理科だが、社会科と理科を相互に関連付けて学ぶ機会はなかったなと思う。
学生時代は、傾向として、歴史と物理はおもしろく、地理と地学は退屈という感じがした。前者は「どうしてそうなるのか、なったのか」という物語があるのに対して、後者は単に暗記するだけのことが多かったからだ。
地理と地学が本当はおもしろいのだと気付いたのは、大人になって、旅行先のことを自分でいろいろ調べるようになってからだ。見どころや特産物を調べると、自然に歴史や地理を知り、更に掘り下げると地質や気候の話にまでなる。
一枚の地図が小説を読むより面白いことがある。
2014年6月28日土曜日
ドリー
『多崎つくる』を読んだ後、おもしろいのかつまらないのかよくわからず、他の人はどんなことを感じたのだろうと検索してみた。
アマゾンで感想を読んだら、その感想がすごくおもしろく、たくさんの人が同様におもしろいと思ったようだ。それで、ドリー著『村上春樹いじり』という本が出版され、驚いたことにさいたま市図書館に二冊入っていた。
映画の予告を見て、その予告シーンくらいのが他にもたくさんある、あるいはもっとすごいことがあると期待して、結局予告のシーンがその映画のマックスで、他のシーンはそれよりおとなしく、期待しすぎて却ってがっかりすることがある。
本は春樹のデビュー作から順番に感想が書かれていて、最新の作品について書かれたもの以外は、本を出すために改めて読んで書きおろしたものらしい。
本を読むとアマゾンで読んだものよりは、かなりおとなしい。だんだん眠くなってきたところで、107頁で声を出して笑ってしまった。これを読めただけでこの本を読んだかいがあった。ここの部分は『ノルウェイの森』について書かれたもので、やっぱり『ノルウェイの森』か、と思ってしまった。
登場人物が互いに相手を傷つけたのではないかと堂々巡りの会話を続けていて「いいかげんにしろ、顔を洗って出直してこい」という気分になるらしい。
これが「もう・・だんだんイライラしてきますよ。コミュニケーションなんて傷つけあいじゃないですか!!!本来は!そこからスタートですよ!こんなガラスのハートをペロペロ舐め合ってるようじゃ、心もそりゃ脆くなるよ!!!一回、2ちゃんで叩かれて、ハートを鍛えたほうがいいねこいつらは!」と表現されている。
理由も言わずに突然音信不通になるのは、『多崎つくる』に始まったことではなく『ノルウェイの森』から既にそうらしい。これは、自分が相手にきついことを言って傷つけたり、逆にきついことを言われて自分が傷つくのを避けたいためらしい。
何にもわからず音信不通にされる方がよほど傷つく。理由も言わずに音信不通になった相手は自分のために最後に一回傷つくことを我慢する親切心すらも持ってくれなかったのだなぁと思う。
アマゾンで感想を読んだら、その感想がすごくおもしろく、たくさんの人が同様におもしろいと思ったようだ。それで、ドリー著『村上春樹いじり』という本が出版され、驚いたことにさいたま市図書館に二冊入っていた。
映画の予告を見て、その予告シーンくらいのが他にもたくさんある、あるいはもっとすごいことがあると期待して、結局予告のシーンがその映画のマックスで、他のシーンはそれよりおとなしく、期待しすぎて却ってがっかりすることがある。
本は春樹のデビュー作から順番に感想が書かれていて、最新の作品について書かれたもの以外は、本を出すために改めて読んで書きおろしたものらしい。
本を読むとアマゾンで読んだものよりは、かなりおとなしい。だんだん眠くなってきたところで、107頁で声を出して笑ってしまった。これを読めただけでこの本を読んだかいがあった。ここの部分は『ノルウェイの森』について書かれたもので、やっぱり『ノルウェイの森』か、と思ってしまった。
登場人物が互いに相手を傷つけたのではないかと堂々巡りの会話を続けていて「いいかげんにしろ、顔を洗って出直してこい」という気分になるらしい。
これが「もう・・だんだんイライラしてきますよ。コミュニケーションなんて傷つけあいじゃないですか!!!本来は!そこからスタートですよ!こんなガラスのハートをペロペロ舐め合ってるようじゃ、心もそりゃ脆くなるよ!!!一回、2ちゃんで叩かれて、ハートを鍛えたほうがいいねこいつらは!」と表現されている。
理由も言わずに突然音信不通になるのは、『多崎つくる』に始まったことではなく『ノルウェイの森』から既にそうらしい。これは、自分が相手にきついことを言って傷つけたり、逆にきついことを言われて自分が傷つくのを避けたいためらしい。
何にもわからず音信不通にされる方がよほど傷つく。理由も言わずに音信不通になった相手は自分のために最後に一回傷つくことを我慢する親切心すらも持ってくれなかったのだなぁと思う。
2014年6月25日水曜日
多崎つくる
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、これまで、村上春樹の小説を読んだことがなかったが、あまりの評判にどんなものか一度読んでみようと思った。
去年(平成23年4月)に図書館に予約して今年の6月に順番がきた。その間にもう新作が出たらしい。
読みやすく、それなりにおもしろい。推理小説やミステリーでなくても謎を提示して、その謎に対する興味で読者をつなぎとめることは、普通の小説でもよくあることだ。
主人公(つくる)は自宅で、遊びに来た友人(灰田)の語る不思議な内容の話を聞き、話が長くなって午前一時に寝た(友人は泊った)。
96頁「その夜、いくつかの奇妙なことが起こった。」その後、場面が変わり112頁に続きが語られる。
「暗闇の中ではっと目を覚ました。」「身体全体が動かなくなっている。」「身体に力を入れようと思っても、それができない。意識と筋肉がひとつに繋がらないのだ。」「自分以外の誰かが室内にいることが気配でわかる。」「誰かが闇の中に潜んで、彼の姿を見つめている。」「それが灰田であることがつくるにはなぜかわかった。」
それって金縛りでしょ、と思い、がっかりする。奇妙でもなんでもない。
113頁、「本物の灰田は、その現実の肉体は、隣室のソファの上でぐっすり眠っており、ここにいるのはそこから離脱してやってきた灰田の分身のようなものなのではないか。そういう気がした。」
100パーセント断言するが、灰田は現実に主人公の部屋に入ってもいないし、灰田の分身のようなものもきていない。
よく金縛りを経験する人間にとっては、奇妙にも感じないし、分身うんぬんは、たわごとでしかない。
去年(平成23年4月)に図書館に予約して今年の6月に順番がきた。その間にもう新作が出たらしい。
読みやすく、それなりにおもしろい。推理小説やミステリーでなくても謎を提示して、その謎に対する興味で読者をつなぎとめることは、普通の小説でもよくあることだ。
主人公(つくる)は自宅で、遊びに来た友人(灰田)の語る不思議な内容の話を聞き、話が長くなって午前一時に寝た(友人は泊った)。
96頁「その夜、いくつかの奇妙なことが起こった。」その後、場面が変わり112頁に続きが語られる。
「暗闇の中ではっと目を覚ました。」「身体全体が動かなくなっている。」「身体に力を入れようと思っても、それができない。意識と筋肉がひとつに繋がらないのだ。」「自分以外の誰かが室内にいることが気配でわかる。」「誰かが闇の中に潜んで、彼の姿を見つめている。」「それが灰田であることがつくるにはなぜかわかった。」
それって金縛りでしょ、と思い、がっかりする。奇妙でもなんでもない。
113頁、「本物の灰田は、その現実の肉体は、隣室のソファの上でぐっすり眠っており、ここにいるのはそこから離脱してやってきた灰田の分身のようなものなのではないか。そういう気がした。」
100パーセント断言するが、灰田は現実に主人公の部屋に入ってもいないし、灰田の分身のようなものもきていない。
よく金縛りを経験する人間にとっては、奇妙にも感じないし、分身うんぬんは、たわごとでしかない。
2014年6月24日火曜日
千葉県立関宿城博物館(2)
博物館の建物を見て弘前城を思い出しだ。建物の規模が似て見えただけでなく、坂道をあがったところに建っているせいもある。
帰ってから、スーパー堤防の堤防の上に建っているので高いところに建っているのだと気づいた。本で説明を読んだことはあったが、実際にスーパー堤防の上に建っている建物を見たのは初めてだと思う。
逆川と今の河道の関係が本を見ただけではよくわからなかったが、今回、博物館に行きよくわかった。
帰ってから、スーパー堤防の堤防の上に建っているので高いところに建っているのだと気づいた。本で説明を読んだことはあったが、実際にスーパー堤防の上に建っている建物を見たのは初めてだと思う。
逆川と今の河道の関係が本を見ただけではよくわからなかったが、今回、博物館に行きよくわかった。
2014年6月23日月曜日
千葉県立関宿城博物館
江戸川と利根川の分流点の内側に関宿(せきやど)城を模した建物の博物館があるのを知り行ってきた。
東武野田線の川間駅から博物館経由の路線バスに乗った。関東平野の中央にあるにも関わらず、半島の突端に入って行くような感覚だ。
博物館の展示を見た後で、博物館の裏にある日本庭園の中を歩いた。庭園の中から外を見ると兎の置き物が見える。門を通って外に出ると公園になっていて、遊具や動物の置き物があった。
管理橋を渡り中の島公園に行くと江戸川の水門が見える。バスの本数が少なく、時間待ちの間に博物館のエントランスホールでビデオを見た。六本ほどあり、一本15分くらいで、二本見たところでいい時間になった。
天気の良い日はお城の横に富士山が見えるらしい。合成のイメージ写真かと思ったら、現実の風景のようだ。また、来てもいいなと思う。
東武野田線の川間駅から博物館経由の路線バスに乗った。関東平野の中央にあるにも関わらず、半島の突端に入って行くような感覚だ。
博物館の展示を見た後で、博物館の裏にある日本庭園の中を歩いた。庭園の中から外を見ると兎の置き物が見える。門を通って外に出ると公園になっていて、遊具や動物の置き物があった。
管理橋を渡り中の島公園に行くと江戸川の水門が見える。バスの本数が少なく、時間待ちの間に博物館のエントランスホールでビデオを見た。六本ほどあり、一本15分くらいで、二本見たところでいい時間になった。
天気の良い日はお城の横に富士山が見えるらしい。合成のイメージ写真かと思ったら、現実の風景のようだ。また、来てもいいなと思う。
2014年6月19日木曜日
木下(きおろし)街道
山本忠良、『利根川と木下河岸』に鮮魚を銚子から江戸に運ぶルートがでている。
銚子から利根川を船で遡り、木下河岸から陸路で行徳まで運ぶ。夏の場合は生簀にいれて境河岸経由で船で運んだようだ。
木下から行徳に運ぶよりも布佐から松戸を目指すルートの方が優勢だったらしい。今の千葉県観光マップを見ると、県道59号線に木下街道と書かれている。こちらが昔の「行徳みち」になるらしい。
本には、「松戸みち」沿いの庚申塔が紹介されている。見に行きたいが、この本の記述だけでは探し出すのは大変そうだ。
最近の観光ガイドは、ほとんど飲食店ガイドのようなものなので、歴史的なことも少し書いてほしいように思う。
今あるがままのものを見るだけでは、多分どこの県道を歩いてもたいして違いはなさそうに思う。
銚子から利根川を船で遡り、木下河岸から陸路で行徳まで運ぶ。夏の場合は生簀にいれて境河岸経由で船で運んだようだ。
木下から行徳に運ぶよりも布佐から松戸を目指すルートの方が優勢だったらしい。今の千葉県観光マップを見ると、県道59号線に木下街道と書かれている。こちらが昔の「行徳みち」になるらしい。
本には、「松戸みち」沿いの庚申塔が紹介されている。見に行きたいが、この本の記述だけでは探し出すのは大変そうだ。
最近の観光ガイドは、ほとんど飲食店ガイドのようなものなので、歴史的なことも少し書いてほしいように思う。
今あるがままのものを見るだけでは、多分どこの県道を歩いてもたいして違いはなさそうに思う。
2014年6月18日水曜日
利根川高瀬舟
渡辺貢二、『利根川高瀬舟』、利根川高瀬舟に実際に乗っていた人から直接話を聞いている。
昭和五十年代なら、まだ明治三十年代生まれの人に話を聞くことができた。見沼代用水路に昭和五年まで船が行き来していたのを知ったときは、自分の母親が昭和五年生まれなので、自分が地元出身なら、子供のころに祖父母からどんな様子だったか話を聞けたのに残念だと思ったのを思い出した。
利根川の高瀬舟は薄い板で作られ一言で言うと「華奢な船」ということになるようだ。どうしてかというと水深が浅いところを通るので、なるべく沈まないように軽くするのだそうだ。
水深が浅いので櫂を使えず、水底の障害物に気を付けなければならないので、帆を使える場所も限られる。そこで竿で水底を押して動かすので、船を走らせるのではなく「歩かせる」という言い方になる。
国の方針が抵水対策から高水対策に変わり河川法が制定されたというのを読んでも今までピンとこなかった。船の交通のためには一定の水量を維持しなければならないので、抵水(渇水)になる場合の対策が必要になるが、洪水被害対策の場合は、水量が増量する場合、つまり水位が高くなる場合の対策が必要になってくるという意味だとわかり、ようやくピンときた。
自分の子供のころは、既に船の交通を考える必要がなくなった時期で、河川対策といったら川の水が溢れて被害がでないようにすることしかないと自分でも気がつかずに思い込んでいたようだ。
昭和五十年代なら、まだ明治三十年代生まれの人に話を聞くことができた。見沼代用水路に昭和五年まで船が行き来していたのを知ったときは、自分の母親が昭和五年生まれなので、自分が地元出身なら、子供のころに祖父母からどんな様子だったか話を聞けたのに残念だと思ったのを思い出した。
利根川の高瀬舟は薄い板で作られ一言で言うと「華奢な船」ということになるようだ。どうしてかというと水深が浅いところを通るので、なるべく沈まないように軽くするのだそうだ。
水深が浅いので櫂を使えず、水底の障害物に気を付けなければならないので、帆を使える場所も限られる。そこで竿で水底を押して動かすので、船を走らせるのではなく「歩かせる」という言い方になる。
国の方針が抵水対策から高水対策に変わり河川法が制定されたというのを読んでも今までピンとこなかった。船の交通のためには一定の水量を維持しなければならないので、抵水(渇水)になる場合の対策が必要になるが、洪水被害対策の場合は、水量が増量する場合、つまり水位が高くなる場合の対策が必要になってくるという意味だとわかり、ようやくピンときた。
自分の子供のころは、既に船の交通を考える必要がなくなった時期で、河川対策といったら川の水が溢れて被害がでないようにすることしかないと自分でも気がつかずに思い込んでいたようだ。
2014年6月17日火曜日
2014年6月8日日曜日
ハリー・ポッター(7)
第七巻『死の秘宝』、分霊箱を探す旅に出る。ダンブルドアが遺言でハーマイオニーに残した本が、死の秘宝に関したもので、ハリーは分霊箱探しと死の秘宝探しのいずれを優先すべきか迷う。
上巻、ハリーがダーズリー家を脱出し、隠れ穴に行く。隠れ穴でのビルとフラーの結婚式の最中に、死喰い人の襲撃を受ける。
ハリー達三人は逃れてブラック家に隠れる。そこで、分霊箱のロケットが魔法省に勤めるアンブリッジが持っていることを知る。
魔法省に入り込みロケットを手に入れたが、分霊箱の影響を受けたロンはハリーと言い争いになり、分霊箱探しの旅から脱落する。
ハリーとハーマイオニーは、ハリーの両親が死んだ家があり、ダンブルドアの故郷でもあるゴドリックの谷に行く。ダンブルドアの若いころを知る老魔女バチルダを訪ねるが、バチルダに化けた蛇に襲われる。逃走の際にハリーの杖が折れる。
ロンが戻って来る。誰が出したのかわからない守護霊の牝鹿に導かれてグリフィンドールの剣を見つけ、ロンはその剣でロケットを破壊する。
下巻、ルーナの父がダンブルドアが残した本について何か知っていると考え家を訪ねる。ルーナを人質にとられていたルーナの父は死喰い人に通報したが、三人はその場を逃れる。
三人は、賞金稼ぎの人さらいにつかまり、死喰い人のもと(マルフォイ邸)に連れていかれる。そこに囚われていた他の囚人と一緒にしもべ妖精のドビーに救出される。その際にハリーはドラコの杖を奪う。
マルフォイ邸で聞いた会話から、グリンゴッツ銀行の金庫に分霊箱が預けられていると推理し、銀行の金庫破りをする。そこで、分霊箱のカップを手に入れるが剣を小鬼に持ち去られる。
分霊箱を奪われたと知り激怒するヴォルデモートの思念からホグワーツに分霊箱があることを知り、三人はホグワーツに向かう。
上巻、ハリーがダーズリー家を脱出し、隠れ穴に行く。隠れ穴でのビルとフラーの結婚式の最中に、死喰い人の襲撃を受ける。
ハリー達三人は逃れてブラック家に隠れる。そこで、分霊箱のロケットが魔法省に勤めるアンブリッジが持っていることを知る。
魔法省に入り込みロケットを手に入れたが、分霊箱の影響を受けたロンはハリーと言い争いになり、分霊箱探しの旅から脱落する。
ハリーとハーマイオニーは、ハリーの両親が死んだ家があり、ダンブルドアの故郷でもあるゴドリックの谷に行く。ダンブルドアの若いころを知る老魔女バチルダを訪ねるが、バチルダに化けた蛇に襲われる。逃走の際にハリーの杖が折れる。
ロンが戻って来る。誰が出したのかわからない守護霊の牝鹿に導かれてグリフィンドールの剣を見つけ、ロンはその剣でロケットを破壊する。
下巻、ルーナの父がダンブルドアが残した本について何か知っていると考え家を訪ねる。ルーナを人質にとられていたルーナの父は死喰い人に通報したが、三人はその場を逃れる。
三人は、賞金稼ぎの人さらいにつかまり、死喰い人のもと(マルフォイ邸)に連れていかれる。そこに囚われていた他の囚人と一緒にしもべ妖精のドビーに救出される。その際にハリーはドラコの杖を奪う。
マルフォイ邸で聞いた会話から、グリンゴッツ銀行の金庫に分霊箱が預けられていると推理し、銀行の金庫破りをする。そこで、分霊箱のカップを手に入れるが剣を小鬼に持ち去られる。
分霊箱を奪われたと知り激怒するヴォルデモートの思念からホグワーツに分霊箱があることを知り、三人はホグワーツに向かう。
2014年6月7日土曜日
ハリー・ポッター(6)
ヴォルデモートの肉体が死んでも魂があの世にもいかず、ゴーストにもならずに現世にとどまり、再び肉体を取り戻せたのは、前もって魂を分割して、その魂を別の物体(分霊箱)に納めたからだ。
魂を七分割し、一つはもともとの自分の体にあるので、分霊箱は六個ある。第二巻に出てくるトム・リドルの日記帳、トム・リドルの母の父が先祖から受け継いだ黒い石を嵌めた指環、トム・リドルの母が受け継いだホグワーツの創始者の一人のスリザリンのロケット、同じく創始者のハッフルパフのカップ、レイブンクローのティアラ(髪飾り)、蛇のナギニだ。
ヴォルデモートを完全に滅ぼすためには、分霊箱をすべて壊してからヴォルデモートの肉体を死なせなければならない。
分霊箱を蛇を残してすべて壊したあとで、ハリーの母親が死んだときにヴォルデモートの魂の一部がハリーの中に入り、ハリー自身が分霊箱になっていたことがわかる。ヴォルデモートを死なせるために、ハリーがヴォルデモートに殺されなければならない。ハリーはネビルに蛇を殺すことを頼み、ヴォルデモートの前に姿を現し、死ぬつもりでヴォルデモートの死の呪いを受ける。
しかし、死んだのはハリーの中のヴォルデモートだけで、ヴォルデモートの部分を取り除いたハリーは生き残る。ヴォルデモートが身体を作る時にハリーの血を使用したが、ハリーの血の中には母親がハリーを守った力が残っていて、ヴォルデモートの中のハリーの血がハリーを死から守ったのだ。
ネビルは、組分け帽子からグリフィンドールの剣を取り出し、その剣で蛇を殺す。ネビルとハリーの味方をハリーはヴォルデモートの死の呪いから守る。これは、ハリーが自分が死ぬことでみんなを守ろうとしたことから、ハリーの母親がハリーを守ったのと同じ魔法が働いたのだ。
ハリーとヴォルデモートが対決して互いの杖から出た光線がぶつかり、ヴォルデモートの呪いが弾き飛ばされて自分自身にあたり、ヴォルデモートは死ぬ。普通の死と同様肉体が死に、魂はあの世にいったと思われる。
ヴォルデモートの杖は弾き飛ばされて、ハリーの手の中に入る。ヴォルデモートは伝説の最強の杖を求めて手に入れたと思っていたが、杖が魔法使いを選び、杖はハリーを選んでいたのだ。
最強の杖を手に入れるには、杖の所有者から奪わなければならないと考えられている。ダンブルドアが前の所有者から決闘によって手にいれ、ダンブルドアはスネウプに殺され、ヴォルデモートがスネウプを殺したので、ヴォルデモートは自分が杖の所有者だと思っていた。
ところが、ダンブルドアはスネウプに殺される前にドラコに杖を弾き飛ばされているうえに、スネウプに殺されることを望んでいた。また、スネウプはドラコの代わりにダンブルドアを殺した。このうちどれが決定的原因かはわからない。ハリーはドラコ自身の杖を奪ったので、最強の杖は、ハリーを選んだのだ。
伝説では三人兄弟の長男が最強の杖、二男が死者をよみがえらせる石、三男が姿を消すマントを死神から貰ったとされている。死神から貰ったというところはお伽噺だとしても魔法の杖、石、マントを作ったのは本当のことのようだ。死者をよみがえらせる石は、分霊箱に使われた指環の石だったが、効力は、生身の体を持たないが、ゴーストよりは実体のあるものを呼び出すだけで、呼び出された者は、石を持っている者にしか見えず、石を手から離すと消滅する。会話はできるので降霊術のようなものだ。
最初に読んだ時には、ハリーは一度死んで死者をよみがえらせる石によって生き返ったのかと思った。改めてじっくり読むとそもそも死んでいないとはっきり書いてある。どうして死ななかったのか、なぜ、ハリーは自分が死ななければならないし、死ぬだろうと思わなければならなかったのかが、改めてじっくり読むことでわかった。映画は最後の最後は見ていないが、多分見ても全部を理解できなかったろうと思う。
いろいろなことをハリーは教えてもらえない。読者に秘密にしておく必要があるのだろうが、どうして秘密にしなければならないのか、納得のいく説明を用意するのは大変だったろうと思う。
推理小説で探偵がなかなか推理したことを話さないのと同じ理由にすることができないので作者も大変だ。
死者と会話できる石は禁断の森に転がしたままで、最強の杖はダンブルドアの墓に戻し、姿を隠すマントはハリーが持っているので、まだ何か起こる可能性はある。十九年の間、ハリーの傷は傷まず平和だとハリーは思っているが、ハリーの中のヴォルデモートの魂は消失(あるいはあの世にいった)と思われるので、仮に石を拾ったものがヴォルデモートの魂を呼び出して話をして悪影響を受けても、ハリーが気づくことはないように思う。
