沢木耕太郎著『旅する力』に、「丁も半も、無限に繰り返していけば、出る確率は五分五分になってしまう。」(215P)という記述がある。
これを読んで、最近、丁より半が出る確率の方が低いと書かれた小説を読んだのを思い出した。
自分はずっと丁か半か五分五分と思っていたが、半が出る確率が低いというのを読んだ時は、それなりに納得させられてしまった。
それで、ちゃんと確率の問題として考えて見た。結果、五分五分が正しいと確信した。
人を惑わした小説は、山口瞳著『巷説天保水滸伝』(124P)、
「そんなに半にばかり張るやつがあるかよう。いいかね」
「彼の言うのは、ふたつの賽が両方とも奇数だったら、結果は丁(偶数)である。また両方とも偶数だったとしても、丁である。すなわち、奇数に奇数を加えても偶数であるし、偶数に偶数を加えても偶数(丁)である。これに反して、半(奇数)は偶数の目と奇数の目が出たときにかぎられている。」
「それは留吉のいう通りであった。ふたつの賽をふって出る目の種類は二十一通りである。このうち十二通りが丁であり、九通りが半である。つまり、四対三の比率で丁となるから、丁に賭けた方が有利なのである。」
二十一通りがそれぞれ同じ確率で出るのなら、その通りだ。この二十一通りと言うのは、一と二が出た場合と二と一が出た場合を同じ種類と考ええる考え方だ。ちょっと考えると、この組み合わせが出る確率と一と一が出る確率が同じではないことがすぐわかる。
確率の問題として考えるなら、三十六通りの出方があり、丁と半の出方は、ともに十八通りあるので、丁と半が出る比率は同じとなる。
山口瞳本人が勘違いしていたのか、文学表現として、登場人物が勘違いしていることを示したかっただけなのかは、断定できない。
小説は、登場人物が考えていることか、作者が考えていることかよくわからない場合がある。普通は、作者が考えている部分で正しい答えがあることについて、わざと間違えたことを書くとは思わない。でも作者がどこまで取材して書いているかはわからないので、書いてあることをうのみにして受け売りで他人に話すのは要注意だろう。
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