沢木耕太郎著『深夜特急」、第二便281頁、イランでペルセポリスの遺跡に行く。
「空は恐ろしいくらいに蒼く、陽差しは痛いくらいに強い。」と読んだところで、「さいたまは実際に日差しが強くて肌に痛みを感じるぞ」と思い、さいたまの方がすごいんじゃないかと思う。
しかし、陽射しの強さは、痛みを感じる程度だという意味で「痛いくらい」と書いているのなら、実際に痛みを感じているのかと思う。(ひざしと打っても陽差しに変換しない理由はわからない)
でも「空は恐ろしいくらいに蒼く」のところは、実際に恐ろしく思っているわけではないのは確かだと思う。それに「泣きたいくらい」という場合は、たいてい実際には泣いていないと思う。でも、このくらいの大きさと手で示したら、実際にその大きさだろう(逃がした魚は大きいという場合もあるが)。
「泣きたいくらいだった」とか「吐きたいくらいだった」と書かれると、実際に泣いたり吐いたりはしておらず、その一歩手前と言う感じを持ち、実際にそういった状況で泣いたり吐いたりしたことのある人間が読むと、筆者の意図とは逆に「なんだ、それくらいのものだったのか」と思ってしまう。それともその違いは状況の程度の違いではなく、その人間の強さの違いだろうか。「死にそうなくらい辛かった」なんて書かれると同情する気持ちより反発する感情が湧くのも、「でも、死ななかったんだよね」と思ってしまうからかもしれない。つまり、結局大したことなかったのを大げさに言っているのか、自分は頑張ったという自慢かと思ってしまうのだろう。
続いて「二千五百年分の陽光を吸いこんだ巨大な石畳からは、めまいのしそうな熱気が立ち昇ってくる。」を読んで実際にめまいがしたのかしないのかはっきりしろと少しイラッときた。自分は低血圧のせいか自律神経失調症のせいか栄養不良のせいか運動不足のせいかわからないが、身体がふらっとして立っていられず座り込んだり、目の前が真っ暗になって何も見えなくなることが実際にある。
「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」を読み、丸太造(時間が経つと乾燥と荷重によって縮み、下がるので建具の間に隙間を作っておくらしい)やコンクリート造(最初は水分が出るらしい)は新築かどうかで違いがあるらしいが、石と言うのは建築年で陽光の熱の放射について、物理的に違いがあるのだろうかと思う。それに天然石なら新しい建物でも、建物になる前に別の場所で日差しをあびているかもしれないじゃないかと思う。
結論として「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」は状況を客観的に正しく伝えるための修飾ではなく(二千五百年前に建てられたらしいという情報は得られるが)、筆者の感傷を含んだ文学的修辞だと思う。
それが悪いというのではなく、なんだか「らしくない」と感じた。
『旅する力 深夜特急ノート」の44頁に「ボクサーがトレーナーからシャープでストレートなジャブを打てと言われつづけるように、私も太田氏にセンテンスを短くしろと言われつづけた。過剰な修飾語を排せ。修飾したければ修飾語でなく前後のセンテンスで説明しろ」と書いている。
同感だ。
改めて読むと、「二千五百年分の陽光を吸いこんだ」は「巨大な石畳」を修飾しているだけで、それが発する熱気の強さと客観的に関係があるとまでは言っていないのかもしれないと思う。だったら一つの文章にせず、二つに分けた方がいいんじゃないかと思う。
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