ハリーの子供たちは伝説の英雄の子供として、大変なことがいろいろありそうだ。続編を書く要素はたくさんあるように思う。十九年後を最終章にしたのは、少なくとも十九年は続編を書かないぞという宣言かもしれない。
魂を七分割し、一つはもともとの自分の体にあるので、分霊箱は六個ある。第二巻に出てくるトム・リドルの日記帳、トム・リドルの母の父が先祖から受け継いだ黒い石を嵌めた指環、トム・リドルの母が受け継いだホグワーツの創始者の一人のスリザリンのロケット、同じく創始者のハッフルパフのカップ、レイブンクローのティアラ(髪飾り)、蛇のナギニだ。
ヴォルデモートを完全に滅ぼすためには、分霊箱をすべて壊してからヴォルデモートの肉体を死なせなければならない。
分霊箱を蛇を残してすべて壊したあとで、ハリーの母親が死んだときにヴォルデモートの魂の一部がハリーの中に入り、ハリー自身が分霊箱になっていたことがわかる。ヴォルデモートを死なせるために、ハリーがヴォルデモートに殺されなければならない。ハリーはネビルに蛇を殺すことを頼み、ヴォルデモートの前に姿を現し、死ぬつもりでヴォルデモートの死の呪いを受ける。
しかし、死んだのはハリーの中のヴォルデモートだけで、ヴォルデモートの部分を取り除いたハリーは生き残る。ヴォルデモートが身体を作る時にハリーの血を使用したが、ハリーの血の中には母親がハリーを守った力が残っていて、ヴォルデモートの中のハリーの血がハリーを死から守ったのだ。
ネビルは、組分け帽子からグリフィンドールの剣を取り出し、その剣で蛇を殺す。ネビルとハリーの味方をハリーはヴォルデモートの死の呪いから守る。これは、ハリーが自分が死ぬことでみんなを守ろうとしたことから、ハリーの母親がハリーを守ったのと同じ魔法が働いたのだ。
ハリーとヴォルデモートが対決して互いの杖から出た光線がぶつかり、ヴォルデモートの呪いが弾き飛ばされて自分自身にあたり、ヴォルデモートは死ぬ。普通の死と同様肉体が死に、魂はあの世にいったと思われる。
ヴォルデモートの杖は弾き飛ばされて、ハリーの手の中に入る。ヴォルデモートは伝説の最強の杖を求めて手に入れたと思っていたが、杖が魔法使いを選び、杖はハリーを選んでいたのだ。
最強の杖を手に入れるには、杖の所有者から奪わなければならないと考えられている。ダンブルドアが前の所有者から決闘によって手にいれ、ダンブルドアはスネウプに殺され、ヴォルデモートがスネウプを殺したので、ヴォルデモートは自分が杖の所有者だと思っていた。
ところが、ダンブルドアはスネウプに殺される前にドラコに杖を弾き飛ばされているうえに、スネウプに殺されることを望んでいた。また、スネウプはドラコの代わりにダンブルドアを殺した。このうちどれが決定的原因かはわからない。ハリーはドラコ自身の杖を奪ったので、最強の杖は、ハリーを選んだのだ。
伝説では三人兄弟の長男が最強の杖、二男が死者をよみがえらせる石、三男が姿を消すマントを死神から貰ったとされている。死神から貰ったというところはお伽噺だとしても魔法の杖、石、マントを作ったのは本当のことのようだ。死者をよみがえらせる石は、分霊箱に使われた指環の石だったが、効力は、生身の体を持たないが、ゴーストよりは実体のあるものを呼び出すだけで、呼び出された者は、石を持っている者にしか見えず、石を手から離すと消滅する。会話はできるので降霊術のようなものだ。
最初に読んだ時には、ハリーは一度死んで死者をよみがえらせる石によって生き返ったのかと思った。改めてじっくり読むとそもそも死んでいないとはっきり書いてある。どうして死ななかったのか、なぜ、ハリーは自分が死ななければならないし、死ぬだろうと思わなければならなかったのかが、改めてじっくり読むことでわかった。映画は最後の最後は見ていないが、多分見ても全部を理解できなかったろうと思う。
いろいろなことをハリーは教えてもらえない。読者に秘密にしておく必要があるのだろうが、どうして秘密にしなければならないのか、納得のいく説明を用意するのは大変だったろうと思う。
推理小説で探偵がなかなか推理したことを話さないのと同じ理由にすることができないので作者も大変だ。
死者と会話できる石は禁断の森に転がしたままで、最強の杖はダンブルドアの墓に戻し、姿を隠すマントはハリーが持っているので、まだ何か起こる可能性はある。十九年の間、ハリーの傷は傷まず平和だとハリーは思っているが、ハリーの中のヴォルデモートの魂は消失(あるいはあの世にいった)と思われるので、仮に石を拾ったものがヴォルデモートの魂を呼び出して話をして悪影響を受けても、ハリーが気づくことはないように思う。
ハリーの子供たちは伝説の英雄の子供として、大変なことがいろいろありそうだ。続編を書く要素はたくさんあるように思う。十九年後を最終章にしたのは、少なくとも十九年は続編を書かないぞという宣言かもしれない。
2014年6月6日金曜日
ハリー・ポッター(5)
第5巻『不死鳥の騎士団』下650頁、ダンブルドアの話
「ヴォルデモートは、きみが生まれる少し前に告げられた予言のせいで、幼いきみを殺そうとしたのじゃ。・・」
予言は闇の帝王を打ち破る力を持った者が生まれることを告げていた。予言がなされるのを立ち聞きしてヴォルデモートに予言の内容を告げた者は、予言の途中までしか聞いていなかった。
ヴォルデモートが聞いていない部分で「闇の帝王は、その者を自分に比肩する者として印すであろう。」と予言している。
予言の実現を阻もうとして、逆に予言の一部を実現させてしまう。
ただ、これだけでは、ヴォルデモートとハリーの間に心のつながりができた理由はわからない。
「ヴォルデモートは、きみが生まれる少し前に告げられた予言のせいで、幼いきみを殺そうとしたのじゃ。・・」
予言は闇の帝王を打ち破る力を持った者が生まれることを告げていた。予言がなされるのを立ち聞きしてヴォルデモートに予言の内容を告げた者は、予言の途中までしか聞いていなかった。
ヴォルデモートが聞いていない部分で「闇の帝王は、その者を自分に比肩する者として印すであろう。」と予言している。
予言の実現を阻もうとして、逆に予言の一部を実現させてしまう。
ただ、これだけでは、ヴォルデモートとハリーの間に心のつながりができた理由はわからない。
2014年6月5日木曜日
ハリー・ポッター(4)
第二巻『秘密の部屋』465頁、リドル(ヴォルデモード)の言葉
「そうか。母親が君を救うために死んだ。なるほど。それは呪いに対する強力な反対呪文だ。わかったぞ―結局君自身には特別なものは何もないわけだ。実は何かあるのかと思っていたんだ。・・・」
第四巻『炎のゴブレット』上335、6頁、ムーディ(の偽物)の言葉
「・・『アバダ ケダブラ』・・・死の呪いだ」
「・・反対呪文は存在しない。防ぎようがない。これを受けて生き残った者は、ただ一人。その者は、わしの目の前に座っている」
第四巻『炎のゴブレット』下452頁、ヴォルデモートの言葉
「・・俺様が力と身体を失ったあの夜、俺様はこの小僧を殺そうとした。母親が、この小僧を救おうとして死んだ―そして、母親は、自分でも知らずに、こやつを、この俺様にも予想だにつかなかったやり方で守った・・・」
「・・昔からある魔法だ。俺様はそれに気づくべきだった。見逃したのは不覚だった・・・」
昔からあるという母親が使った死の呪いに対する反対呪文についての詳しい説明はこの後でも出てこない。
最低でも誰かが身代りになって死ぬことが条件になっているように思う。狙われた人間自身が使える魔法ではなく、自分のために代わりに死のうとする人間を自在に用意できないのだから、忘れられた魔法になっても不思議はない。
最初の四作の映画までは、最後まで見たにも関わらず、どうしてハリーが生き残れたのかよくわからなかった。
それに、どうしてハリーが襲われたのか、ハリーの額の傷の意味、ハリーとヴォルデモードの間にあるらしい何らかのつながり、ハリーがどうやってヴォルデモードを倒すのか、依然として謎は残る。
2014年6月4日水曜日
ハリー・ポッター(3)
映画が理解しにくいのは、呪文を聞いても即座に何をする呪文かよくわからないせいもある。英語を知っているとまた別なのだろう。
魔法界のお伽噺が出てくるが男の子三人兄弟で、末っ子が一番うまくやるのは、非魔法界と同じだ。
第一作目で男の子二人と女の子一人の友人なら、大きくなって三角関係になるのだろうと思ったら、これは定番とは違った。
女性と女性を守る男性二人という伝統的な図式ではなく、ハリーを守る友人二人の図式だからかと思う。
ディケンズの『二都物語』は、失恋した男性が愛する女性のために女性の夫の身代りになって死ぬ。片思いでも好きな女性を思い続けて自己犠牲をするのは定番だ。最後の最後になって、「やっぱりこのパターンを使うんだね」と思う。
全部読みとおして、涙が出てきたのは、以外にもダーズリー一家との別れの場面だった。第七巻『死の秘宝』上55頁でいとこのダドリーが「あいつはどうして一緒に来ないの?」のところからかなり泣けた。
魔法界のお伽噺が出てくるが男の子三人兄弟で、末っ子が一番うまくやるのは、非魔法界と同じだ。
第一作目で男の子二人と女の子一人の友人なら、大きくなって三角関係になるのだろうと思ったら、これは定番とは違った。
女性と女性を守る男性二人という伝統的な図式ではなく、ハリーを守る友人二人の図式だからかと思う。
ディケンズの『二都物語』は、失恋した男性が愛する女性のために女性の夫の身代りになって死ぬ。片思いでも好きな女性を思い続けて自己犠牲をするのは定番だ。最後の最後になって、「やっぱりこのパターンを使うんだね」と思う。
全部読みとおして、涙が出てきたのは、以外にもダーズリー一家との別れの場面だった。第七巻『死の秘宝』上55頁でいとこのダドリーが「あいつはどうして一緒に来ないの?」のところからかなり泣けた。
2014年6月1日日曜日
ハリー・ポッター(2)
映画がおもしろくなくなったのは、恋愛問題が入ってきたこともあると思う。
本の方も、しょっちゅうくだらない嫉妬でツンケンした会話をしているのを読むのは不快だ。それでも気持ち悪いキスシーンを見ずにすむだけましだ。
第六巻『不死鳥の騎士団』の前半は映画も本もあまりおもしろくないが、これは学校生活が全然おもしろくないせいだと思う。
後半以降は、逆にストーリーの展開が気になり、読むのを止められなくなるほどおもしろい。
ただ、映画で見た記憶がほとんどない。おもしろくないので途中で見るのを止めたのかもしれない。
シリーズ後半になると、本を読んで予習復習をしないと、間をおいて映画を見ただけでは、理解できないことが多くなるように思う。
本の方も、しょっちゅうくだらない嫉妬でツンケンした会話をしているのを読むのは不快だ。それでも気持ち悪いキスシーンを見ずにすむだけましだ。
第六巻『不死鳥の騎士団』の前半は映画も本もあまりおもしろくないが、これは学校生活が全然おもしろくないせいだと思う。
後半以降は、逆にストーリーの展開が気になり、読むのを止められなくなるほどおもしろい。
ただ、映画で見た記憶がほとんどない。おもしろくないので途中で見るのを止めたのかもしれない。
シリーズ後半になると、本を読んで予習復習をしないと、間をおいて映画を見ただけでは、理解できないことが多くなるように思う。
2014年5月29日木曜日
ハリー・ポッター
ハリー・ポッターシリーズの映画三作目までおもしろかったが、四作目の「炎のゴブレット」の最後のところで、とうとう犠牲者が出て楽しい映画ではなくなった。
その後、話についていけなくなり、おもしろく感じないので、せっかくテレビ放映されたが、最後まで見る気にならなかった。
ただ、ハリー・ポッターがなぜ生き延びられたか気になるので、本を読むことにした。
三巻目の最後のところの謎ときで、映画を見てよく理解できなかったところが、本を読むとよくわかった。
四巻目の最後の謎ときは、ほとんど推理小説の謎ときのようだ。映画でよく理解できなかったことが良く理解できた。四巻目の分量は、それまでの倍になっていて、最後の謎ときのために、それだけの記述が必要だったことがわかった。
本を読むと確かにおもしろい。それと、気味が悪いものが出てきても、それを見ずにすむところがありがたい。
その後、話についていけなくなり、おもしろく感じないので、せっかくテレビ放映されたが、最後まで見る気にならなかった。
ただ、ハリー・ポッターがなぜ生き延びられたか気になるので、本を読むことにした。
三巻目の最後のところの謎ときで、映画を見てよく理解できなかったところが、本を読むとよくわかった。
四巻目の最後の謎ときは、ほとんど推理小説の謎ときのようだ。映画でよく理解できなかったことが良く理解できた。四巻目の分量は、それまでの倍になっていて、最後の謎ときのために、それだけの記述が必要だったことがわかった。
本を読むと確かにおもしろい。それと、気味が悪いものが出てきても、それを見ずにすむところがありがたい。
2014年5月27日火曜日
刑の一部執行猶予
平成26年2月発行の「論究ジュリスト」を読んで、刑の一部執行猶予制度についての法律が去年の6月に成立していたことを知った。
今までの執行猶予は、刑務所にいかずに済むが、一部執行猶予はまず刑務所に入り、残りの部分が猶予される。三年以下の懲役若しくは禁錮、猶予期間が一年以上五年以下、保護観察を付す場合と付さない場合があるのは一回目の全部執行猶予の場合と同じだ。
刑期が三年以下の場合に限られるが、全部執行猶予、一部執行猶予、実刑のどれにするか選択肢が増え、判断が難しくなった。
全部執行猶予の場合は「情状により~その執行を猶予することができる」となっているが、一部執行猶予の場合は「犯情の軽重及び犯人の境遇その他の情状を考慮して、再び犯罪をすることを防ぐために必要であり、かつ、相当であると認められるときは、~その刑の一部の執行を猶予することができる」となっている。
刑期の長さの決定と、全部執行猶予あるいは一部執行猶予の決定を相互に考慮して決めるのか?今までなら執行猶予にする判断と刑期の長さの判断は関連して決めていたと思う。
刑の一部執行猶予の場合は、全体の刑期と猶予しない期間とはどう分けるのか。改めてそもそも刑期の長さは何を考えて決めるのだろうと思ってしまう。
もともと、単純にやってしまった行為と結果に応じて刑期を決めていたわけではなく、更生に必要な期間も考慮していたと思う。更生に必要な期間は刑務所にこれだけ入っていたら更生するだろうという期間と考えていた。更生するのに一年で充分な場合でも犯罪の内容からして三年の刑期にしなければならないという場合に、三年の刑期で二年間の刑期を保護観察に付さずに猶予するというのは、わかる。もっとも、そういう場合は、弁護人は全部執行猶予を主張するように思う。その場合に検察官が一部執行猶予を主張するかどうかはわからない。
逆に更生するのに五年必要だが、軽い犯罪で二年の刑期の言い渡しがせいぜいと言う場合もある。
この場合、一部執行猶予にし、執行猶予を取り消されたら刑務所行きという恐れによって、再び犯罪をすることを防ぐことを狙っているとも考えられる。この場合は、受刑によって更生させられることは最初からあきらめているともいえる。
もちろん、執行猶予中でなくても犯罪を犯せば刑務所に行くことになるから、刑務所行きを恐れて犯罪を起こさないことを期待するのが、一番のねらいではないのかもしれない。
執行猶予の取り消しは、「保護観察に付せられた者が遵守すべき事項を遵守しなかったとき」にも取り消すことができる。再犯の恐れがある場合に実際に罪を犯す前に刑務所に戻すことができるのが一番のねらいかもしれない。
それから、どういう犯罪で何年の刑期にするかはおのずと幅がある。一部執行猶予制度がない場合は二年の実刑にしていた場合に、一部執行猶予制度ができたために、三年の刑期にして一年猶予して実質二年という判断になるのでは?とも思う。
もちろん刑務所を出てからちゃんとした生活を送っていたら、実際に刑務所に入っている期間に変わりがないか短くなる人もいるのだろうが、刑の一部執行猶予は、再犯の可能性が高そうな人が多くの場合対象になるようなので、結果的に刑務所に入っている期間が長くなる人も多いだろう。
弁護人としては、刑務所に実際に入っても更生できず再犯のおそれがありそうな被告人の場合に、結果的に刑務所に入る期間が多くなりそうな一部執行猶予の主張をするのは、ためらうように思う。それに、法律上刑の全部執行猶予の要件を満たす被告人について一部刑の執行猶予の主張をする場合とは、どんな場合か容易に想像がつかない。それとも検察官が主張するのだろうか。
裁判員裁判では検察官の求刑を超える判決がだされることもあるようだ。裁判員裁判が始まった当初は、裁判員は検察官と弁護人の主張を聞いて、なるほどと説得されたことをもとに結論を出すだけだと思っていた。ところが、実際は、双方の主張を参考にして、「自分で」判断するようだ。私自身は、一部執行猶予については、どういう事情をもとにどういう判断が求められているのか容易に理解できない。いろいろなケースを含んでいそうなのも理解を難しくしていると思う。これに仮釈放を絡めればもっと複雑になる。
仮釈放については、理屈の上では、受刑後の話とわりきるしかないが、現実にどういう結果になるかを考える場合は考えないわけにはいかない。
今までの執行猶予は、刑務所にいかずに済むが、一部執行猶予はまず刑務所に入り、残りの部分が猶予される。三年以下の懲役若しくは禁錮、猶予期間が一年以上五年以下、保護観察を付す場合と付さない場合があるのは一回目の全部執行猶予の場合と同じだ。
刑期が三年以下の場合に限られるが、全部執行猶予、一部執行猶予、実刑のどれにするか選択肢が増え、判断が難しくなった。
全部執行猶予の場合は「情状により~その執行を猶予することができる」となっているが、一部執行猶予の場合は「犯情の軽重及び犯人の境遇その他の情状を考慮して、再び犯罪をすることを防ぐために必要であり、かつ、相当であると認められるときは、~その刑の一部の執行を猶予することができる」となっている。
刑期の長さの決定と、全部執行猶予あるいは一部執行猶予の決定を相互に考慮して決めるのか?今までなら執行猶予にする判断と刑期の長さの判断は関連して決めていたと思う。
刑の一部執行猶予の場合は、全体の刑期と猶予しない期間とはどう分けるのか。改めてそもそも刑期の長さは何を考えて決めるのだろうと思ってしまう。
もともと、単純にやってしまった行為と結果に応じて刑期を決めていたわけではなく、更生に必要な期間も考慮していたと思う。更生に必要な期間は刑務所にこれだけ入っていたら更生するだろうという期間と考えていた。更生するのに一年で充分な場合でも犯罪の内容からして三年の刑期にしなければならないという場合に、三年の刑期で二年間の刑期を保護観察に付さずに猶予するというのは、わかる。もっとも、そういう場合は、弁護人は全部執行猶予を主張するように思う。その場合に検察官が一部執行猶予を主張するかどうかはわからない。
逆に更生するのに五年必要だが、軽い犯罪で二年の刑期の言い渡しがせいぜいと言う場合もある。
この場合、一部執行猶予にし、執行猶予を取り消されたら刑務所行きという恐れによって、再び犯罪をすることを防ぐことを狙っているとも考えられる。この場合は、受刑によって更生させられることは最初からあきらめているともいえる。
もちろん、執行猶予中でなくても犯罪を犯せば刑務所に行くことになるから、刑務所行きを恐れて犯罪を起こさないことを期待するのが、一番のねらいではないのかもしれない。
執行猶予の取り消しは、「保護観察に付せられた者が遵守すべき事項を遵守しなかったとき」にも取り消すことができる。再犯の恐れがある場合に実際に罪を犯す前に刑務所に戻すことができるのが一番のねらいかもしれない。
それから、どういう犯罪で何年の刑期にするかはおのずと幅がある。一部執行猶予制度がない場合は二年の実刑にしていた場合に、一部執行猶予制度ができたために、三年の刑期にして一年猶予して実質二年という判断になるのでは?とも思う。
もちろん刑務所を出てからちゃんとした生活を送っていたら、実際に刑務所に入っている期間に変わりがないか短くなる人もいるのだろうが、刑の一部執行猶予は、再犯の可能性が高そうな人が多くの場合対象になるようなので、結果的に刑務所に入っている期間が長くなる人も多いだろう。
弁護人としては、刑務所に実際に入っても更生できず再犯のおそれがありそうな被告人の場合に、結果的に刑務所に入る期間が多くなりそうな一部執行猶予の主張をするのは、ためらうように思う。それに、法律上刑の全部執行猶予の要件を満たす被告人について一部刑の執行猶予の主張をする場合とは、どんな場合か容易に想像がつかない。それとも検察官が主張するのだろうか。
裁判員裁判では検察官の求刑を超える判決がだされることもあるようだ。裁判員裁判が始まった当初は、裁判員は検察官と弁護人の主張を聞いて、なるほどと説得されたことをもとに結論を出すだけだと思っていた。ところが、実際は、双方の主張を参考にして、「自分で」判断するようだ。私自身は、一部執行猶予については、どういう事情をもとにどういう判断が求められているのか容易に理解できない。いろいろなケースを含んでいそうなのも理解を難しくしていると思う。これに仮釈放を絡めればもっと複雑になる。
仮釈放については、理屈の上では、受刑後の話とわりきるしかないが、現実にどういう結果になるかを考える場合は考えないわけにはいかない。
2014年5月24日土曜日
幸福になる義務
常磐緑道のタチアオイが並んでいるところで、近所の人らしい二、三人が立ち話をしていた。
「また、やられた」とピンクの花がついた茎を手にしている。先日、立て札を見たときは、自宅で花を楽しもうとする人が持ち去ったのかと思っていたが、切ったのを捨てていくらしい。
これなら、嫌がらせ目的か腹いせ目的としか思えない。やられる方だけでなくやっている方も気持ちがいいとは思えない。
最近の犯罪動機についての報道によれば、自分が不幸だと他人も不幸にしたくなる人間がいるらしい。自分が幸せになるために他人を犠牲にする犯罪もある。貧しさゆえに他人の物を盗むとか。困ったことだが、理解可能だ。より不幸になるために犯罪をするのは、自分にとっては理解不能だ。表立っては言えない雰囲気だが、刑事事件で被害者家族に裁判で加害者に対しての気持ちを言わせるのも、被害者家族を更に不幸にさせているようにしか思えず、これを被害者保護だという人の気がしれない。
