CDには反戦映画と紹介されている。子供の頃、第二次世界大戦の時の厳しい食料事情や生活水準の低下を描くと、またそういう経験をしたくないと思わせることで、戦争が起こることを防ぐのに効果があると思っていた。最近は、そのことについて疑問を感じている。今、戦争が起きたとしても、その戦争によって第二次世界大戦時において経験した苦難と同じ苦難が起こるのか疑問に思うからだ。
捕虜収容所の生活は、「脚気とマラリヤで死ぬ」(231頁)、「粗びきの小麦とサツマイモのはいったバケツから湯気が立ち上り」(232頁)、「収容所内の池から汲んできた少しばかり塩気のある水を煮沸」「骨を折って湯を沸かすよりも、慢性の下痢に罹っている方を選んだ」(212頁)というようなものだ。
この貧しさが戦争の結果であるかは疑問だ。アガサ・クリスティの自伝を読むと第二次世界大戦が終わって軍務から戻った夫と再会した時には、二人とも戦争前よりも太っていたとある。アメリカとイギリスが豊かで中国と日本が貧しかったということではないのか。貧しさは戦争の結果ではなく原因だったのだと思う。戦争が終わってアメリカ軍が飛行機で食料を落とす。脂肪たっぷりのミルクの粉末、缶詰に入ったハム、チョコレート、戦争は相手がなければできない。アメリカも四年間戦争していたはずだ。
豊かになるために戦争を始めたのだとしたら、戦争に負けたにも関わらず豊さを実現したように思う。戦争せずに戦争の目的は実現できたことになる。
今は、むしろ貧しくて戦争を始めた方の側の失敗ではなく、他国より経済的に優位にたっていて戦争を回避できなかった国の失敗に学んだ方がよいように思う。
本を読んでも映画を見ても、思うのは戦争の悲惨さよりもイギリスとアメリカに対して、どうしてこうも中国は貧しいのかということ。
小説のはじめと終りに川を流れる棺が出てくる。以下が小説の最後の文章。
「アメリカの巡洋艦の水兵たちを乗せた揚陸艇の立てる波に洗われて、紙の花が揺れて散らばる。それは波にたゆたいながら、花環のように棺を取り囲んだ。その棺はこれから揚子江の河口までの長い旅路に出るのだが、自然と内陸にはいってくる潮流によって、埠頭や干潟へと戻ってくるだけなのだ。この恐るべき都市の川岸へ再び押し返されるだけなのだ。」
これが、バラードの世界だ。
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