常磐緑道のタチアオイが並んでいるところで、近所の人らしい二、三人が立ち話をしていた。
「また、やられた」とピンクの花がついた茎を手にしている。先日、立て札を見たときは、自宅で花を楽しもうとする人が持ち去ったのかと思っていたが、切ったのを捨てていくらしい。
これなら、嫌がらせ目的か腹いせ目的としか思えない。やられる方だけでなくやっている方も気持ちがいいとは思えない。
最近の犯罪動機についての報道によれば、自分が不幸だと他人も不幸にしたくなる人間がいるらしい。自分が幸せになるために他人を犠牲にする犯罪もある。貧しさゆえに他人の物を盗むとか。困ったことだが、理解可能だ。より不幸になるために犯罪をするのは、自分にとっては理解不能だ。表立っては言えない雰囲気だが、刑事事件で被害者家族に裁判で加害者に対しての気持ちを言わせるのも、被害者家族を更に不幸にさせているようにしか思えず、これを被害者保護だという人の気がしれない。
自分が不幸なせいで社会に迷惑をかける人がいるなら、幸せになるのは権利というより社会に対する義務だと思った方がいいかもしれない。
健康を維持するのも、医療費の社会の負担を抑える点から、権利と言うよりは義務になってきているように思う。
自分が不幸だと他人も不幸にする人は、現在の自分よりもっと不幸な人を思い浮かべればいいように思う。余命半年と宣告された人よりは、たいていの人は自分の方が幸せだと思うのじゃないか。
「社会のためになることをしたい」と抱負を語る若者は多い。結果的には、誰もが、社会に認められるような仕事ができるわけではない。でも、積極的に社会のためになることをしなくても、社会の害になることをしないという形で消極的に社会のためになることはできると思う。
病気による死の宣告を本人にするかどうか問題になるときは、絶望感から自殺することを心配するが、処罰を恐れる必要がなくなったので、重罪犯罪を犯すのではないかと心配する人はいないし、現にどうせもう死ぬからと殺人鬼になったりしたとは聞いたことがない。実は、このことも前から不思議に思っている。世間では、死刑制度が必要だと考える人が多い。これは、死刑になることを恐れずに重罪犯罪を犯し、被害者が増えるのを心配しているのではなく、人間の仕返しがしたいという気持ちを大事にしたいからだろうか。これもまた、自分には理解しがたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