自分が不幸なせいで社会に迷惑をかける人がいるなら、幸せになるのは権利というより社会に対する義務だと思った方がいいかもしれない。
健康を維持するのも、医療費の社会の負担を抑える点から、権利と言うよりは義務になってきているように思う。
自分が不幸だと他人も不幸にする人は、現在の自分よりもっと不幸な人を思い浮かべればいいように思う。余命半年と宣告された人よりは、たいていの人は自分の方が幸せだと思うのじゃないか。
「社会のためになることをしたい」と抱負を語る若者は多い。結果的には、誰もが、社会に認められるような仕事ができるわけではない。でも、積極的に社会のためになることをしなくても、社会の害になることをしないという形で消極的に社会のためになることはできると思う。
病気による死の宣告を本人にするかどうか問題になるときは、絶望感から自殺することを心配するが、処罰を恐れる必要がなくなったので、重罪犯罪を犯すのではないかと心配する人はいないし、現にどうせもう死ぬからと殺人鬼になったりしたとは聞いたことがない。実は、このことも前から不思議に思っている。世間では、死刑制度が必要だと考える人が多い。これは、死刑になることを恐れずに重罪犯罪を犯し、被害者が増えるのを心配しているのではなく、人間の仕返しがしたいという気持ちを大事にしたいからだろうか。これもまた、自分には理解しがたい。
「また、やられた」とピンクの花がついた茎を手にしている。先日、立て札を見たときは、自宅で花を楽しもうとする人が持ち去ったのかと思っていたが、切ったのを捨てていくらしい。
これなら、嫌がらせ目的か腹いせ目的としか思えない。やられる方だけでなくやっている方も気持ちがいいとは思えない。
最近の犯罪動機についての報道によれば、自分が不幸だと他人も不幸にしたくなる人間がいるらしい。自分が幸せになるために他人を犠牲にする犯罪もある。貧しさゆえに他人の物を盗むとか。困ったことだが、理解可能だ。より不幸になるために犯罪をするのは、自分にとっては理解不能だ。表立っては言えない雰囲気だが、刑事事件で被害者家族に裁判で加害者に対しての気持ちを言わせるのも、被害者家族を更に不幸にさせているようにしか思えず、これを被害者保護だという人の気がしれない。
自分が不幸なせいで社会に迷惑をかける人がいるなら、幸せになるのは権利というより社会に対する義務だと思った方がいいかもしれない。
健康を維持するのも、医療費の社会の負担を抑える点から、権利と言うよりは義務になってきているように思う。
自分が不幸だと他人も不幸にする人は、現在の自分よりもっと不幸な人を思い浮かべればいいように思う。余命半年と宣告された人よりは、たいていの人は自分の方が幸せだと思うのじゃないか。
「社会のためになることをしたい」と抱負を語る若者は多い。結果的には、誰もが、社会に認められるような仕事ができるわけではない。でも、積極的に社会のためになることをしなくても、社会の害になることをしないという形で消極的に社会のためになることはできると思う。
病気による死の宣告を本人にするかどうか問題になるときは、絶望感から自殺することを心配するが、処罰を恐れる必要がなくなったので、重罪犯罪を犯すのではないかと心配する人はいないし、現にどうせもう死ぬからと殺人鬼になったりしたとは聞いたことがない。実は、このことも前から不思議に思っている。世間では、死刑制度が必要だと考える人が多い。これは、死刑になることを恐れずに重罪犯罪を犯し、被害者が増えるのを心配しているのではなく、人間の仕返しがしたいという気持ちを大事にしたいからだろうか。これもまた、自分には理解しがたい。
2014年5月23日金曜日
別所沼のかいぼり(亀)
5月23日、広場はごみ以外はすべて片付けられていた。水はまだもとの水準には戻っていないが、もう釣りをしている人がいる。
水の中の緑のシートはまだ残っていて、上に石が乗っていると思ってよく見たら亀だった。別所沼で亀を初めて見た。
もともといたのか?水を抜いている間もいたのか?よそからきたのか?わからない。近くの鴻沼川で亀を見たことがある。そこから地面を歩いてきたのだとすると見かけた人は驚いただろうと思う。
現地で自分の目で観察しても、わからないことはたくさんあるものだ。
水の中の緑のシートはまだ残っていて、上に石が乗っていると思ってよく見たら亀だった。別所沼で亀を初めて見た。
もともといたのか?水を抜いている間もいたのか?よそからきたのか?わからない。近くの鴻沼川で亀を見たことがある。そこから地面を歩いてきたのだとすると見かけた人は驚いただろうと思う。
現地で自分の目で観察しても、わからないことはたくさんあるものだ。
2014年5月20日火曜日
バラントレイの若殿(4)
若殿は戦争に負けて、海賊船にのってアメリカ大陸に逃れ、そこに海賊の財宝を隠してから、フランスに渡る。
フランスからお金を請求してきていたが、突然本人が家に帰る。読者にはその時点で兄の本性がわかっているので、兄がどういう行動に出て弟からできる限りのものを奪い返していくのか、それまでの話と比べ、行動面では地味で退屈になるにも関わらず、俄然スリリングになる。
大人には派手な肉弾戦より地味な神経戦の方がおもしろい。
海賊の宝が出てきて、『宝島』を思い出す。思い出すといっても、子供の頃一度読んだだけで、覚えているのは冒頭の宿屋の部分だけだ。
子供の頃、世間の評判ほどには、おもしろくないと思った。最初のところは、いったいいつになったら宝探しが始まるのだろうかと退屈した。とはいっても、宿に泊まる船員が生み出すおどろおどろした感じは印象に残り、結局その部分をずっと覚えていたのだから、そこのところは面白かったということになるのだろう。
今、改めて読んでみた。最初のところは、思ったほど長い気はしない。宿屋が襲われるところは、読んだ覚えがしてくるし、今読むとおもしろい。そのあとの部分は、まあまあおもしろいと思うが、完全に忘れていた。
一本足の船員が、ワルだが、善人に見えて最初はみんなだまされる。人間的魅力はあって最後まで憎めない感じだ。
女性は悪い男に惹かれるというが、若殿はまさにそんな感じだ。誠実さはないが、場を楽しませ、その人がいないとつまらないという人間がいるが、若殿はそういうタイプだ。弟にとっては疫病神だったが、どうも憎み切れない。
フランスからお金を請求してきていたが、突然本人が家に帰る。読者にはその時点で兄の本性がわかっているので、兄がどういう行動に出て弟からできる限りのものを奪い返していくのか、それまでの話と比べ、行動面では地味で退屈になるにも関わらず、俄然スリリングになる。
大人には派手な肉弾戦より地味な神経戦の方がおもしろい。
海賊の宝が出てきて、『宝島』を思い出す。思い出すといっても、子供の頃一度読んだだけで、覚えているのは冒頭の宿屋の部分だけだ。
子供の頃、世間の評判ほどには、おもしろくないと思った。最初のところは、いったいいつになったら宝探しが始まるのだろうかと退屈した。とはいっても、宿に泊まる船員が生み出すおどろおどろした感じは印象に残り、結局その部分をずっと覚えていたのだから、そこのところは面白かったということになるのだろう。
今、改めて読んでみた。最初のところは、思ったほど長い気はしない。宿屋が襲われるところは、読んだ覚えがしてくるし、今読むとおもしろい。そのあとの部分は、まあまあおもしろいと思うが、完全に忘れていた。
一本足の船員が、ワルだが、善人に見えて最初はみんなだまされる。人間的魅力はあって最後まで憎めない感じだ。
女性は悪い男に惹かれるというが、若殿はまさにそんな感じだ。誠実さはないが、場を楽しませ、その人がいないとつまらないという人間がいるが、若殿はそういうタイプだ。弟にとっては疫病神だったが、どうも憎み切れない。
2014年5月19日月曜日
バラントレイの若殿(3)
若殿(兄)は戦死したと思われたので、弟が領地と称号の継承者になった。
領地は抵当に入り、領地経営はうまくいっていない。弟は兄の婚約者と結婚し、妻の財産で領地を維持する。
弟が兄の婚約者と結婚した後で、フランスに逃れていた兄から使者を介してお金の要求がある。
兄は生きていたものの、戦争は現王の勝利に終わったので、反逆者となった兄がイギリスに戻れなくなった点は変わらないので、兄の地位は復活しない。
兄は遠慮せずに弟にお金を要求するが、もともと自分がすべてを相続するはずだったという思いがあるためらしい。
とはいえ、実は弟の結婚相手のお金であり、弟が領地経営に従事した結果のお金なので、「本来自分のもの」とは言えないだろう。
ここで、「かまどの灰まで」という言葉を思い出す。日本も戦前の長子単独相続の時代なら、兄は弟に対して全部自分のものだという気持ちだったのかもしれない。
兄は、その後も、何度も弟にお金の要求をしてくる。現在でも、兄が家を出て、家業を継いだ弟に、失敗するたびにお金を要求して、弟が縁を切ることもできずに苦しむというテーマの小説はあり得る。
ただ、背景に同じ兄弟でも兄だけが領地も称号(名誉)も受け継ぐという制度がなければ、弟がまるで悪魔にとりつかれるように兄に苦しめられるという状況にはならないように思える。
領地は抵当に入り、領地経営はうまくいっていない。弟は兄の婚約者と結婚し、妻の財産で領地を維持する。
弟が兄の婚約者と結婚した後で、フランスに逃れていた兄から使者を介してお金の要求がある。
兄は生きていたものの、戦争は現王の勝利に終わったので、反逆者となった兄がイギリスに戻れなくなった点は変わらないので、兄の地位は復活しない。
兄は遠慮せずに弟にお金を要求するが、もともと自分がすべてを相続するはずだったという思いがあるためらしい。
とはいえ、実は弟の結婚相手のお金であり、弟が領地経営に従事した結果のお金なので、「本来自分のもの」とは言えないだろう。
ここで、「かまどの灰まで」という言葉を思い出す。日本も戦前の長子単独相続の時代なら、兄は弟に対して全部自分のものだという気持ちだったのかもしれない。
兄は、その後も、何度も弟にお金の要求をしてくる。現在でも、兄が家を出て、家業を継いだ弟に、失敗するたびにお金を要求して、弟が縁を切ることもできずに苦しむというテーマの小説はあり得る。
ただ、背景に同じ兄弟でも兄だけが領地も称号(名誉)も受け継ぐという制度がなければ、弟がまるで悪魔にとりつかれるように兄に苦しめられるという状況にはならないように思える。
2014年5月18日日曜日
別所沼のかいぼり(柵撤去)
2014年5月17日土曜日
バラントレイの若殿(2)
ジャコバイトは、『誘拐されて』で知ったが、『バラントレイの若殿』でも出てくる。
ジャコバン党なら聞いたことがあると思ったが、それならフランス革命でフランスの話になるので、無関係だ。
ジャコバイトの乱は簡単に言うと、「1745年、名誉革命でイギリスを追われたジェイムズ二世の孫のチャーリー王子が王位継承を主張し、亡命先のフランスからイギリスに攻め込み、その際にスコットランドが王位を奪おうとする方に味方した」ということになる。ジェイムズ王(王位を奪おうとする方)対ジョージ王(現王)の対立だ。
『誘拐されて』を読んだ時には、登場人物がどちらの側の人間か混乱してしまった。王対謀反人や王対革命軍ならどっち側かわかりやすいが王対王なのが混乱の原因のように思う。
スコットランドの領主であるデューリー家は、兄弟のうち一人がチャーリー王子の側に参戦し、他方が家に残ることにする。
当主、兄の婚約者、弟は、弟が参戦し、兄が家に残るものと考えたが、兄が我を通して戦争に行く。
日本人には、薔薇戦争(『黒い矢』はこの時代)でもジャコバイトの乱でも誰対誰の争いで、それぞれ味方したのは誰かについてはなじみがない。そのなじみのなさがスティーヴンソンの小説の理解を妨げる。
ただ、イギリス人なら読んですぐに理解できるのかどうかは不明だ。
王対王という点では、日本で言うと南北朝時代のようなものだろうか。どっちが勝ったか思い出せない。結局、足利尊氏にもっていかれたという理解だ。
豊臣家対徳川家も、武将の名を聞いてもどっちの側の人間かは、よくわからない。勝ちそうな方に寝返ったものもいたから余計わからない。状況に合わせて味方する側を変更したところは薔薇戦争も同様のようだ。
ジャコバン党なら聞いたことがあると思ったが、それならフランス革命でフランスの話になるので、無関係だ。
ジャコバイトの乱は簡単に言うと、「1745年、名誉革命でイギリスを追われたジェイムズ二世の孫のチャーリー王子が王位継承を主張し、亡命先のフランスからイギリスに攻め込み、その際にスコットランドが王位を奪おうとする方に味方した」ということになる。ジェイムズ王(王位を奪おうとする方)対ジョージ王(現王)の対立だ。
『誘拐されて』を読んだ時には、登場人物がどちらの側の人間か混乱してしまった。王対謀反人や王対革命軍ならどっち側かわかりやすいが王対王なのが混乱の原因のように思う。
スコットランドの領主であるデューリー家は、兄弟のうち一人がチャーリー王子の側に参戦し、他方が家に残ることにする。
当主、兄の婚約者、弟は、弟が参戦し、兄が家に残るものと考えたが、兄が我を通して戦争に行く。
日本人には、薔薇戦争(『黒い矢』はこの時代)でもジャコバイトの乱でも誰対誰の争いで、それぞれ味方したのは誰かについてはなじみがない。そのなじみのなさがスティーヴンソンの小説の理解を妨げる。
ただ、イギリス人なら読んですぐに理解できるのかどうかは不明だ。
王対王という点では、日本で言うと南北朝時代のようなものだろうか。どっちが勝ったか思い出せない。結局、足利尊氏にもっていかれたという理解だ。
豊臣家対徳川家も、武将の名を聞いてもどっちの側の人間かは、よくわからない。勝ちそうな方に寝返ったものもいたから余計わからない。状況に合わせて味方する側を変更したところは薔薇戦争も同様のようだ。
2014年5月16日金曜日
バラントレイの若殿
スティーヴンソン作、題名から想像する内容にいい意味で裏切られる。
主人公がバラントレイの若殿で、さわやかで魅力的な人物が活躍する話の予感がする。
確かに魅力的な人物だが、まじめな善人が退屈でつまらない人間と思われるのと裏返しの魅力だ。
戦死したと思われた兄が突然帰ってくる。既に弟が兄の婚約者と結婚した後だ。
この兄がこれからどうするのか、先の展開に期待が高まる。
文学作品としておもしろく、作者の代表作になっていないのが不思議だ。
主人公がバラントレイの若殿で、さわやかで魅力的な人物が活躍する話の予感がする。
確かに魅力的な人物だが、まじめな善人が退屈でつまらない人間と思われるのと裏返しの魅力だ。
戦死したと思われた兄が突然帰ってくる。既に弟が兄の婚約者と結婚した後だ。
この兄がこれからどうするのか、先の展開に期待が高まる。
文学作品としておもしろく、作者の代表作になっていないのが不思議だ。
2014年5月14日水曜日
別所沼のかいぼり(魚の放流)
5月14日、青いシートの上に白いシートが重ねられている。魚が入った箱の壁の上に網をもった男性が数人いる。
網で魚をすくって、水を張ったタライに入れ、台車でタライをシートの脇まで運び、待機していた人が手で魚をつかんでシートの上に滑らせると、二、三度跳ね上がりながら魚が沼に飛び込んでいく。
手で魚を持った時に「ハイ、フナ。ハイ、フナ」と言うのを横で書きとめている人がいる。二、三十センチくらいの魚はフナが多いようだ。捕まえているときにフナも見たのかもしれないが、鯉のぼりのせいか、フナよりコイの方を先に思いつく。
少し離れて見物人によく見えるようにタライがいくつか置かれている。見ると錦鯉がいた。ほかにもフナでもコイでもないらしい魚がいる。
珍しいのを取り分けておいて、最後にどうするのかはわからない。
網で魚をすくって、水を張ったタライに入れ、台車でタライをシートの脇まで運び、待機していた人が手で魚をつかんでシートの上に滑らせると、二、三度跳ね上がりながら魚が沼に飛び込んでいく。
手で魚を持った時に「ハイ、フナ。ハイ、フナ」と言うのを横で書きとめている人がいる。二、三十センチくらいの魚はフナが多いようだ。捕まえているときにフナも見たのかもしれないが、鯉のぼりのせいか、フナよりコイの方を先に思いつく。
少し離れて見物人によく見えるようにタライがいくつか置かれている。見ると錦鯉がいた。ほかにもフナでもコイでもないらしい魚がいる。
珍しいのを取り分けておいて、最後にどうするのかはわからない。
2014年5月13日火曜日
別所沼のかいぼり(魚の放流予定)
5月13日、魚飼育施設を囲む塀に魚放流予定日が書かれた紙が貼ってあった。
5月14日から5月16日、予定より早く終わることもあるらしい。時間は9:00から16:00。
水位は元の位置まで戻ってはいないが、このまま水を注いで終了するようだ。
橋の方も床板を一部はがしていたが、元に戻されている。
岸から水面に向けて、幅2メートルほどの青いシートで滑り台のようなものが設置されている。多分この上に魚を流して沼に戻すのだろう。
5月14日から5月16日、予定より早く終わることもあるらしい。時間は9:00から16:00。
水位は元の位置まで戻ってはいないが、このまま水を注いで終了するようだ。
橋の方も床板を一部はがしていたが、元に戻されている。
岸から水面に向けて、幅2メートルほどの青いシートで滑り台のようなものが設置されている。多分この上に魚を流して沼に戻すのだろう。
2014年5月9日金曜日
太陽の帝国(5)
366頁にアメリカ軍が飛行機で投下した箱の中身が書かれている。
豚肉やミルクなどのはいった「スパム」「クリム」「ネスカフェ」といった缶詰、棒チョコレート、セロファンにつつまれた「ラッキー・ストライク」や「チェスター・フィールド」などの煙草の箱、さらには『リーダーズ・ダイジェスト』や『ライフ』といった雑誌、『タイムズ』や『サタディ・イブニング・ポスト』などの新聞の束もある。
スパムでスパムメールを思い浮かべたが、検索してみて、スパムの缶詰がスパムメールの語源だとわかった。
クリムの方はヒットしなかったが、ミルクの粉末が入った缶詰だと思う。クリームから名付けられたのだろう。ネスカフェがコーヒーなのは、他の記述を読んだり調べたりするまでもなく、すぐにわかった。
野菜の缶詰はなかったのかと思う。今の感覚だとあまり健康によくないように思う。
豚肉やミルクなどのはいった「スパム」「クリム」「ネスカフェ」といった缶詰、棒チョコレート、セロファンにつつまれた「ラッキー・ストライク」や「チェスター・フィールド」などの煙草の箱、さらには『リーダーズ・ダイジェスト』や『ライフ』といった雑誌、『タイムズ』や『サタディ・イブニング・ポスト』などの新聞の束もある。
スパムでスパムメールを思い浮かべたが、検索してみて、スパムの缶詰がスパムメールの語源だとわかった。
クリムの方はヒットしなかったが、ミルクの粉末が入った缶詰だと思う。クリームから名付けられたのだろう。ネスカフェがコーヒーなのは、他の記述を読んだり調べたりするまでもなく、すぐにわかった。
野菜の缶詰はなかったのかと思う。今の感覚だとあまり健康によくないように思う。
2014年5月8日木曜日
花盗人
子供の頃「花盗人は罪にならない」と聞いた。風流の範囲内なら許されるのだろうが、他人の花壇や公園の花壇の花なら、ダメなのははっきりしていると思う。迷うのは道端の雑草だ。
子供の頃タンポポやシロツメクサで花の冠を作ったが、花の命を縮めるということ以外に悪いことだという意識は全くなかった。
雑草といっても花の美しさで劣るわけではない。ありふれているか、人の手をかけているかで決まるように思う。札幌に住んでいた時にタンポポがあまりに大輪で、ガーベラより豪華なので、近くの空き地に咲いているのを持ってきたことがある。持ってきたらだめなものとは思わなかったが、花屋に払うお金を惜しんでいるように思われそうで、人目のない早朝にもってこようとしたら、犬を散歩させる人で昼間より人の目が多く、更に早朝に出なおした。
常盤緑道にタチアオイが綺麗に咲くところがある。今(5月8日)は蕾がたくさんできている。その場所に注意書きがあった。もうすぐ花がきれいに咲くので、いじめないでね、という内容だ。葉をちぎったり茎を折って踏みにじったりして荒す人がいるものだろうか、と思ったら、花めをもっていかないでという注意書きもあり、家に飾るために持って行くのだと気付いた。よく見ると先っぽがない茎もあり、切り口が綺麗なので、手でちぎったのではなくハサミで切ったものだろう。まさに咲いているのを目にして衝動的に折ったのではなく、計画的犯行だ。それをした人は道端の雑草の感覚だったのかもしれない。
田島緑地の桜草は、持っていったらダメなのははっきりしている。もっとも、江戸時代なら微妙だ。
見沼代用水路沿いのヤブカンゾウも、だめだろう。平安時代ならわからない。ヒメジョン(ハルジオンかもしれない)は、持っていってもいいような気がする。用水路脇の案内板を見ると外来種でむしろ悪者扱いになっている。
子供の頃タンポポやシロツメクサで花の冠を作ったが、花の命を縮めるということ以外に悪いことだという意識は全くなかった。
雑草といっても花の美しさで劣るわけではない。ありふれているか、人の手をかけているかで決まるように思う。札幌に住んでいた時にタンポポがあまりに大輪で、ガーベラより豪華なので、近くの空き地に咲いているのを持ってきたことがある。持ってきたらだめなものとは思わなかったが、花屋に払うお金を惜しんでいるように思われそうで、人目のない早朝にもってこようとしたら、犬を散歩させる人で昼間より人の目が多く、更に早朝に出なおした。
常盤緑道にタチアオイが綺麗に咲くところがある。今(5月8日)は蕾がたくさんできている。その場所に注意書きがあった。もうすぐ花がきれいに咲くので、いじめないでね、という内容だ。葉をちぎったり茎を折って踏みにじったりして荒す人がいるものだろうか、と思ったら、花めをもっていかないでという注意書きもあり、家に飾るために持って行くのだと気付いた。よく見ると先っぽがない茎もあり、切り口が綺麗なので、手でちぎったのではなくハサミで切ったものだろう。まさに咲いているのを目にして衝動的に折ったのではなく、計画的犯行だ。それをした人は道端の雑草の感覚だったのかもしれない。
田島緑地の桜草は、持っていったらダメなのははっきりしている。もっとも、江戸時代なら微妙だ。
見沼代用水路沿いのヤブカンゾウも、だめだろう。平安時代ならわからない。ヒメジョン(ハルジオンかもしれない)は、持っていってもいいような気がする。用水路脇の案内板を見ると外来種でむしろ悪者扱いになっている。

2014年5月6日火曜日
太陽の帝国(4)
CDには反戦映画と紹介されている。子供の頃、第二次世界大戦の時の厳しい食料事情や生活水準の低下を描くと、またそういう経験をしたくないと思わせることで、戦争が起こることを防ぐのに効果があると思っていた。最近は、そのことについて疑問を感じている。今、戦争が起きたとしても、その戦争によって第二次世界大戦時において経験した苦難と同じ苦難が起こるのか疑問に思うからだ。
捕虜収容所の生活は、「脚気とマラリヤで死ぬ」(231頁)、「粗びきの小麦とサツマイモのはいったバケツから湯気が立ち上り」(232頁)、「収容所内の池から汲んできた少しばかり塩気のある水を煮沸」「骨を折って湯を沸かすよりも、慢性の下痢に罹っている方を選んだ」(212頁)というようなものだ。
この貧しさが戦争の結果であるかは疑問だ。アガサ・クリスティの自伝を読むと第二次世界大戦が終わって軍務から戻った夫と再会した時には、二人とも戦争前よりも太っていたとある。アメリカとイギリスが豊かで中国と日本が貧しかったということではないのか。貧しさは戦争の結果ではなく原因だったのだと思う。戦争が終わってアメリカ軍が飛行機で食料を落とす。脂肪たっぷりのミルクの粉末、缶詰に入ったハム、チョコレート、戦争は相手がなければできない。アメリカも四年間戦争していたはずだ。
豊かになるために戦争を始めたのだとしたら、戦争に負けたにも関わらず豊さを実現したように思う。戦争せずに戦争の目的は実現できたことになる。
今は、むしろ貧しくて戦争を始めた方の側の失敗ではなく、他国より経済的に優位にたっていて戦争を回避できなかった国の失敗に学んだ方がよいように思う。
本を読んでも映画を見ても、思うのは戦争の悲惨さよりもイギリスとアメリカに対して、どうしてこうも中国は貧しいのかということ。
小説のはじめと終りに川を流れる棺が出てくる。以下が小説の最後の文章。
「アメリカの巡洋艦の水兵たちを乗せた揚陸艇の立てる波に洗われて、紙の花が揺れて散らばる。それは波にたゆたいながら、花環のように棺を取り囲んだ。その棺はこれから揚子江の河口までの長い旅路に出るのだが、自然と内陸にはいってくる潮流によって、埠頭や干潟へと戻ってくるだけなのだ。この恐るべき都市の川岸へ再び押し返されるだけなのだ。」
これが、バラードの世界だ。
捕虜収容所の生活は、「脚気とマラリヤで死ぬ」(231頁)、「粗びきの小麦とサツマイモのはいったバケツから湯気が立ち上り」(232頁)、「収容所内の池から汲んできた少しばかり塩気のある水を煮沸」「骨を折って湯を沸かすよりも、慢性の下痢に罹っている方を選んだ」(212頁)というようなものだ。
この貧しさが戦争の結果であるかは疑問だ。アガサ・クリスティの自伝を読むと第二次世界大戦が終わって軍務から戻った夫と再会した時には、二人とも戦争前よりも太っていたとある。アメリカとイギリスが豊かで中国と日本が貧しかったということではないのか。貧しさは戦争の結果ではなく原因だったのだと思う。戦争が終わってアメリカ軍が飛行機で食料を落とす。脂肪たっぷりのミルクの粉末、缶詰に入ったハム、チョコレート、戦争は相手がなければできない。アメリカも四年間戦争していたはずだ。
豊かになるために戦争を始めたのだとしたら、戦争に負けたにも関わらず豊さを実現したように思う。戦争せずに戦争の目的は実現できたことになる。
今は、むしろ貧しくて戦争を始めた方の側の失敗ではなく、他国より経済的に優位にたっていて戦争を回避できなかった国の失敗に学んだ方がよいように思う。
本を読んでも映画を見ても、思うのは戦争の悲惨さよりもイギリスとアメリカに対して、どうしてこうも中国は貧しいのかということ。
小説のはじめと終りに川を流れる棺が出てくる。以下が小説の最後の文章。
「アメリカの巡洋艦の水兵たちを乗せた揚陸艇の立てる波に洗われて、紙の花が揺れて散らばる。それは波にたゆたいながら、花環のように棺を取り囲んだ。その棺はこれから揚子江の河口までの長い旅路に出るのだが、自然と内陸にはいってくる潮流によって、埠頭や干潟へと戻ってくるだけなのだ。この恐るべき都市の川岸へ再び押し返されるだけなのだ。」
これが、バラードの世界だ。
2014年5月5日月曜日
太陽の帝国(3)
スピルバーグ監督映画の割には知名度が低いように思う。主演の少年が大人になって俳優として成功したか気になってネットでみたら、有名な俳優のようだ。役作りのために肉体を変化させることが話題になっているようだが、この作品でも食料事情のせいで最後はかなりやつれ、最初と最後とで演じている少年が交代したのかと思ったくらいの変わりようだ。
あまり有名な作品にならなかったのは、原作者のバラードに原因があるように思う。バラードがつくりだす世界と映画を見る人間の期待との間にずれがあるのだろう。
映画を見る人は、日本人もイギリス人も同じ人間だから敵味方を超えたなんらかの温かい心の交流というヒューマニズムを期待したり、あるいは、日本軍に対抗して捕虜同志助け合うとか知恵と勇気を発揮して苦難を乗り越えるなどの冒険やスリルやヒーローの活躍などを期待するだろう。または、戦争の悲惨さや残酷さで心を痛めたいのかもしれない。
しかし、バロウズの小説には特別な悪人も善人も出てこないし、特別な悪行も善行もなされない。現実の世界に生きている普通の人の普通の行為しかない。「太平洋戦争時の上海と上海近郊の日本軍の捕虜収容所」という特異な設定から生じる特別なこと以外に特別なことは起こらない。
作られたストーリーの面白さや退屈な現実生活で味わえないような感情を期待するとがっかりするだろう。
そういう意味では通俗的なものやセンチメンタルなものが嫌いな人向けだ。
映画の中の日本人の少年(後に少年兵)との心の交流や劇的で皮肉な少年兵の死は原作にはない(マンゴーをもらうところや少年兵の死はある)。空腹のときにへたに少し食べると余計にお腹が減るが、こういう映画にありがちなエピソードのおかげで、この路線でもっと感動的なものが見られるのではと期待させて肩すかしに終わっている。何を描きたい映画か見る者を惑わせるだけのように思う。原作の雰囲気が好きな人には、余計な脚色だろう。
あまり有名な作品にならなかったのは、原作者のバラードに原因があるように思う。バラードがつくりだす世界と映画を見る人間の期待との間にずれがあるのだろう。
映画を見る人は、日本人もイギリス人も同じ人間だから敵味方を超えたなんらかの温かい心の交流というヒューマニズムを期待したり、あるいは、日本軍に対抗して捕虜同志助け合うとか知恵と勇気を発揮して苦難を乗り越えるなどの冒険やスリルやヒーローの活躍などを期待するだろう。または、戦争の悲惨さや残酷さで心を痛めたいのかもしれない。
しかし、バロウズの小説には特別な悪人も善人も出てこないし、特別な悪行も善行もなされない。現実の世界に生きている普通の人の普通の行為しかない。「太平洋戦争時の上海と上海近郊の日本軍の捕虜収容所」という特異な設定から生じる特別なこと以外に特別なことは起こらない。
作られたストーリーの面白さや退屈な現実生活で味わえないような感情を期待するとがっかりするだろう。
そういう意味では通俗的なものやセンチメンタルなものが嫌いな人向けだ。
映画の中の日本人の少年(後に少年兵)との心の交流や劇的で皮肉な少年兵の死は原作にはない(マンゴーをもらうところや少年兵の死はある)。空腹のときにへたに少し食べると余計にお腹が減るが、こういう映画にありがちなエピソードのおかげで、この路線でもっと感動的なものが見られるのではと期待させて肩すかしに終わっている。何を描きたい映画か見る者を惑わせるだけのように思う。原作の雰囲気が好きな人には、余計な脚色だろう。
2014年5月4日日曜日
太陽の帝国(2)
監督が有名なのにも関わらず、映画が上映された当時の記憶が全くなかった。
CDを見て、一番印象的な絵が、主人公が自宅に戻った時に、宿舎として使用していた日本兵が家から出てきたところだ。
小説でいうと132頁「そのとき人影がふたつ、玄関のポーチから歩み寄ってきた。白い衣を着て、腕から長い袖をたなびかせている。ジムは家に戻ってきていた母親が、客のひとりを見送っているところに違いないと思った。」「そして人影は、軍用キモノをはおった非番の日本軍兵士であることがわかった。」「キモノ姿の日本人が、風呂上がりを襲われた女性の一団のごとく、家から駆け出てくる。」
中から出てきた人間の白くて薄い衣の後ろから光が射して身体が透けて見える。ナイトガウンをまとった女性と思った瞬間、身体が男性で坊主頭であることに気付き、どきっとすると同時にぎょっとした。
主人公はアメリカ人の男性二人とトラックできていたが、家の中から出てきた白いキモノを着た大勢の男性に襲われる。長い袖をたなびかせてトラックを襲う姿も異様だ。
後からだんだんとその光景を見たことがあるような気がしてきた。テレビで映画のCMを流すが、それで見たのではないかと思う。確認することができないのが残念だ。
主人公は中国人に襲われ、助けてもらったアメリカ人にも邪魔にされ、生きていくには日本軍の庇護を受けるしかないと思い、日本軍に降伏して両親が収容されているはずの捕虜収容所に送られることを望んでいたのが、ここでようやっと願いがかなう。
CDを見て、一番印象的な絵が、主人公が自宅に戻った時に、宿舎として使用していた日本兵が家から出てきたところだ。
小説でいうと132頁「そのとき人影がふたつ、玄関のポーチから歩み寄ってきた。白い衣を着て、腕から長い袖をたなびかせている。ジムは家に戻ってきていた母親が、客のひとりを見送っているところに違いないと思った。」「そして人影は、軍用キモノをはおった非番の日本軍兵士であることがわかった。」「キモノ姿の日本人が、風呂上がりを襲われた女性の一団のごとく、家から駆け出てくる。」
中から出てきた人間の白くて薄い衣の後ろから光が射して身体が透けて見える。ナイトガウンをまとった女性と思った瞬間、身体が男性で坊主頭であることに気付き、どきっとすると同時にぎょっとした。
主人公はアメリカ人の男性二人とトラックできていたが、家の中から出てきた白いキモノを着た大勢の男性に襲われる。長い袖をたなびかせてトラックを襲う姿も異様だ。
後からだんだんとその光景を見たことがあるような気がしてきた。テレビで映画のCMを流すが、それで見たのではないかと思う。確認することができないのが残念だ。
主人公は中国人に襲われ、助けてもらったアメリカ人にも邪魔にされ、生きていくには日本軍の庇護を受けるしかないと思い、日本軍に降伏して両親が収容されているはずの捕虜収容所に送られることを望んでいたのが、ここでようやっと願いがかなう。
2014年5月3日土曜日
太陽の帝国
バラード作、SF作家として有名だと思っていたが、『太陽の帝国』はSFではない。スピルバーグ監督の映画があるのを知り、映画のCDと原作を両方借りた。
映画と小説、どちらを先に読むか迷う。小説を読んでいる途中で映画を見る。小説は11歳の少年の視点から書かれているので、主人公の少年にわからないことは読者にもわからない。
主人公は上海に住むイギリス人の少年だ。父親は裕福で中国人の使用人を使い、プールのある家に住んでいる。
主人公は、上海市内のホテルに泊まっていて、早朝、日本軍の軍艦がイギリス軍の軍艦に攻撃を仕掛けるのを見る。自宅があるのにホテルに泊まっている理由がわからない。映画を見て、事情がわかる。
太平洋戦争でのハワイの真珠湾攻撃は知っていたが、同時期に他の場所で日本軍による攻撃があっても不思議ではないのに、そのことについて何も知らなかったことに気付いた。
日本の軍艦は最初にアメリカの軍艦に呼びかける。
47頁「日本軍の将校もその水しぶきには構わず、メガホンを通してウェイク号に何か呼びかけた。
ジムは窓ガラスに手のひらを叩きつけては、ひとりで大笑いをした。上海の人間なら誰でも知っていることだが、アメリカ軍の将校は誰ひとりウェイク号には乗っていないのだ。全員パーク・ホテルの各自の部屋でぐっすり眠りこけているだろう。案の定、船首楼から出て来たのは下着姿の中国人の乗組員だった。」
日本軍の戦艦は、「イギリスで建造され、日露戦争のさなか一九〇五年に日本に売り渡される前はイギリス海軍で使われていた」46頁。
イギリス軍の将校はホテルではなく船に寝泊まりしている。やっぱりこのころはもうイギリスよりアメリカの方が金持ちなんだなぁと思う。そして日本はイギリスのお古を使い、中国人は自国で他国の使用人になっている。最初の数頁で各国の力関係がよくわかる。
映画と小説、どちらを先に読むか迷う。小説を読んでいる途中で映画を見る。小説は11歳の少年の視点から書かれているので、主人公の少年にわからないことは読者にもわからない。
主人公は上海に住むイギリス人の少年だ。父親は裕福で中国人の使用人を使い、プールのある家に住んでいる。
主人公は、上海市内のホテルに泊まっていて、早朝、日本軍の軍艦がイギリス軍の軍艦に攻撃を仕掛けるのを見る。自宅があるのにホテルに泊まっている理由がわからない。映画を見て、事情がわかる。
太平洋戦争でのハワイの真珠湾攻撃は知っていたが、同時期に他の場所で日本軍による攻撃があっても不思議ではないのに、そのことについて何も知らなかったことに気付いた。
日本の軍艦は最初にアメリカの軍艦に呼びかける。
47頁「日本軍の将校もその水しぶきには構わず、メガホンを通してウェイク号に何か呼びかけた。
ジムは窓ガラスに手のひらを叩きつけては、ひとりで大笑いをした。上海の人間なら誰でも知っていることだが、アメリカ軍の将校は誰ひとりウェイク号には乗っていないのだ。全員パーク・ホテルの各自の部屋でぐっすり眠りこけているだろう。案の定、船首楼から出て来たのは下着姿の中国人の乗組員だった。」
日本軍の戦艦は、「イギリスで建造され、日露戦争のさなか一九〇五年に日本に売り渡される前はイギリス海軍で使われていた」46頁。
イギリス軍の将校はホテルではなく船に寝泊まりしている。やっぱりこのころはもうイギリスよりアメリカの方が金持ちなんだなぁと思う。そして日本はイギリスのお古を使い、中国人は自国で他国の使用人になっている。最初の数頁で各国の力関係がよくわかる。
2014年5月2日金曜日
別所沼のかいぼり(水面)
2014年4月29日火曜日
猿岩石日記(3)
ゴールしたのは1996年10月19日。パート1の初版がゴール前の10月10日、図書館の本が第21版で発行日が同年の12月15日、パート2の初版が同年の11月23日だ。
ゴール後に、途中、飛行機で移動していたことがわかり問題になったことを覚えている。移動区間までは覚えていなかったが、読んでいるとイラク滞在に空白の数日があるので、この間のことかと思う。
ネットで確認すると、タイからミャンマー、ミャンマーからインド、イランからトルコに入る時に飛行機を利用したようだ。インドからパキスタンに入るときの大変さが書かれており、これ以上の危険が予想されたのだろう。
日記を読んでいた時には、ミャンマー入りとインド入りについて、流れに不自然さを感じなかったが、改めて読んでみると、車に乗せてもらったり、国境を越えたときの状況の記載がない。
有吉さんの方の記載でいくと、5月24日「ついに首都ヤンゴンについた。」、5月28日「ついにインドに来てしまった。」で、経緯の説明がない。トルコ入りの方は、パート2に8月6日「とうとうイランだっしゅつ。トルコだ。」と書かれている。
パート2を読むと「全行程ヒッチハイク」に疑問を持つのはわかるが、パート1で疑問を感じた人は、なかなか鋭い人だと思う。『猿岩石裏日記』を読むと、途中飛行機を使ったことが新聞報道されたのは、パート2の出版前のようだ。きっかけは、『猿岩石日記』パート1の記述内容が疑惑を生んだからではないようだ。
改めて考えて見ると国境越えや関所越えの危険やスリルを書いた小説はたくさんある。国境を超えることに特に注意もしないで読んでしまうのは、日本が平和だからだろう。
ゴール後に、途中、飛行機で移動していたことがわかり問題になったことを覚えている。移動区間までは覚えていなかったが、読んでいるとイラク滞在に空白の数日があるので、この間のことかと思う。
ネットで確認すると、タイからミャンマー、ミャンマーからインド、イランからトルコに入る時に飛行機を利用したようだ。インドからパキスタンに入るときの大変さが書かれており、これ以上の危険が予想されたのだろう。
日記を読んでいた時には、ミャンマー入りとインド入りについて、流れに不自然さを感じなかったが、改めて読んでみると、車に乗せてもらったり、国境を越えたときの状況の記載がない。
有吉さんの方の記載でいくと、5月24日「ついに首都ヤンゴンについた。」、5月28日「ついにインドに来てしまった。」で、経緯の説明がない。トルコ入りの方は、パート2に8月6日「とうとうイランだっしゅつ。トルコだ。」と書かれている。
パート2を読むと「全行程ヒッチハイク」に疑問を持つのはわかるが、パート1で疑問を感じた人は、なかなか鋭い人だと思う。『猿岩石裏日記』を読むと、途中飛行機を使ったことが新聞報道されたのは、パート2の出版前のようだ。きっかけは、『猿岩石日記』パート1の記述内容が疑惑を生んだからではないようだ。
改めて考えて見ると国境越えや関所越えの危険やスリルを書いた小説はたくさんある。国境を超えることに特に注意もしないで読んでしまうのは、日本が平和だからだろう。
2014年4月27日日曜日
猿岩石日記(2)
パート2のまえがきに、以下の記述がある。
ユーラシア大陸横断ヒッチハイクと闘う猿岩石を応援してくれたのならば、日本の芸能界で闘う彼らを是非応援してあげてください。
間違いなくもっと厳しい闘いになるのですから・・・・。
そして、有吉君と森脇君へ
漢字の勉強をしましょう。
誤字に対する態度が明らかに厳しくなっている。パート2を読むうちに同じ気持ちになる。傍点を目にするたびに正しい漢字は何かと考える。そのせいで自分の漢字の知識をたえず試されている緊張感を感じる。漢字クイズがやりたいわけじゃない。いいかげんに誤字をなんとかしろと言いたい。
33頁、上段に「点適」が出てくる。「適」が間違っているのだろうが、正解がすぐに出てこない。下段36頁では「てんてき」とある。間違ってはいない。ただ、記述式試験であやふやな漢字をすべてひらがなで書くわけにはいかない。批判のハン、最小のショウ、非難のヒ、否定のヒ、それぞれ反、少、否、非じゃないかと迷った過去を思い出してしまった。自立と自律でも痛い目にあった。読んでいるうちに「滴」だと気付く。ヘンの間違いは結構ある。
44頁、下段に「有吉、大活殺」とある。その場を大いに活気づけるような殺しか、いったい何を言いたい?意味自体とれない誤字が初めて登場した。同音異義語の間違いは、間違った漢字の意味の方がぴったりくることが多く、書いている人間の心境がわかっておもしろい。わかったうえでのギャグにもなる。しかし、これは?有吉が何をしたのかから考える。「カツヤク」とわかる。「役」のヘンを間違え「殺」になったのだろう。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚め、ベットの中で暇なので、いろいろ考えていたら、「カツヤク」の漢字は「活役」ではなく「活躍」じゃないかと気づく。間違ったうえに更に間違える。ある意味、天才だ。それともつい真意が出たのか。確かに役にたつことをしている。真相はわからない
ユーラシア大陸横断ヒッチハイクと闘う猿岩石を応援してくれたのならば、日本の芸能界で闘う彼らを是非応援してあげてください。
間違いなくもっと厳しい闘いになるのですから・・・・。
そして、有吉君と森脇君へ
漢字の勉強をしましょう。
誤字に対する態度が明らかに厳しくなっている。パート2を読むうちに同じ気持ちになる。傍点を目にするたびに正しい漢字は何かと考える。そのせいで自分の漢字の知識をたえず試されている緊張感を感じる。漢字クイズがやりたいわけじゃない。いいかげんに誤字をなんとかしろと言いたい。
33頁、上段に「点適」が出てくる。「適」が間違っているのだろうが、正解がすぐに出てこない。下段36頁では「てんてき」とある。間違ってはいない。ただ、記述式試験であやふやな漢字をすべてひらがなで書くわけにはいかない。批判のハン、最小のショウ、非難のヒ、否定のヒ、それぞれ反、少、否、非じゃないかと迷った過去を思い出してしまった。自立と自律でも痛い目にあった。読んでいるうちに「滴」だと気付く。ヘンの間違いは結構ある。
44頁、下段に「有吉、大活殺」とある。その場を大いに活気づけるような殺しか、いったい何を言いたい?意味自体とれない誤字が初めて登場した。同音異義語の間違いは、間違った漢字の意味の方がぴったりくることが多く、書いている人間の心境がわかっておもしろい。わかったうえでのギャグにもなる。しかし、これは?有吉が何をしたのかから考える。「カツヤク」とわかる。「役」のヘンを間違え「殺」になったのだろう。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚め、ベットの中で暇なので、いろいろ考えていたら、「カツヤク」の漢字は「活役」ではなく「活躍」じゃないかと気づく。間違ったうえに更に間違える。ある意味、天才だ。それともつい真意が出たのか。確かに役にたつことをしている。真相はわからない
2014年4月26日土曜日
猿岩石日記
あのヒッチハイクについて、最初から最後まで通して知りたくなったので、読んでみる。
更に、最近の有吉さんの活躍を考え、内容だけでなく文章にも期待した。期待を裏切らないおもしろさだ。
上半分が有吉さん、下半分が相方の日記になっている。有吉さんは、ネタとは思うが相方を下に見ている風がある。
辞書も見ずに手書きした日記なので誤字が結構ある。「彼らの感じたことをそのまま表現するために(あるいは誤字が実は彼らの高等ギャグかもしれないし)、訂正は最小限にとどめました。また、誤字であっても意味深長なものについては傍点をふっておきました。」とまえがきにある。
パート1の186頁の有吉さんの日記に「観行」とあり、傍点がふってある。誤字だ。正しい漢字は?と思い、コウの方が間違っているから「興」かしらと思う。なんか違う。相方の方を読むと「観光」とあり、もちろん傍点はない。思わず恥じ入る。と同時に、今有吉さんがえらそうなことを言った時に、この事実を指摘したら、ギャフンと言わせることができるのにと、知り合いでないのを残念に思う。
更に、最近の有吉さんの活躍を考え、内容だけでなく文章にも期待した。期待を裏切らないおもしろさだ。
上半分が有吉さん、下半分が相方の日記になっている。有吉さんは、ネタとは思うが相方を下に見ている風がある。
辞書も見ずに手書きした日記なので誤字が結構ある。「彼らの感じたことをそのまま表現するために(あるいは誤字が実は彼らの高等ギャグかもしれないし)、訂正は最小限にとどめました。また、誤字であっても意味深長なものについては傍点をふっておきました。」とまえがきにある。
パート1の186頁の有吉さんの日記に「観行」とあり、傍点がふってある。誤字だ。正しい漢字は?と思い、コウの方が間違っているから「興」かしらと思う。なんか違う。相方の方を読むと「観光」とあり、もちろん傍点はない。思わず恥じ入る。と同時に、今有吉さんがえらそうなことを言った時に、この事実を指摘したら、ギャフンと言わせることができるのにと、知り合いでないのを残念に思う。
2014年4月25日金曜日
虜囚の恋
スティーヴンソン作、主人公はフランス人の貴族、ナポレオン軍の兵士として戦い、捕虜としてスコットランドに囚われていたが、脱出する。
スコットランドを旅してイングランドの大伯父のところまで行く。主人公は訛りなく英語を話せるので、英国人に成り済ます。主人公は英語を話せなければ冒険を成功させられないように思っている。55頁「異国語を訛りなくあやつる能力に運命を賭けなければならなかったのは、これがはじめてではなかった。」
ここで、ダルタニャンを思い出す。
『三銃士』では、全く英語がわからないのに、英国に行って冒険を成功させる。第二部の『二十年後』でも英国に行く。さすがに、英語の必要性を感じて、少しは話せるようになっているのかと思えば、全く英語を勉強していない。そして、英語がわからなくても冒険を成功させる。外国語を覚える能力がないわけでもなく、生まれたところがスペインに近かったせいか、当時スペインが大国だったせいかスペイン語は話せる。
この英語に対する態度の違いは作者が英国人かフランス人かの違いだろうか。
スコットランドを旅してイングランドの大伯父のところまで行く。主人公は訛りなく英語を話せるので、英国人に成り済ます。主人公は英語を話せなければ冒険を成功させられないように思っている。55頁「異国語を訛りなくあやつる能力に運命を賭けなければならなかったのは、これがはじめてではなかった。」
ここで、ダルタニャンを思い出す。
『三銃士』では、全く英語がわからないのに、英国に行って冒険を成功させる。第二部の『二十年後』でも英国に行く。さすがに、英語の必要性を感じて、少しは話せるようになっているのかと思えば、全く英語を勉強していない。そして、英語がわからなくても冒険を成功させる。外国語を覚える能力がないわけでもなく、生まれたところがスペインに近かったせいか、当時スペインが大国だったせいかスペイン語は話せる。
この英語に対する態度の違いは作者が英国人かフランス人かの違いだろうか。
2014年4月24日木曜日
別所沼のかいぼり(飼育魚)
2014年4月23日水曜日
別所沼のかいぼり(赤潮)
4月23日、ホースで水を沼に注いでいる。まだ、水が残っているところがあるので、その水をホースで排水溝の近くまで運んでいるようだ。
沼の水を排水する排水溝は沼の南西、ヒアシンスハウスの近くにある。まだ、水が残っているのは沼の北東、藤棚の近くだ。正反対の位置になる。
水面に茶色の異物が見える。赤潮だと思う。去年も一昨年も夏の暑い時期に水面が赤茶色になったことがある。その場所が、ちょうど今水が残っている場所と一致する。水深と赤潮の発生と関係があるのかはわからない。
水を抜いた後の作業内容がわからない。見物人が、お金がかかるので底の泥を取り除かずに、天日で乾燥するだけだと話していた。
底の土が出ている場所で、乾燥して地割れしているところがあったが、今は雨で濡れている。作業終了は今年の七月末を予定している。その前に梅雨がくる。終了時期を遅らせても台風がくる。
乾燥させただけで赤潮の発生をなくせるのか、充分に乾燥させられるのかはわからない。
それは、時の経過が教えてくれるのだろう。
ヒアシンスハウス

藤棚
沼の水を排水する排水溝は沼の南西、ヒアシンスハウスの近くにある。まだ、水が残っているのは沼の北東、藤棚の近くだ。正反対の位置になる。
水面に茶色の異物が見える。赤潮だと思う。去年も一昨年も夏の暑い時期に水面が赤茶色になったことがある。その場所が、ちょうど今水が残っている場所と一致する。水深と赤潮の発生と関係があるのかはわからない。
水を抜いた後の作業内容がわからない。見物人が、お金がかかるので底の泥を取り除かずに、天日で乾燥するだけだと話していた。
底の土が出ている場所で、乾燥して地割れしているところがあったが、今は雨で濡れている。作業終了は今年の七月末を予定している。その前に梅雨がくる。終了時期を遅らせても台風がくる。
乾燥させただけで赤潮の発生をなくせるのか、充分に乾燥させられるのかはわからない。
それは、時の経過が教えてくれるのだろう。
ヒアシンスハウス

藤棚

2014年4月22日火曜日
コレストロール(2)
テレビで、悪玉コレストロール÷善玉コレストロールの比率が問題だと言っていた。
自分の健康診断の数値では、比率は問題ない。健康診断で悪玉コレストロールが高い数値を示しても、治療の話が出ないのは、善玉コレストロールも高いためらしい。
高齢の場合は、コレストロール値が低い方が問題ともいうし、もうあまり気にしなくてもいいような気がしてきた。
ただ、野菜をちゃんと食べるようになったら、歯ぐきの腫れがなくなり、たくさん歩くようになったら、腰痛がなくなり、膝を曲げたときにギシギシ言わなくなった。
結局、コレストロールのことはよくわからないが、野菜の力と運動の効能はよくわかった。
自分の健康診断の数値では、比率は問題ない。健康診断で悪玉コレストロールが高い数値を示しても、治療の話が出ないのは、善玉コレストロールも高いためらしい。
高齢の場合は、コレストロール値が低い方が問題ともいうし、もうあまり気にしなくてもいいような気がしてきた。
ただ、野菜をちゃんと食べるようになったら、歯ぐきの腫れがなくなり、たくさん歩くようになったら、腰痛がなくなり、膝を曲げたときにギシギシ言わなくなった。
結局、コレストロールのことはよくわからないが、野菜の力と運動の効能はよくわかった。
2014年4月20日日曜日
天保水滸伝
利根川の河岸の話と言うと『天保水滸伝』ということになるらしい。平手造酒の名前は知っていたが、それはNHKのドラマ「天下堂々」の登場人物だったからだ。
山口瞳が書いた『巷説天保水滸伝』を読んだ。これは、有名な二人の人物が大人になり出会って、争いを始めるところで終わっている。
河岸には宿場と同様に賭場があり、その賭場の縄張り争いの話が『天保水滸伝』ということになるらしい。
残念ながら、天保水滸伝の話では、利根川や江戸川を船で行き来して生きていた人の生活の様子はわからない。
2014年4月19日土曜日
ハナミズキ
桜の花に変わって、ハナミズキのピンクと白の花が目につくようになった。
歩道の脇に小休止できるベンチが置いてあって、ベンチの後ろにあったハナミズキの木が久しぶりに通りかかったらなくなっていた。休憩場所の木かと思ったら、隣家の庭の木だったらしい。隣にあった家がなくなり空き地になっていた。

街灯の後ろの木も何の木かわかる前に、なくなっていた。
歩道の脇に小休止できるベンチが置いてあって、ベンチの後ろにあったハナミズキの木が久しぶりに通りかかったらなくなっていた。休憩場所の木かと思ったら、隣家の庭の木だったらしい。隣にあった家がなくなり空き地になっていた。


街灯の後ろの木も何の木かわかる前に、なくなっていた。
2014年4月18日金曜日
シェークスピア名台詞(3)
どういう状況で誰から誰に言った言葉か、白水uブックスの小田島雄志訳で確認した。
『ロミオとジュリエット』 71頁第二幕第二場
ロミオ 満たされぬぼくをこのままに行かれるのか?
ジュリエット どんな満足をいま手にすることができまして?
ロミオ あなたの愛の誓約を、ぼくの誓いとひきかえに。
ジュリエット それはお求めになる前にさしあげたわ、できることなら返していただきたいとは思うけど。
ロミオ 返していただきたいですって?なんのために?
ジュリエット 気前よくあなたにもう一度さしあげるために。でもそれは、自分がもっているものをほしがることね。「私、気前のよさははてしないこと海のよう、恋の深さも。」いくらさしあげてもそれだけ私も受けとるわけですもの。「どちらもきりがないわ。」
日本語としては別の表現になっているが「」で囲まれた部分がブロックに表示されている。
海の水は循環している。蒸発して雲になり雨になって地上に降り川を流れて海に注ぐ。ジュリエットの台詞も「いくらさしあげてもそれだけ私も受けとるわけですもの。」の部分が重要に思う。
両想いの場合の台詞で、愛されない場合については何も語っていないと見るべきだろう。
『ロミオとジュリエット』 71頁第二幕第二場
ロミオ 満たされぬぼくをこのままに行かれるのか?
ジュリエット どんな満足をいま手にすることができまして?
ロミオ あなたの愛の誓約を、ぼくの誓いとひきかえに。
ジュリエット それはお求めになる前にさしあげたわ、できることなら返していただきたいとは思うけど。
ロミオ 返していただきたいですって?なんのために?
ジュリエット 気前よくあなたにもう一度さしあげるために。でもそれは、自分がもっているものをほしがることね。「私、気前のよさははてしないこと海のよう、恋の深さも。」いくらさしあげてもそれだけ私も受けとるわけですもの。「どちらもきりがないわ。」
日本語としては別の表現になっているが「」で囲まれた部分がブロックに表示されている。
海の水は循環している。蒸発して雲になり雨になって地上に降り川を流れて海に注ぐ。ジュリエットの台詞も「いくらさしあげてもそれだけ私も受けとるわけですもの。」の部分が重要に思う。
両想いの場合の台詞で、愛されない場合については何も語っていないと見るべきだろう。
2014年4月17日木曜日
シェークスピア名台詞(2)
もう一度見に行くと、反対側の歩道にも、台詞付きのブロックが敷いてある。
探していたのと同じ意味のものが中間ぐらいの位置にあった。具体的な言葉は覚えていないので断言できないが、場所を動かしたようだ。
最初に見た台詞の意味は、愛する場合は、やりすぎずにほどほどにしておくようにというものだった。今、一番劇場に近い場所にあるのは、海が汲みども尽きぬように愛もどこまでも湧いてくるといったような意味だ。
台詞覚えが悪く正確に再現できない。
意図的に配置しなおしたのだとすると、現実生活にとって役立ちそうな格言よりも劇を見に来る人の気持ちに沿ったものに変えたのだろうと思う。
良薬は口に苦しというけれど、人間性と人生についての真実はとかく皮肉に満ちているような気がする。
探していたのと同じ意味のものが中間ぐらいの位置にあった。具体的な言葉は覚えていないので断言できないが、場所を動かしたようだ。
最初に見た台詞の意味は、愛する場合は、やりすぎずにほどほどにしておくようにというものだった。今、一番劇場に近い場所にあるのは、海が汲みども尽きぬように愛もどこまでも湧いてくるといったような意味だ。
台詞覚えが悪く正確に再現できない。
意図的に配置しなおしたのだとすると、現実生活にとって役立ちそうな格言よりも劇を見に来る人の気持ちに沿ったものに変えたのだろうと思う。
良薬は口に苦しというけれど、人間性と人生についての真実はとかく皮肉に満ちているような気がする。
2014年4月16日水曜日
シェークスピア名台詞
埼京線与野本町駅からさいたま芸術劇場に行く途中に、シェークスピア劇に出演した俳優の手形が並んでいる。

最近その前を通ったら、シェークスピアの劇の台詞が読める歩道のブロックが増えていた。
今年の一月には一つだけだったのが、今見ると与野本町駅の横の交差点から劇場前の交差点まで間をおいて続いていた。夜になると明かりがつき足元を照らすようになっている。
最初に見た言葉をもう一度読もうと思ったが見当たらない。気になる。
与野本町駅の横の交差点

最近その前を通ったら、シェークスピアの劇の台詞が読める歩道のブロックが増えていた。
今年の一月には一つだけだったのが、今見ると与野本町駅の横の交差点から劇場前の交差点まで間をおいて続いていた。夜になると明かりがつき足元を照らすようになっている。
最初に見た言葉をもう一度読もうと思ったが見当たらない。気になる。
与野本町駅の横の交差点

2014年4月15日火曜日
利根運河
『河岸に生きる人びと』を読むと、境河岸は旅客運送だけでなく貨物運送でも競争にさらされている。
鬼怒川を下ってきた荷物は、鬼怒川の途中で陸路に切り替え、境河岸に運び、そこで船に積み直して江戸川を下って江戸に運ぶ。この陸路を境通りと言う。
これに対抗して、鬼怒川で利根川まで船で運び、利根川から江戸川まで陸路をとり、江戸川の中流で船に積み直して江戸まで運ぶという運搬方法が出てくる。この方法だと境通りより陸路を短くすることができるという利点がある。どの地点で利根川から江戸川まで運ぶかでも競争があった。
境通りの宿場は、新ルートの禁止を代官所に願い出たが、訴えの根拠としては、境通りが奥州・日光道中の脇往還になっていて、一般荷物輸送の利益で役儀を勤めているが、利益が出なくなれば、それができなくなるというものだ。訴訟では、新ルートの負けだったが、新ルートの輸送は止まらなかったようだ。
明治になって、利根川と江戸川をつなぐ運河ができた。
小樽運河は知っていたが、利根運河の事は初めて知った。
鬼怒川を下ってきた荷物は、鬼怒川の途中で陸路に切り替え、境河岸に運び、そこで船に積み直して江戸川を下って江戸に運ぶ。この陸路を境通りと言う。
これに対抗して、鬼怒川で利根川まで船で運び、利根川から江戸川まで陸路をとり、江戸川の中流で船に積み直して江戸まで運ぶという運搬方法が出てくる。この方法だと境通りより陸路を短くすることができるという利点がある。どの地点で利根川から江戸川まで運ぶかでも競争があった。
境通りの宿場は、新ルートの禁止を代官所に願い出たが、訴えの根拠としては、境通りが奥州・日光道中の脇往還になっていて、一般荷物輸送の利益で役儀を勤めているが、利益が出なくなれば、それができなくなるというものだ。訴訟では、新ルートの負けだったが、新ルートの輸送は止まらなかったようだ。
明治になって、利根川と江戸川をつなぐ運河ができた。
小樽運河は知っていたが、利根運河の事は初めて知った。
2014年4月14日月曜日
びんの悪魔
スティーブンソン作、おもしろかった。
不死以外の望みは、なんでもかなえてくれる小瓶がある。ただし死ぬまで小瓶を持っていると死んだあと地獄に行く。地獄行きを免れるには、自分が買ったのよりも安い値段で小瓶を誰かに売らなければならない。
主人公は小瓶を買って望みの家を手に入れ、友人に小瓶を売る。ところが結婚目前に伝染病にかかる。もう一度小瓶を買い病気を治し結婚するが、自分が買った値段より安く売ることができない。
妻の助けで小瓶を売って、「二人はずっと幸せに暮らしている」で物語は終わる。どうやって難問を解決したかは、推理小説の結末を話すのと同様タブーだろう。
結末を知って「皮肉だな」と思う。コロンブスの卵のようだとも思う。
不死以外の望みは、なんでもかなえてくれる小瓶がある。ただし死ぬまで小瓶を持っていると死んだあと地獄に行く。地獄行きを免れるには、自分が買ったのよりも安い値段で小瓶を誰かに売らなければならない。
主人公は小瓶を買って望みの家を手に入れ、友人に小瓶を売る。ところが結婚目前に伝染病にかかる。もう一度小瓶を買い病気を治し結婚するが、自分が買った値段より安く売ることができない。
妻の助けで小瓶を売って、「二人はずっと幸せに暮らしている」で物語は終わる。どうやって難問を解決したかは、推理小説の結末を話すのと同様タブーだろう。
結末を知って「皮肉だな」と思う。コロンブスの卵のようだとも思う。
2014年4月13日日曜日
伊能忠敬
『河岸に生きる人びと』の副題は「利根川水運の社会史」となっている。歴史上の有名人は出てこないと思っていたら、伊能忠敬が出てきた。
幕府が河岸を公認し、河岸問屋から運上金を払わせようとする。伊能忠敬のいた佐原は、運上金の支払いを避けるため、佐原に河岸はなく問屋はいないと幕府に回答する。すると役人から、今後は隣河岸問屋の送状で運送するようにと言われる。
それでは困るということで、やっぱり河岸問屋はいると答えたら証拠を出せと言われ、伊能忠敬が自宅の蔵を調べると、三代前の当主が整理した記録が出てきた。その記録のおかげで佐原河岸が幕府に認められることになった。
その記録は隠居後の約五年の間になされたもので、伊能忠敬は隠居後でも大事業ができるという驚きと衝撃を受ける。
伊能忠敬の測量が隠居後の仕事だとは知っていたが、こういう逸話があるのは知らなかった。佐原の人だということも知らず、なんとなく水戸と関係がある気がしていた。水戸黄門からの連想だと思う。
幕府が河岸を公認し、河岸問屋から運上金を払わせようとする。伊能忠敬のいた佐原は、運上金の支払いを避けるため、佐原に河岸はなく問屋はいないと幕府に回答する。すると役人から、今後は隣河岸問屋の送状で運送するようにと言われる。
それでは困るということで、やっぱり河岸問屋はいると答えたら証拠を出せと言われ、伊能忠敬が自宅の蔵を調べると、三代前の当主が整理した記録が出てきた。その記録のおかげで佐原河岸が幕府に認められることになった。
その記録は隠居後の約五年の間になされたもので、伊能忠敬は隠居後でも大事業ができるという驚きと衝撃を受ける。
伊能忠敬の測量が隠居後の仕事だとは知っていたが、こういう逸話があるのは知らなかった。佐原の人だということも知らず、なんとなく水戸と関係がある気がしていた。水戸黄門からの連想だと思う。
2014年4月12日土曜日
夜船
『河岸に生きる人びと』を読むと、境河岸から江戸まで乗合夜船が出ていたことがわかる。
境河岸の対岸の関宿河岸でも乗合夜船を出すが、正式な許可を受けていないので、度々船を出した人間が処罰されている。
利根川と江戸川の分流地点の河岸どおしの争いだけかと思っていたら、思わぬところから攻撃を受ける。
文化七年(1810)、日光道中の千住宿から、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋までの七ヶ宿が、境河岸の両問屋および向下河岸(関宿河岸は三つの河岸から成り、そのうちの一つ)の勘兵衛を幕府道中奉行に訴え出た。
結果、境河岸の主張の方が認められたようだ。
今年の正月に、柴又に行き、江戸川の矢切りの渡しを見ていたら、川岸に災害時に船を着岸させるところがあった。今、船も見直されているようだ。
境河岸の対岸の関宿河岸でも乗合夜船を出すが、正式な許可を受けていないので、度々船を出した人間が処罰されている。
利根川と江戸川の分流地点の河岸どおしの争いだけかと思っていたら、思わぬところから攻撃を受ける。
文化七年(1810)、日光道中の千住宿から、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋までの七ヶ宿が、境河岸の両問屋および向下河岸(関宿河岸は三つの河岸から成り、そのうちの一つ)の勘兵衛を幕府道中奉行に訴え出た。
結果、境河岸の主張の方が認められたようだ。
今年の正月に、柴又に行き、江戸川の矢切りの渡しを見ていたら、川岸に災害時に船を着岸させるところがあった。今、船も見直されているようだ。
2014年4月11日金曜日
大山
『河岸に生きる人びと』で、寛政四年(1792)、境河岸で船持81人が河岸問屋を訴えた事件を読んだ。
大山の石尊様に参詣する客の争奪戦が背景にあったらしい。大山といえば、旧中山道から少し入ったところにある庚申塔の側面にこの文字が刻まれていたのを思い出した。
訴状は関宿藩の役所に提出された。境河岸は利根川と江戸川が分かれるところの利根川の左岸にある。
大山の石尊様に参詣する客の争奪戦が背景にあったらしい。大山といえば、旧中山道から少し入ったところにある庚申塔の側面にこの文字が刻まれていたのを思い出した。
訴状は関宿藩の役所に提出された。境河岸は利根川と江戸川が分かれるところの利根川の左岸にある。


2014年4月10日木曜日
与野中央公園整備(高沼用水路)
与野中央公園の公園予定地内に最後に残っていた家も撤去され、公園整備の工事が始められるようだ。
予定地の西端に高沼用水路西縁が流れている。水の流れを止めて護岸工事をしていたと思ったら、両脇が舗装されていた。公園側が幅二メートル、反対側が幅一メートルくらいの遊歩道ができた。
鴻沼川沿いの桜並木と公園予定地

予定地の西端に高沼用水路西縁が流れている。水の流れを止めて護岸工事をしていたと思ったら、両脇が舗装されていた。公園側が幅二メートル、反対側が幅一メートルくらいの遊歩道ができた。
鴻沼川沿いの桜並木と公園予定地

2014年4月9日水曜日
別所沼のかいぼり(水の流れ道)
水が引けた底は、ほぼ平らで起伏が感じられない。
平らななかに、細い筋が走っている。この筋の入った感じが、見たことがあるような気がする。
春の雪解け水だ。平らな地面や凍った湖や川の水面に、こういう筋を見たことがある。
原理は同じなのだろう。水は低いところを流れる。平らに見えるところも高低差はあるのだろう。水はそういう低いところを求めて水平移動するものらしい。
平らななかに、細い筋が走っている。この筋の入った感じが、見たことがあるような気がする。
春の雪解け水だ。平らな地面や凍った湖や川の水面に、こういう筋を見たことがある。
原理は同じなのだろう。水は低いところを流れる。平らに見えるところも高低差はあるのだろう。水はそういう低いところを求めて水平移動するものらしい。
2014年4月8日火曜日
人口増
十数年くらい前に、本屋でSFの文庫を選んでいて、興味を持ったが買うのを止めた本をやっぱり読んでみたいと思うが題名も作者もわからない。
人口増のため、全員一週間のうちの特定の曜日だけ活動し、残りの六日間はカプセルの中で寝て過ごす。七分の一の人間が暮らしているのと同じことになる計算だ。七つの世界が同時進行しているが、それぞれ別の世界の人間と会うことはできない。
異次元の世界が存在するSFや時間旅行をするSFがある。何かの関係で自分が生きている世界とは別の世界、時間に生きている人間と知り合っても、自分の世界に戻ると、相手が死んだわけでなくても、もう会うことはできない。
何かの関係で別の曜日に生きている人間と知り合っても、やっぱり、相手が死んだわけでなくても、自分が生きている曜日に戻ったらもう二度と会うことはできない。
設定を読んだだけで中身を知らないが、面白い設定だと思う。
創元推理文庫のネットの図書目録で、J・G・バラードの短編集『時間都市』の中に「人口増加と居住スペースの話」があるのを知り図書館で借りた。結果、はずれだった。
その短編集の中に、ノートに他人が死ぬことを書いたら、そのとおりに死んだ、という話があった。「最後の秒読み」だ。ネットの感想に「デス・ノート」の「ある意味元ネタ」の話があるとあったが、この作品のことかと思う。バラードの方は、ノートに力があるのではなく、書く人間に力がある。
主人公はこの力を、自分の利益になるように使うことができない。邪魔者を消すことができても、その空いた席に自分が座ることができないからだ。ノートに書いたとおりに他人を死なせることができるという案は、誰が最初に使ったか問題になるほどの案でもないし、これだけなら誰が使っても問題ないように思う。
推理小説で、連続殺人事件で犯人は襲われたが怪我をしただけですんだ人間だというアイデアはよく使われる。自分が最初に読んだのはヴァン・ダインで次にエラリークイーンの「Yの悲劇」でクリスティも何度も使っている。このアイデアは誰が最初に使ったかは重要でもないし、誰が使ってもよいものだと思う。
自由に他人を死なせることができる力で自分の利益になることができるかを考えてみる。誰かを脅迫して自分の利益になることをやらせる。自分の正体を知られたら、こっそり暗殺されておしまいのような気がする。自分の力を誰かに信じさせ、かつ、自分の正体を知らせないようにすることができるか。「デス・ノート」ってどんな話だったっけと思う。
人口増のため、全員一週間のうちの特定の曜日だけ活動し、残りの六日間はカプセルの中で寝て過ごす。七分の一の人間が暮らしているのと同じことになる計算だ。七つの世界が同時進行しているが、それぞれ別の世界の人間と会うことはできない。
異次元の世界が存在するSFや時間旅行をするSFがある。何かの関係で自分が生きている世界とは別の世界、時間に生きている人間と知り合っても、自分の世界に戻ると、相手が死んだわけでなくても、もう会うことはできない。
何かの関係で別の曜日に生きている人間と知り合っても、やっぱり、相手が死んだわけでなくても、自分が生きている曜日に戻ったらもう二度と会うことはできない。
設定を読んだだけで中身を知らないが、面白い設定だと思う。
創元推理文庫のネットの図書目録で、J・G・バラードの短編集『時間都市』の中に「人口増加と居住スペースの話」があるのを知り図書館で借りた。結果、はずれだった。
その短編集の中に、ノートに他人が死ぬことを書いたら、そのとおりに死んだ、という話があった。「最後の秒読み」だ。ネットの感想に「デス・ノート」の「ある意味元ネタ」の話があるとあったが、この作品のことかと思う。バラードの方は、ノートに力があるのではなく、書く人間に力がある。
主人公はこの力を、自分の利益になるように使うことができない。邪魔者を消すことができても、その空いた席に自分が座ることができないからだ。ノートに書いたとおりに他人を死なせることができるという案は、誰が最初に使ったか問題になるほどの案でもないし、これだけなら誰が使っても問題ないように思う。
推理小説で、連続殺人事件で犯人は襲われたが怪我をしただけですんだ人間だというアイデアはよく使われる。自分が最初に読んだのはヴァン・ダインで次にエラリークイーンの「Yの悲劇」でクリスティも何度も使っている。このアイデアは誰が最初に使ったかは重要でもないし、誰が使ってもよいものだと思う。
自由に他人を死なせることができる力で自分の利益になることができるかを考えてみる。誰かを脅迫して自分の利益になることをやらせる。自分の正体を知られたら、こっそり暗殺されておしまいのような気がする。自分の力を誰かに信じさせ、かつ、自分の正体を知らせないようにすることができるか。「デス・ノート」ってどんな話だったっけと思う。
2014年4月7日月曜日
桜並木道(秋ヶ瀬公園)
並木というときには、道や川の両側に木が並んでいないとダメなのか、片側だけでもよいのか迷う。
桜並木は、両側に並んでいて花びらのトンネルのようになっているのがいい。
川の場合は、橋の上なら両側から桜の花が重なるのを眺められるが、車が通る道だと道の真ん中には、そうそういられない。
秋ヶ瀬公園内の桜並木はゆっくり見ていられるのがよい。

桜並木は、両側に並んでいて花びらのトンネルのようになっているのがいい。
川の場合は、橋の上なら両側から桜の花が重なるのを眺められるが、車が通る道だと道の真ん中には、そうそういられない。
秋ヶ瀬公園内の桜並木はゆっくり見ていられるのがよい。

2014年4月6日日曜日
スキップ
図書館に本を返しに行った。入り口前で小学校低学年くらいの女の子に追い越された。女の子はスキップをしていた。
本を返して反対側の入り口から外に出た。小学校入学前くらいの男の子が図書館の自転車置き場の横をスキップしていた。
子供って元気だな、と思う。大人になったら、無駄に同じ場所で二度跳ねたいとは思わない。
子供の時のスキップしたくなる気持ちを思いだそうとして、心の中でスキップして見た。なんか気持ちが明るく浮き立つような感じだ。
大人になったらスキップしなくなるのは、体力の問題より気持ちの問題だろうか。もしかしたら、宝くじで一億円あたって換金して家に帰るときにスキップしたくなるかも。
少し前に公民館で映画を見た後、帰るときに階段でスキップしながら降りていく女の子に追い越された。すごい、自分が子供の時でもそんなことはしたことがない。これは、運動神経の問題だ。ただ、子供の頃、平地でもスキップがうまくできない男の子がいたのを思い出した。どういうわけか女の子でそういう不器用な子はいなかったように思う。
本を返して反対側の入り口から外に出た。小学校入学前くらいの男の子が図書館の自転車置き場の横をスキップしていた。
子供って元気だな、と思う。大人になったら、無駄に同じ場所で二度跳ねたいとは思わない。
子供の時のスキップしたくなる気持ちを思いだそうとして、心の中でスキップして見た。なんか気持ちが明るく浮き立つような感じだ。
大人になったらスキップしなくなるのは、体力の問題より気持ちの問題だろうか。もしかしたら、宝くじで一億円あたって換金して家に帰るときにスキップしたくなるかも。
少し前に公民館で映画を見た後、帰るときに階段でスキップしながら降りていく女の子に追い越された。すごい、自分が子供の時でもそんなことはしたことがない。これは、運動神経の問題だ。ただ、子供の頃、平地でもスキップがうまくできない男の子がいたのを思い出した。どういうわけか女の子でそういう不器用な子はいなかったように思う。
2014年4月5日土曜日
別所沼のかいぼり(サギ飛翔)
4月4日、サギがきている。羽が灰色の大型のサギが二、三羽、純白の小型のサギも見える。
シラサギの方は、用水路、川、田で度々見かける。ただ、別所沼では、あまり見掛けなかった。灰色のサギの方は、かいぼりを始めてからの別所沼で見るのが初めてだ。どこから来たのだろう。
二羽のサギが羽を広げて沼の上を縦に飛んでいる。羽を広げると幅1.5メートルくらいはありそうだ。別所沼がせまく感じる。
空は晴れているところと黒雲が入り混じり、沼は泥色、葉の落ちた大木、その中を灰色サギが窮屈そうに飛びまわっているのだから、少し怖い。
空の様子もあやしいので早々に帰ることにする。武蔵野貨物線の上を通ると空がゴロゴロいっているのが聞こえる。かみなりかと思ったら、列車の通る音だ。と思ったらやっぱりかみなりだ。家に帰りついたところで雨が降ってきた。
4月5日、青空に白い雲が少しかかっている。サギがまたきているか、もっとよく見ようと行ってみる。いつもいた水鳥が二羽ほどいるばかりだ。魚類飼育施設の横で花見客がシートを広げている。人が多くて鳥も恐れをなしたのかもしれない。
シラサギの方は、用水路、川、田で度々見かける。ただ、別所沼では、あまり見掛けなかった。灰色のサギの方は、かいぼりを始めてからの別所沼で見るのが初めてだ。どこから来たのだろう。
二羽のサギが羽を広げて沼の上を縦に飛んでいる。羽を広げると幅1.5メートルくらいはありそうだ。別所沼がせまく感じる。
空は晴れているところと黒雲が入り混じり、沼は泥色、葉の落ちた大木、その中を灰色サギが窮屈そうに飛びまわっているのだから、少し怖い。
空の様子もあやしいので早々に帰ることにする。武蔵野貨物線の上を通ると空がゴロゴロいっているのが聞こえる。かみなりかと思ったら、列車の通る音だ。と思ったらやっぱりかみなりだ。家に帰りついたところで雨が降ってきた。
4月5日、青空に白い雲が少しかかっている。サギがまたきているか、もっとよく見ようと行ってみる。いつもいた水鳥が二羽ほどいるばかりだ。魚類飼育施設の横で花見客がシートを広げている。人が多くて鳥も恐れをなしたのかもしれない。
2014年4月4日金曜日
解雇権濫用法理と正当事由
ジュリスト4月号の37頁を読んでいて、「しかし、そもそも、労働契約法16条はどこをどうみても「権利濫用法理」として規定されていることが看過されてはならない。」という文章を、ミスプリント?と思ってしまった。
この筆者は、これまでの判例が4要素の検討によって濫用か否かを判断してきたとし、これを批判してもっと濫用を否定し解雇を有効と認めるべきという主張だ。
民法の一般条項(民法1条3項)としての権利濫用は、濫用されてはいけないもので、個々の法律に条文化されたら、濫用と認められるケースは多くなることはあっても少なくなることはないのが常識だと思っていた。
ところが、この文章を読むと労働法に条文化されたことによって、濫用と認められることは以前より減ると言っているように思え、すんなり読めなかった。
続けて読むと「同法理自体、本来すぐれて規範的な概念であり、その点に鑑みれば、事案の特性に応じた柔軟な解釈が行われて当然であり」考慮要素は4要素に限られるものではなく、もっと「事案の特性に応じた柔軟な解釈」をするべきと言っており正論であるが、労働契約法に条文化されたこととの関係が不明だ。
結局、これまでのやり方が、濫用法理に名を借りた実質「解雇には正当事由が必要だ」という判断になっていたことを批判し、これからは、本来解雇は有効、ただし濫用があれば解雇は認められないという、濫用の「本来」の使い方をするべきと言いたいらしい。それで条文がはっきりと「濫用」だと言っていることを見過ごさないようにという趣旨のようだ。そういえば、34頁の注2がついた本文で「事実上、いわゆる正当化事由説に近い運用がされている」と書かれている。
これは、法理論より終身雇用制かどうかが大きいと思う。
自分も新卒で就職したが、向いていないようで転職したかったが、辞めて就職しなおしても特別な才能も資格もなしだと、今の仕事より悪い条件の仕事しか見つからないと思い転職を思いとどまった。
問題は今の仕事を辞めても、今と同等以上の仕事を簡単に見つけられるかどうかだろう。解雇を容易にすることとが転職を容易にするかは不明だ。少なくとも新卒者以外の求職者に対してやさしい世の中になってほしいものだ。
旧司法試験の時代には、特別な才能や商才のない人にとって、弁護士資格をとるということは、新卒でよい就職ができなかった人にとっての敗者復活方の意味があった。
ジュリスト4月号は、編集室メモにも意味がわからない文章がある。「桜の咲かない被災地の入学式」どういう意味だろう。
自分は被災したことはないが、桜が咲いている入学式を経験したことはない。自分にとっては、数年前までは、「桜が咲いているゴールデンウィーク」だった。
言いたくないが、東京が日本ではない。書いている人の常識が思わず現れ、読む人に意味がよく伝わらない点で共通しているように思った。
この筆者は、これまでの判例が4要素の検討によって濫用か否かを判断してきたとし、これを批判してもっと濫用を否定し解雇を有効と認めるべきという主張だ。
民法の一般条項(民法1条3項)としての権利濫用は、濫用されてはいけないもので、個々の法律に条文化されたら、濫用と認められるケースは多くなることはあっても少なくなることはないのが常識だと思っていた。
ところが、この文章を読むと労働法に条文化されたことによって、濫用と認められることは以前より減ると言っているように思え、すんなり読めなかった。
続けて読むと「同法理自体、本来すぐれて規範的な概念であり、その点に鑑みれば、事案の特性に応じた柔軟な解釈が行われて当然であり」考慮要素は4要素に限られるものではなく、もっと「事案の特性に応じた柔軟な解釈」をするべきと言っており正論であるが、労働契約法に条文化されたこととの関係が不明だ。
結局、これまでのやり方が、濫用法理に名を借りた実質「解雇には正当事由が必要だ」という判断になっていたことを批判し、これからは、本来解雇は有効、ただし濫用があれば解雇は認められないという、濫用の「本来」の使い方をするべきと言いたいらしい。それで条文がはっきりと「濫用」だと言っていることを見過ごさないようにという趣旨のようだ。そういえば、34頁の注2がついた本文で「事実上、いわゆる正当化事由説に近い運用がされている」と書かれている。
これは、法理論より終身雇用制かどうかが大きいと思う。
自分も新卒で就職したが、向いていないようで転職したかったが、辞めて就職しなおしても特別な才能も資格もなしだと、今の仕事より悪い条件の仕事しか見つからないと思い転職を思いとどまった。
問題は今の仕事を辞めても、今と同等以上の仕事を簡単に見つけられるかどうかだろう。解雇を容易にすることとが転職を容易にするかは不明だ。少なくとも新卒者以外の求職者に対してやさしい世の中になってほしいものだ。
旧司法試験の時代には、特別な才能や商才のない人にとって、弁護士資格をとるということは、新卒でよい就職ができなかった人にとっての敗者復活方の意味があった。
ジュリスト4月号は、編集室メモにも意味がわからない文章がある。「桜の咲かない被災地の入学式」どういう意味だろう。
自分は被災したことはないが、桜が咲いている入学式を経験したことはない。自分にとっては、数年前までは、「桜が咲いているゴールデンウィーク」だった。
言いたくないが、東京が日本ではない。書いている人の常識が思わず現れ、読む人に意味がよく伝わらない点で共通しているように思った。
2014年4月3日木曜日
別所沼のかいぼり(廃船)
4月3日、雨、最後に残った魚の捕獲が続けられている。見物人は一人、二人になっている。
水が引けて朽ちたボートが一艘沈んでいたのが姿を現した。沈んだ時の状況は想像がつかない。
傘が一本柄を真上に向けて開いたまま沈んでいた。こちらの方は状況の想像がつく。雨の日に傘をさして通りかかったら、強風に傘を飛ばされる。沼に落ちた傘の内側に水が溜まって沈み姿が見えなくなる。どのくらいの時間で沈んだのかはわからない。通行人は傘を諦めて濡れながら帰る。もしくは、信号を渡ってコンビニで新しい傘を買う。ちなみにコンビニの建物は現在店を閉めたままだ。
水が引けても土が濡れているので、鏡のように樹木の姿を映している。水に映っているときと違い、色がなく暗い。
今、桜は満開。桜の花びらが散って濡れた土を覆うところを想像してみる。
別所沼公園の桜の様子
水が引けて朽ちたボートが一艘沈んでいたのが姿を現した。沈んだ時の状況は想像がつかない。
傘が一本柄を真上に向けて開いたまま沈んでいた。こちらの方は状況の想像がつく。雨の日に傘をさして通りかかったら、強風に傘を飛ばされる。沼に落ちた傘の内側に水が溜まって沈み姿が見えなくなる。どのくらいの時間で沈んだのかはわからない。通行人は傘を諦めて濡れながら帰る。もしくは、信号を渡ってコンビニで新しい傘を買う。ちなみにコンビニの建物は現在店を閉めたままだ。
水が引けても土が濡れているので、鏡のように樹木の姿を映している。水に映っているときと違い、色がなく暗い。
今、桜は満開。桜の花びらが散って濡れた土を覆うところを想像してみる。
別所沼公園の桜の様子

2014年4月2日水曜日
別所沼のかいぼり(深み)
4月2日、一部を残し、全体的に底の土が現れた。だいたいが深さ一メートルくらいで思ったより浅かったという印象だ。
四個のドラム缶も上に引き上げられていた。ドラム缶の近くの岸にあった機械装置が北東の角の水が残っているところに移されて稼働している。
雨も降っていないのに、残された水面の表面にさざ波がたっているのは、魚が泳いでいるせいだろう。最後に残った魚を網ですくっている。体長20センチくらいの小さい魚だ。
魚類飼育施設の塀に外来種と保存種の写真が貼ってある。自分が実際に見たのは大小のコイのようだ。
高沼用水路と鴻沼川で見かけるのもコイのようだ。高沼用水路は底が浅いので、用水路脇を歩いていると、魚がたてる水音にびっくりさせられることがよくある。
四個のドラム缶も上に引き上げられていた。ドラム缶の近くの岸にあった機械装置が北東の角の水が残っているところに移されて稼働している。
雨も降っていないのに、残された水面の表面にさざ波がたっているのは、魚が泳いでいるせいだろう。最後に残った魚を網ですくっている。体長20センチくらいの小さい魚だ。
魚類飼育施設の塀に外来種と保存種の写真が貼ってある。自分が実際に見たのは大小のコイのようだ。
高沼用水路と鴻沼川で見かけるのもコイのようだ。高沼用水路は底が浅いので、用水路脇を歩いていると、魚がたてる水音にびっくりさせられることがよくある。
2014年4月1日火曜日
桜(鴻沼川)
4月1日、鴻沼川沿いの桜が満開になった。
里見橋のところで下流をみたところ。

里見橋の南隣の大榧橋で、上流をみたところ。正面に新都心ビル群が見える。

大榧橋から下流をみたところ。正面に埼京線の線路の送電線が見える。

大榧橋の別の見どころ。サザエさん、オバケのQ太郎、キン肉マン、ドラえもんの絵のタイル。



里見橋のところで下流をみたところ。

里見橋の南隣の大榧橋で、上流をみたところ。正面に新都心ビル群が見える。

大榧橋から下流をみたところ。正面に埼京線の線路の送電線が見える。

大榧橋の別の見どころ。サザエさん、オバケのQ太郎、キン肉マン、ドラえもんの絵のタイル。




2014年3月31日月曜日
クリスティ文庫(40)
『アガサ・クリスティ―自伝』、最初の夫と離婚するまでがほぼ『未完の肖像』と同じ。エピソードが既に読んだものばかりなので、目新しさがないのが残念。
有名な失踪事件に触れていないが、自伝はアガサ本人の記憶に基づいて書かれているので、本人の記憶にないことを書けないのは当然だ。
自分のことを最もよく理解してくれていた母親が亡くなり、一人で遺品の整理をしている(同居していた祖母の遺品もある)途中、小切手に自分の名前を書こうとして自分の名前が思いだせない記述がある。そのあたりの記述を読むとうつ病ではないかと思う。ネットでみるとうつ病で記憶障害が起こることもあるらしい。
夫が愛人をつくったことで記憶喪失になるのかと思っていたが、母親の死が大きかったのではないかと思い、一時的記憶喪失は本当だったのだろうと思う。
本当のことを言っても信じてもらえず、本当らしい嘘を言った方が信じてもらえそうで、信じてもらえない苦しさから逃れるために、まわりの人間が期待している嘘を言ってしまう。これは、『無実はさいなむ』、『バグダッドの秘密』、『ゼロ時間へ』に出てくる。
有名な失踪事件に触れていないが、自伝はアガサ本人の記憶に基づいて書かれているので、本人の記憶にないことを書けないのは当然だ。
自分のことを最もよく理解してくれていた母親が亡くなり、一人で遺品の整理をしている(同居していた祖母の遺品もある)途中、小切手に自分の名前を書こうとして自分の名前が思いだせない記述がある。そのあたりの記述を読むとうつ病ではないかと思う。ネットでみるとうつ病で記憶障害が起こることもあるらしい。
夫が愛人をつくったことで記憶喪失になるのかと思っていたが、母親の死が大きかったのではないかと思い、一時的記憶喪失は本当だったのだろうと思う。
本当のことを言っても信じてもらえず、本当らしい嘘を言った方が信じてもらえそうで、信じてもらえない苦しさから逃れるために、まわりの人間が期待している嘘を言ってしまう。これは、『無実はさいなむ』、『バグダッドの秘密』、『ゼロ時間へ』に出てくる。
2014年3月30日日曜日
別所沼のかいぼり(投網)
3月30日午前中、船二艘で作業をしている。全長7,8メートルくらいの船で公園のボートとは明らかに違う。
前日と違い竿を使って船を動かしている。竿を持っている人は、はっぴを着ており襟に下荒川の文字が見える。網の使い方も違う。前日は水の中に入れているだけだったが、今日は網を投げ、その網が空中で直径6,7メートルくらいの円を描いて水面に落ちる。その瞬間魚が跳ねるのが見え、シャッターの音が聞こえる。本格的なカメラで撮っている。
雨が降っていて、見物人は二十人くらいだろうか。
帰ろうとしたら、「別所沼を守る会」ののぼりを持った人たちが来た。ごみ袋を持ち、長靴をはいた男性が沼に降りてごみ拾いを始めた。
下の地面が出ているところは少ないので、ごみ拾いもまだ続くのだろう。
昨日から、どぶ川の臭いではなく海の近くでするような臭いがかすかにする。魚の生臭い臭いだろうか。芳しくはないが、それほど不快でもない。
2014年3月29日土曜日
別所沼のかいぼり(魚捕獲)
3月29日午前中、ボートに二人乗り、一人が櫂で漕いで、もう一人が網を水中に入れて引き上げている。網の中のものは遠目でわからない。ボートにはタモ網も持ち込んでいる。岸に家庭用のたらいがいくつも置かれている。まだ、捕獲された魚は見えない。ボートの数は二艘だ。
見物人が十人以上はいるが、魚を見るまで時間がかかりそうなので、帰ることにする。
網を使っている人が本職の人かはわからない。専門家が何種類も必要な気がする。
すっかり水を干してもらえば、素人の市民の人海戦術であっという間に終わらせられそうだ。魚も飼育せずに新しく放流したら費用的にも手順的にも楽そうだが、人道上というか、そうもいかないのだろう。
同日夕方、また様子を見に行く。見物人が増えて五十人以上はいそうだ。ボートは四艘に増えている。ボートから魚をたらいに入れて取り出し、岸に置いてあるもっと大きいたらいに移している。バケツで沼の水をすくって大きいたらいに入れている。籠に移される魚もあり、それは廃棄されるようだ。
大きな魚ばかりで、体長が一メートルくらいから六、七十センチくらいはありそうだ。もっとも小さい魚は網にひっかからないのかもしれない。
看板に表示された請負業者の会社名の入った産業廃棄物処理車両があった。会社の業務はネットでみると公共土木、建築となっている。
見物人が十人以上はいるが、魚を見るまで時間がかかりそうなので、帰ることにする。
網を使っている人が本職の人かはわからない。専門家が何種類も必要な気がする。
すっかり水を干してもらえば、素人の市民の人海戦術であっという間に終わらせられそうだ。魚も飼育せずに新しく放流したら費用的にも手順的にも楽そうだが、人道上というか、そうもいかないのだろう。
同日夕方、また様子を見に行く。見物人が増えて五十人以上はいそうだ。ボートは四艘に増えている。ボートから魚をたらいに入れて取り出し、岸に置いてあるもっと大きいたらいに移している。バケツで沼の水をすくって大きいたらいに入れている。籠に移される魚もあり、それは廃棄されるようだ。
大きな魚ばかりで、体長が一メートルくらいから六、七十センチくらいはありそうだ。もっとも小さい魚は網にひっかからないのかもしれない。
看板に表示された請負業者の会社名の入った産業廃棄物処理車両があった。会社の業務はネットでみると公共土木、建築となっている。
2014年3月28日金曜日
別所沼のかいぼり(魚類飼育施設)
3月28日、広場を囲むフェンスに「魚類飼育施設」の張り紙がしてあった。
フェンスの中にコンテナのような箱が置かれている。えんじ色の高さ2メートル、縦横3メートル×4メートルくらいのが6個。それより大きめの灰色の箱が2個置かれホースが通っている。(4月4日に見たら全部でえんじ色が14個、灰色が6個、上に網がかぶせてある)不透明な箱でフェンスのために近寄れないので中の魚をみることはできない。
機械装置の横の箱が「魚類飼育施設」の柵の中のえんじ色の箱と同じなのに気付いた。排水前に水をその箱に通しているようだ。
近くで数人の男性に一人の男性が市から聞いたと魚の飼育の仕方について説明している。
別所沼で初めてみる大きなサギと見える鳥が緑のシートの上に一羽止まっている。魚を狙っているのだろうか。
フェンスの中にコンテナのような箱が置かれている。えんじ色の高さ2メートル、縦横3メートル×4メートルくらいのが6個。それより大きめの灰色の箱が2個置かれホースが通っている。(4月4日に見たら全部でえんじ色が14個、灰色が6個、上に網がかぶせてある)不透明な箱でフェンスのために近寄れないので中の魚をみることはできない。
機械装置の横の箱が「魚類飼育施設」の柵の中のえんじ色の箱と同じなのに気付いた。排水前に水をその箱に通しているようだ。
近くで数人の男性に一人の男性が市から聞いたと魚の飼育の仕方について説明している。
別所沼で初めてみる大きなサギと見える鳥が緑のシートの上に一羽止まっている。魚を狙っているのだろうか。
2014年3月27日木曜日
モクレン
桜の開化が気になるが、今はモクレンだ。
白いモクレンと赤のモクレン、赤と言うよりも濃い赤紫かもしれない。

モクレンより小振りなのがコブシ

木に咲く花でモクレンより大きい花があるのを見たときには驚いた。
タイサンボク、ただし、今は咲く時期ではない。

白いモクレンと赤のモクレン、赤と言うよりも濃い赤紫かもしれない。


モクレンより小振りなのがコブシ

木に咲く花でモクレンより大きい花があるのを見たときには驚いた。
タイサンボク、ただし、今は咲く時期ではない。

2014年3月26日水曜日
マンション建設

古い社宅が取り壊され、マンションが建設されていたが、今春完成し現在売り出し中だ。
地図で見ると敷地の一角の下を武蔵野貨物線が通っているらしく、そこは玄関前の庭と通路になったようだ。
更地にするときに樹木が切り倒されずに残されてよかった。以前から、新しく建物を建てる時に樹木もすっかり撤去する必要があるのか疑問に思っていた。
写真の右手には桜の木が植わっていて、マンションのチラシにはマンションの建物と満開の桜の木が写っている。チラシには「街並完成予想CG」「外観完成予想CG」の文字が入っている。もう少ししたら予想が実現するだろう。建物が完成するだけでなく、満開の桜がなければ、チラシは嘘になってしまうと思う。
2014年3月25日火曜日
別所沼のかいぼり(どぶ臭)
3月25日、沼の端の水位の浅いところの底が見えてきた。
その上を通って吹いてくる風のなかに、どぶ川の臭いが少し混じっている。この臭いは自分にとっては随分昔の記憶に結びついている。
若い人には、もしかするとこの臭いの経験がない人もいるかもしれない。
この悪臭は、当然予測できたはずだった。大宮第二公園の調節池に大雨で芝川から水が流入して、その水が引けたあとに残った泥から悪臭がしたのを経験しているからだ。芝生の上の泥が洗い流されると、悪臭はすぐにおさまった。
簡易な桟橋ができ、ボートが出て作業をしている。櫂でこがずに沼の上に渡したロープを引っ張ってボートを動かしている。沼の中央に青いドラム缶を四個四角につなぎ、ボート上に一人、ドラム缶を足場にして一人いる。ボートで直径15センチくらいの管を岸から引っ張りドラム缶で囲まれた水の中に入れている。
何のための作業かはわからない。
大宮第二公園の調節池が湖のようになったところ

水が引けたが、泥が残っている。

通常はひょうたん型の池の周りを芝生が覆っている。
その上を通って吹いてくる風のなかに、どぶ川の臭いが少し混じっている。この臭いは自分にとっては随分昔の記憶に結びついている。
若い人には、もしかするとこの臭いの経験がない人もいるかもしれない。
この悪臭は、当然予測できたはずだった。大宮第二公園の調節池に大雨で芝川から水が流入して、その水が引けたあとに残った泥から悪臭がしたのを経験しているからだ。芝生の上の泥が洗い流されると、悪臭はすぐにおさまった。
簡易な桟橋ができ、ボートが出て作業をしている。櫂でこがずに沼の上に渡したロープを引っ張ってボートを動かしている。沼の中央に青いドラム缶を四個四角につなぎ、ボート上に一人、ドラム缶を足場にして一人いる。ボートで直径15センチくらいの管を岸から引っ張りドラム缶で囲まれた水の中に入れている。
何のための作業かはわからない。
大宮第二公園の調節池が湖のようになったところ

水が引けたが、泥が残っている。

通常はひょうたん型の池の周りを芝生が覆っている。

2014年3月24日月曜日
クリスティ文庫(39)
『無実はさいなむ』、無実の人間が、真犯人がわからないことによって、親しいものから犯人と疑われるということが問題になっている。
同じ問題が別の作品にもあったと思い、クィン氏が出てくる短編だと思いついた。クィン氏の短編の方は、有罪にするだけの証拠がないということで裁判で無罪になった女性が再婚したが、再婚相手の男性がなぜか妻に対して神経過敏になっているという話だった。
無罪でも無実ではない。無罪と無実と違うのか?無実の反対の言葉は何?とつい考えてしまった。
同じ問題が別の作品にもあったと思い、クィン氏が出てくる短編だと思いついた。クィン氏の短編の方は、有罪にするだけの証拠がないということで裁判で無罪になった女性が再婚したが、再婚相手の男性がなぜか妻に対して神経過敏になっているという話だった。
無罪でも無実ではない。無罪と無実と違うのか?無実の反対の言葉は何?とつい考えてしまった。
2014年3月23日日曜日
別所沼のかいぼり(排水先)
3月23日、作業をしている人は見かけないが、機械のモーターの音と水音がする。
近くの排水溝からも水音が聞こえる。
水の流れる先は鴻沼川だろうと思い、川を見に行った。高沼橋まできたら、水音がする。橋の近くの排水管から水が流れ出して川に落ちている。流れの幅は10センチくらいだろうか。細い流れだが切れ目がない。今日は雨も降っていないので別所沼からの水だと思う。モーターが止まっているときに水が流れているか確かめてみよう。
3月24日、モーター音がしないので、高沼橋に行ってみた。水は流れているが三分の一くらいの水量だ。もしかしたら、モーターで吸い上げていない時でも少しは流れ出しているのか?と思ったりする。

上の線路が埼京線で下に高沼橋がある。埼京線の下を通っている線路が武蔵野貨物線でこの手前の方で地下に潜る。
近くの排水溝からも水音が聞こえる。
水の流れる先は鴻沼川だろうと思い、川を見に行った。高沼橋まできたら、水音がする。橋の近くの排水管から水が流れ出して川に落ちている。流れの幅は10センチくらいだろうか。細い流れだが切れ目がない。今日は雨も降っていないので別所沼からの水だと思う。モーターが止まっているときに水が流れているか確かめてみよう。
3月24日、モーター音がしないので、高沼橋に行ってみた。水は流れているが三分の一くらいの水量だ。もしかしたら、モーターで吸い上げていない時でも少しは流れ出しているのか?と思ったりする。

上の線路が埼京線で下に高沼橋がある。埼京線の下を通っている線路が武蔵野貨物線でこの手前の方で地下に潜る。
2014年3月22日土曜日
別所沼のかいぼり(網設置?)
3月22日、噴水が消えていた。水位は更に少し下がっていた。
水位が下がって、これまで水面下にあって見えなかった棒が見えるが、新しく地面にさしたらしい棒も数本見える。
数メートルほど離れた二本の棒の間に長方形の緑色のシートのようなものが見える。そのシートがロープで棒に繋がれている。シートのように見えるものが網でそれで魚を捕まえるのかと推理して見る。
多分ボートを使って設置したのだろう。その作業を見逃したのは残念だ。いつ何をするのかは全くわからないので、見るべきものが見られるかどうかは、運次第だ。
水位が下がって、これまで水面下にあって見えなかった棒が見えるが、新しく地面にさしたらしい棒も数本見える。
数メートルほど離れた二本の棒の間に長方形の緑色のシートのようなものが見える。そのシートがロープで棒に繋がれている。シートのように見えるものが網でそれで魚を捕まえるのかと推理して見る。
多分ボートを使って設置したのだろう。その作業を見逃したのは残念だ。いつ何をするのかは全くわからないので、見るべきものが見られるかどうかは、運次第だ。
2014年3月21日金曜日
別所沼のかいぼり(柵設置)
3月21日、柵で別所沼が囲まれた。広場の一部も柵で囲まれている。
高さ一メートルくらいの柵なので、柵の外から作業を見ることができそうだ。
もう、魚釣りはできないがジョギングはできる。ジョギングコースと沼の間に柵が設置されたからだ。
当初、作業が始まるとジョギングもできないと案内されていたように思うが、変更したのだろう。大きい案内板に「ジョギングコースは通行できます」という文章が追加された。通行できるということはジョギングをしてもよいということだろう。実際にジョギングしている人がたくさんいる。
やりながら考える方針のようだ。経験がないので、そうなるのだろう。失敗しても、取り返しはつきそうなので、それがいい方法のように思う。
そのうちに、見物人が「あーやったら」とか「こーやったら」と言いだしそうだ。さいたま市民になってから数年しかたたないので、さいたま市民の気風がまだよくわからない。見物人の言動にも注目したい。
高さ一メートルくらいの柵なので、柵の外から作業を見ることができそうだ。
もう、魚釣りはできないがジョギングはできる。ジョギングコースと沼の間に柵が設置されたからだ。
当初、作業が始まるとジョギングもできないと案内されていたように思うが、変更したのだろう。大きい案内板に「ジョギングコースは通行できます」という文章が追加された。通行できるということはジョギングをしてもよいということだろう。実際にジョギングしている人がたくさんいる。
やりながら考える方針のようだ。経験がないので、そうなるのだろう。失敗しても、取り返しはつきそうなので、それがいい方法のように思う。
そのうちに、見物人が「あーやったら」とか「こーやったら」と言いだしそうだ。さいたま市民になってから数年しかたたないので、さいたま市民の気風がまだよくわからない。見物人の言動にも注目したい。
2014年3月20日木曜日
クリスティ文庫(38)
ミス・マープルは、若い時に結婚したいと思った男性がいたが、結婚相手としてふさわしくないと考えた身内に反対されて断念したらしい。
その後、その男性については、否定的に考えたようなので、身内に止めてもらってよかったと思っているのだろう。もっとも、本音はわからない。何もないより不幸な結婚でも何かあった方がよいと思ったかもしれない。少なくとも結婚当初は幸せだったろうから、その幸せな記憶は残るように思う。
クリスティの普通の小説は、「結婚相手の選択」というテーマが共通してあるように思う。愛しているが未知数あるいははっきりと条件が悪い男性と好意はあるが愛しているとまではいえない条件のよい男性のどちらと結婚するか。そもそも結婚すべきかとか結婚相手が全く見つからないということは問題にならないらしい。
結婚した女性の家庭の仕事は、子育てについては子守りと家庭教師と学校の選択の問題で、家事は料理人やメイドを見つけるという問題らしい。
その後、その男性については、否定的に考えたようなので、身内に止めてもらってよかったと思っているのだろう。もっとも、本音はわからない。何もないより不幸な結婚でも何かあった方がよいと思ったかもしれない。少なくとも結婚当初は幸せだったろうから、その幸せな記憶は残るように思う。
クリスティの普通の小説は、「結婚相手の選択」というテーマが共通してあるように思う。愛しているが未知数あるいははっきりと条件が悪い男性と好意はあるが愛しているとまではいえない条件のよい男性のどちらと結婚するか。そもそも結婚すべきかとか結婚相手が全く見つからないということは問題にならないらしい。
結婚した女性の家庭の仕事は、子育てについては子守りと家庭教師と学校の選択の問題で、家事は料理人やメイドを見つけるという問題らしい。
2014年3月19日水曜日
クリスティ文庫(37)
冒険ミステリー小説の主人公の女性は、だいたいタペンスのような感じだ。
普通の小説の主人公も同じタイプかと思ったら全然違う。
空想の世界に浸るタイプが度々出てくる。クリスティ本人は、むしろこちらの方のタイプではないかと思う。
『愛の重さ』、34頁、主人公のローラは空想したことが現実に起こったような錯覚をいだく。よくわかる。自分も空想が現実であるように話してしまいそうになり、現実を正しく認識するように自分に言い聞かせることがある。
ローラは、歩きながら想像上の会話を繰り返し、あまり深くそれに没入していたので、知り合いがやってきたのに気付かずやりすごすところだった。これもまたよくわかる。自分も歩きながら頭の中の会話に熱中して知り合いに気付かずに、後からそれを指摘されたことがある。
看板や木の枝に頭をぶつけたこともある。
クリスティの小説に飽きがこないのは、作者と非常に気が合うせいではないかと思う。
普通の小説の主人公も同じタイプかと思ったら全然違う。
空想の世界に浸るタイプが度々出てくる。クリスティ本人は、むしろこちらの方のタイプではないかと思う。
『愛の重さ』、34頁、主人公のローラは空想したことが現実に起こったような錯覚をいだく。よくわかる。自分も空想が現実であるように話してしまいそうになり、現実を正しく認識するように自分に言い聞かせることがある。
ローラは、歩きながら想像上の会話を繰り返し、あまり深くそれに没入していたので、知り合いがやってきたのに気付かずやりすごすところだった。これもまたよくわかる。自分も歩きながら頭の中の会話に熱中して知り合いに気付かずに、後からそれを指摘されたことがある。
看板や木の枝に頭をぶつけたこともある。
クリスティの小説に飽きがこないのは、作者と非常に気が合うせいではないかと思う。
2014年3月18日火曜日
別所沼のかいぼり(ボート出現)
3月18日昼前、沼の水面の高さは、ほとんど変わっていない。
機械装置の横を通るとモーターの音とホースから排水溝に流れ込む水音が聞こえる。
そして、小型のボートが一艘水面につながれている。(遊園地の貸しボートくらい)
どのくらいの時間で水がなくなるのかわからないが、ボートでの作業は水が残っている間にするのだろう。魚の捕獲か?まさか一人で網ですくうのじゃないだろうね?
これは、うっかり目を離せなくなってきたようだ。
機械装置の横を通るとモーターの音とホースから排水溝に流れ込む水音が聞こえる。
そして、小型のボートが一艘水面につながれている。(遊園地の貸しボートくらい)
どのくらいの時間で水がなくなるのかわからないが、ボートでの作業は水が残っている間にするのだろう。魚の捕獲か?まさか一人で網ですくうのじゃないだろうね?
これは、うっかり目を離せなくなってきたようだ。
2014年3月17日月曜日
クリスティ文庫(36)
『娘は娘』、読み終わってから、主人公が友人に「自分を知ったからといって何の役にたつのか、どうせ自分を変えることはできないのだし」と言ったのを思いだし、友人が何と答えていたか気になってその部分を読み直してみた(86頁)。
返事は、「・・少なくとも、自分がこれこれの場合にどんな行動をとるか、なぜ、そうするかーこの方がいっそう大切なことだけどーというヒントを与えてくれるでしょうねえ」というものだ。あまり参考にならない、というか、何を言いたいのかよくわからない。主人公もあまりピンとこない。
その後の主人公の言動を考えあわせて、主人公に対してよい助言になっていたことがわかった。が、自分にはあまり役に立たない。
自分は失言が多いが、あらかじめ話すことを考えておいて話したときに「まずいことを言ってしまった」というのではなく、止める暇もなく話してしまった場合にまずいことを言ってしまうからだ。これでは事前に自分がどういう人間かわかっていても、対処法としては、他人と会話しないということになってしまう。
返事は、「・・少なくとも、自分がこれこれの場合にどんな行動をとるか、なぜ、そうするかーこの方がいっそう大切なことだけどーというヒントを与えてくれるでしょうねえ」というものだ。あまり参考にならない、というか、何を言いたいのかよくわからない。主人公もあまりピンとこない。
その後の主人公の言動を考えあわせて、主人公に対してよい助言になっていたことがわかった。が、自分にはあまり役に立たない。
自分は失言が多いが、あらかじめ話すことを考えておいて話したときに「まずいことを言ってしまった」というのではなく、止める暇もなく話してしまった場合にまずいことを言ってしまうからだ。これでは事前に自分がどういう人間かわかっていても、対処法としては、他人と会話しないということになってしまう。
2014年3月16日日曜日
クリスティ文庫(35)
『バグダッドの秘密』、主人公が遺跡の発掘調査の一行に加わって、出土品から当時の普通の人の日常の暮らしを思い描くのが好きだと語る。
自分は、常盤緑道を散歩中、小学校の校庭の廃タイヤを利用した遊具を見て、地球文明が滅びた後でやってきた宇宙人が遺跡調査でこれを発掘したらどういう推理をするのだろうと考えた。

実用品だと思ったら、用途が思いつかないだろう。普通の輪投げの遊具を見つけてそれとの連想から遊具だと考えるかもしれない。
タイヤを投げて棒に入れて遊べる人間の大きさを推計したら巨人がいることになる。
『ガリバー旅行記』を見つけた人が文字は読めないが、絵を見て巨人族がいるという仮説をたてる。しかし、巨人族の居住の痕跡はない。
『ゴジラ』の映画を見つけて、巨人族が外からやってきて地球征服を試みたが失敗したという仮説をたてる。地球征服の戦闘中に輪投げで遊ぶのか?というもっともな疑問が出ると同時に、地球征服の失敗の理由を詮索する。
『宇宙戦争』の映画を見て、未知の細菌にやられたという仮説が出る。言葉がわからずにそこまで読みとれるかは疑問だが。
一時は巨人族が優勢だったが、恐竜が滅びたように、巨人族が滅びて遺跡の遊具だけが残されたという仮説もたてられる。恐竜のことはわからないかもしれないが。
そこで、だれかが、「紙に描かれたものや映像は二次資料だ、直接証拠から推論を試みるべきだ」とか言い出して、科学的実証についての方法論の議論になる。
意外と犯罪の証明と自然科学は関係が深いかもしれない。
自分は、常盤緑道を散歩中、小学校の校庭の廃タイヤを利用した遊具を見て、地球文明が滅びた後でやってきた宇宙人が遺跡調査でこれを発掘したらどういう推理をするのだろうと考えた。

実用品だと思ったら、用途が思いつかないだろう。普通の輪投げの遊具を見つけてそれとの連想から遊具だと考えるかもしれない。
タイヤを投げて棒に入れて遊べる人間の大きさを推計したら巨人がいることになる。
『ガリバー旅行記』を見つけた人が文字は読めないが、絵を見て巨人族がいるという仮説をたてる。しかし、巨人族の居住の痕跡はない。
『ゴジラ』の映画を見つけて、巨人族が外からやってきて地球征服を試みたが失敗したという仮説をたてる。地球征服の戦闘中に輪投げで遊ぶのか?というもっともな疑問が出ると同時に、地球征服の失敗の理由を詮索する。
『宇宙戦争』の映画を見て、未知の細菌にやられたという仮説が出る。言葉がわからずにそこまで読みとれるかは疑問だが。
一時は巨人族が優勢だったが、恐竜が滅びたように、巨人族が滅びて遺跡の遊具だけが残されたという仮説もたてられる。恐竜のことはわからないかもしれないが。
そこで、だれかが、「紙に描かれたものや映像は二次資料だ、直接証拠から推論を試みるべきだ」とか言い出して、科学的実証についての方法論の議論になる。
意外と犯罪の証明と自然科学は関係が深いかもしれない。
2014年3月15日土曜日
コレストロール
ここ数年、健康診断の血液検査で悪玉コレストロールが基準値を超え、正常値の範囲内にするのに苦労している。善玉コレストロールは以前から多い。
やせぎみなので、お医者さんには「痩せるように」ではなく、「運動をするように」と言われる。
スポーツ好きではないので食事でなんとかならないかと思う。動物性油脂を極力取らないようにしているが、コレストロールは体内でつくることができるらしいので、なかなか効果がでない。
昨日ドラマの録画を流していたら、闇金の事務所で焼き肉をしていて「社長は野菜は食べない。体内でビタミンを作れるのは社長くらい」という会話が聞こえた。
肉食獣のイメージで社長の性格を伝えようとした文学的表現で科学的根拠はないだろう。
外から補充しなくても身体の中でコレストロールをドンドンつくる体質の方がエネルギッシュで生命力に強いイメージじゃあるまいかと思った。科学的根拠もある。
やせぎみなので、お医者さんには「痩せるように」ではなく、「運動をするように」と言われる。
スポーツ好きではないので食事でなんとかならないかと思う。動物性油脂を極力取らないようにしているが、コレストロールは体内でつくることができるらしいので、なかなか効果がでない。
昨日ドラマの録画を流していたら、闇金の事務所で焼き肉をしていて「社長は野菜は食べない。体内でビタミンを作れるのは社長くらい」という会話が聞こえた。
肉食獣のイメージで社長の性格を伝えようとした文学的表現で科学的根拠はないだろう。
外から補充しなくても身体の中でコレストロールをドンドンつくる体質の方がエネルギッシュで生命力に強いイメージじゃあるまいかと思った。科学的根拠もある。
2014年3月14日金曜日
クリスティ文庫(34)
『未完の肖像』を読み、子供のころの空想一人遊びを思い出した。
畳の部屋の真ん中の畳に座り、海を漂流中で、座っている畳が筏で、その畳の周りが海だと空想する。畳から出ると海に落ちて溺れてしまうので畳の外には出られない。
そう思って海に落ちないように緊張していたら、突然母親が畳んだ洗濯物を手にして部屋に入ってきた。
海の上を溺れもせずにズカズカ歩いてきたので、非常に気分を害した。
おそらく「黙ってさっさと出ていって」と顔に出ていたのだろう、母親は何か言いかけたのを止めて、自分の用事を済まして黙って出て行った。
子供の頃、『赤毛のアン』が好きだったことも思いだし、今度の朝のテレビ小説は見てみようかと思う。
畳の部屋の真ん中の畳に座り、海を漂流中で、座っている畳が筏で、その畳の周りが海だと空想する。畳から出ると海に落ちて溺れてしまうので畳の外には出られない。
そう思って海に落ちないように緊張していたら、突然母親が畳んだ洗濯物を手にして部屋に入ってきた。
海の上を溺れもせずにズカズカ歩いてきたので、非常に気分を害した。
おそらく「黙ってさっさと出ていって」と顔に出ていたのだろう、母親は何か言いかけたのを止めて、自分の用事を済まして黙って出て行った。
子供の頃、『赤毛のアン』が好きだったことも思いだし、今度の朝のテレビ小説は見てみようかと思う。
2014年3月13日木曜日
クリスティ文庫(33)
『暗い抱擁』、戦争中の勇敢な行動によって勲章を授与され、保守党から立候補して議員に当選して、なお生まれのいい人間に対して劣等感を持つというのがよくわからない。自分に対してどこまで要求したら気が済むのかと思う。
似た者どおしで結婚するのがよいのかは一概には言えない。自分にないものを相手に補ってもらうのがよい場合もあるかもしれない。
ただ、住む世界の違う人間というのは、いつの世でもいるように思う。あるいは世界観が違うとも言えそうだ。住む世界が違う人間とはやっぱり縁がなくなるように思う。
自分にとっては、他人にうらやましがられるようなところをたくさん持っていながら、劣等感に悩んでいる人間とは住む世界が違うと思う。
ほかに、酒を飲みすぎて仕事を疎かにし暴力を振るう夫とぐずぐずと一緒にいる女性というのも理解できない。
似た者どおしで結婚するのがよいのかは一概には言えない。自分にないものを相手に補ってもらうのがよい場合もあるかもしれない。
ただ、住む世界の違う人間というのは、いつの世でもいるように思う。あるいは世界観が違うとも言えそうだ。住む世界が違う人間とはやっぱり縁がなくなるように思う。
自分にとっては、他人にうらやましがられるようなところをたくさん持っていながら、劣等感に悩んでいる人間とは住む世界が違うと思う。
ほかに、酒を飲みすぎて仕事を疎かにし暴力を振るう夫とぐずぐずと一緒にいる女性というのも理解できない。
2014年3月12日水曜日
別所沼のかいぼり(日程変更)
別所沼のかいぼりは、1月から3月28日までが実施予定日だったが、3月20日から7月上旬に変更になったようだ。案内板の当初の予定日の上に紙をはって訂正している。
1月に地質調査が行われていて、何日か前から沼岸に機械装置が設置されたほかは、めだった動きもなかったので、納得の日程変更だ。
かいぼり作業は見たことがなく話に聞いたこともないので、どうやるのかという興味と、沼の底がどうなっているのかが知りたくて、見逃さないようほぼ毎日見に行っている。
新しい日程からすると何日かで終わるような作業ではないようなので、そうそう見逃すおそれはないようだ。
どうして日程が変更になったのかいろいろ考えてみる。
3月12日夕方に行ってみたら、杭の様子から見て水位が20センチくらい下がったようだ。機械を使ってホースを通して水を排出しているようだ。
1月に地質調査が行われていて、何日か前から沼岸に機械装置が設置されたほかは、めだった動きもなかったので、納得の日程変更だ。
かいぼり作業は見たことがなく話に聞いたこともないので、どうやるのかという興味と、沼の底がどうなっているのかが知りたくて、見逃さないようほぼ毎日見に行っている。
新しい日程からすると何日かで終わるような作業ではないようなので、そうそう見逃すおそれはないようだ。
どうして日程が変更になったのかいろいろ考えてみる。
3月12日夕方に行ってみたら、杭の様子から見て水位が20センチくらい下がったようだ。機械を使ってホースを通して水を排出しているようだ。
2014年3月11日火曜日
クリスティ文庫(32)
『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』、クリスティが考古学者の夫の発掘調査に同行した時の見聞録。
現地で雇った人達との風習や考え方の違いについての記述がおもしろい。
大概はクリスティの方に共感するが、自分はイギリス人ではないので、クリスティ側の風習に疑問を持つ側に共感する場合もある。
身の回りの世話をする少年が、食事のときにナイフで切らなければならないものが食卓に出ていないときにもナイフを求められることに疑問を持つ。
もっともな疑問だと思い、子供の頃ナイフとフォークでバナナを食べるのが洋食の際のマナーだと知った時に「バカバカしい」と思ったのを思い出した。
そして、今でも西欧ではそうやって食べるのだろうかと思い、今バナナが皮ごと一本お皿に載せて出されたらギャグだろうと思う。果物を盛った大皿からとって食べる場合はどうやって自分の皿にバナナを取り分けるのかと思う。ナイフとフォークで取ったら滑稽だし、手でつかんで皿に載せてからナイフとフォークを使うのも妙だ。
ネットで検索してみたら、日本でバナナが高級品だった時代に、テーブルマナーの勉強でバナナが使われたのであって、外国人が本国で実際にバナナをナイフとフォークで食べているのを見て真似たのではないようだ。
外国人の友人がいたら、是非実際のところを聞いてみたいものだ。
現地で雇った人達との風習や考え方の違いについての記述がおもしろい。
大概はクリスティの方に共感するが、自分はイギリス人ではないので、クリスティ側の風習に疑問を持つ側に共感する場合もある。
身の回りの世話をする少年が、食事のときにナイフで切らなければならないものが食卓に出ていないときにもナイフを求められることに疑問を持つ。
もっともな疑問だと思い、子供の頃ナイフとフォークでバナナを食べるのが洋食の際のマナーだと知った時に「バカバカしい」と思ったのを思い出した。
そして、今でも西欧ではそうやって食べるのだろうかと思い、今バナナが皮ごと一本お皿に載せて出されたらギャグだろうと思う。果物を盛った大皿からとって食べる場合はどうやって自分の皿にバナナを取り分けるのかと思う。ナイフとフォークで取ったら滑稽だし、手でつかんで皿に載せてからナイフとフォークを使うのも妙だ。
ネットで検索してみたら、日本でバナナが高級品だった時代に、テーブルマナーの勉強でバナナが使われたのであって、外国人が本国で実際にバナナをナイフとフォークで食べているのを見て真似たのではないようだ。
外国人の友人がいたら、是非実際のところを聞いてみたいものだ。
2014年3月10日月曜日
クリスティ文庫(31)
『忘られぬ死』、レストランで会食中に女性が亡くなる。その会食前に被害者の女性が主催者である夫に男性が一人欠席することになったので男女の数を会わせるために、男性を一人追加で招待するように電話する。
日本では、合コンでもなければ男女同数にこだわることもない。結局、穴は埋められずに、主催者の夫婦に主催者の夫の秘書、主催者の妻の妹と妻の男性の友人と友人夫婦(夫の方が友人)の七名で会食をする。
男女同数にする意味があるのかと思ったら、ちゃんとあった。食事中にダンスをするが、女性が一人余るので、みんながダンスをしている間に一人で席に残っていることになる。
一年後に、被害者の夫が事件の再現をしようとする。この時は男女同数で全員がテーブルを離れる時がある。これが重要なトリックになっている。
トリックのために男女同数を強調したのか、これがイギリスの普通の習慣なのかはわからない。それに既婚の女性が男性の友人と遊び歩くのを夫が非難して止めさせることができないことも普通のことかは不明だ。
日本では、合コンでもなければ男女同数にこだわることもない。結局、穴は埋められずに、主催者の夫婦に主催者の夫の秘書、主催者の妻の妹と妻の男性の友人と友人夫婦(夫の方が友人)の七名で会食をする。
男女同数にする意味があるのかと思ったら、ちゃんとあった。食事中にダンスをするが、女性が一人余るので、みんながダンスをしている間に一人で席に残っていることになる。
一年後に、被害者の夫が事件の再現をしようとする。この時は男女同数で全員がテーブルを離れる時がある。これが重要なトリックになっている。
トリックのために男女同数を強調したのか、これがイギリスの普通の習慣なのかはわからない。それに既婚の女性が男性の友人と遊び歩くのを夫が非難して止めさせることができないことも普通のことかは不明だ。
2014年3月9日日曜日
ベンチ
市民の森のベンチが立派なので驚いたが、かなり古い。

ほぼ同じタイプのものを氷川神社の参道で見つけた。こちらの方は、人が座っているので写すチャンスがなかった。

いろいろなデザインのベンチを見るのもおもしろい。
秋ヶ瀬緑道沿いの木の輪切りのベンチは、最初に見た時は塗料がピカピカしていて、ベンチと気付かずテーブルかと思ったが、最近は塗料も割れて剥がれて、最初の頃より気軽に腰かけやすくなった気がする。

このベンチのそばの桜は早咲きの品種で、秋ヶ瀬緑道沿いでは最初に開花する。

ほぼ同じタイプのものを氷川神社の参道で見つけた。こちらの方は、人が座っているので写すチャンスがなかった。

いろいろなデザインのベンチを見るのもおもしろい。
秋ヶ瀬緑道沿いの木の輪切りのベンチは、最初に見た時は塗料がピカピカしていて、ベンチと気付かずテーブルかと思ったが、最近は塗料も割れて剥がれて、最初の頃より気軽に腰かけやすくなった気がする。

このベンチのそばの桜は早咲きの品種で、秋ヶ瀬緑道沿いでは最初に開花する。
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