2015年12月17日木曜日

市民の森

 久しぶりに市民の森に行った。
 大宮第二公園から市民の森に向かって見沼緑道を歩き、改めて「いいな」と思う。
 

 ただ、残念なのは、鉄道線路を越えるときに、迂回しなければならないが、そこが住宅地化して開けてしまったこと。文字通り、開けてしまい見通しがよくなりすぎてしまった。
 
            
 以前は、こんな感じだったので、見沼緑道と違和感がなかった。
 市民の森につくと、リスの家が工事中のようだった。別所沼公園の浦和うなこちゃんは行方不明中で、変わらないようでいろいろ変化がある。
 

2015年11月28日土曜日

帆船

 三橋総合公園に、久しぶりに行ってみた。
 木製遊具がある広場に帆船の遊具があった。以前、来たときにまったく気付かなかったのが不思議だ。
 自分が子供のときに、近所にあったらよかったのにと思う。

2015年11月13日金曜日

動脈硬化度

 11月11日、たまたま浦和駅東口に行ったら、無料健康診断のパンフレットをもらった。検査項目に動脈硬化度があったので受けてみた。
 実年齢とぴったり一致した。がっかりした。実年齢が若くないので、血管が年をとっていることになり、心配だ。
 血液検査でコレストロールが高めと出ているので、運動と食事の改善が必要だと一層思う。
 置いてあるパンフレットを家でよく見ると介護老人保健施設の案内だ。特養、ケアハウス、グループホーム、有料老人ホームは聞いたことがあるが、この施設名は聞いたことがなかった。簡単に言うとリハビリをして家に戻すための施設で、死ぬまで暮らすための施設ではない。
 11月11日は「介護の日」だから、この日にこの行事が行われたらしい。これからも動脈硬化度を調べてみたいので、毎年実施するのかわからないが、この日は覚えておこうと思う。

2015年10月19日月曜日

つながった

 常盤緑道を歩いていて、今年の夏、「とうとう、つながった」と思った。
 途中で武蔵野貨物線と交差するが、その線路がコンクリートの壁に覆われていて、壁には蔦が這っている。
 左右から茎が伸びてきて、その間が開いていた。その様子が左右から手を差し伸べているようで、ミケランジェロの天地創造を連想させた。
 その指先がとうとうつながったのだ。
 秋になって葉が落ちてきて、茎の状態がよく見えるようになった。今では、どこがつながった部分か、わからないくらいだ。今度は血管網のようだと思う。
 

2015年10月17日土曜日

流れる

 幸田文の「流れる」のなかに、朝布団から起きるときの動作の描写がある。
「・・片手を力にすっと半身を起すと同時に膝が縮んできて、それなり横座りに起きかえる。」
 その後、座った状態から立ち上がる動作がわからない。文中の次の動作が「すうっと蒲団のあいだへ手を入れると、二ツ折りの古風な懐中時計をひらいてほつれ毛を撫でつける。」とあるので、ここまでは、まだ座ったままなのだろう。
 子供のころ浴衣を着たが、大人になってはじめて着物を着てみて、座った状態からどうたち上がればいいかわからない。
 すそを乱さず、すねが出ないように、おしりを突き出さないように立とうとするとそうとうの筋力がいる。両手にお盆を持ったまま立ち上がることなど到底無理だ。
 着物は洋服と違って着物自体のデザインの違いはほとんどない。体の線もあまり出ない。いままで、着物は模様だけの勝負かと思っていたが、立ち居振る舞いで他人と差がつくようだ。
 

2015年9月23日水曜日

新都心のモニュメント

 新都心のモニュメントは全部知っていると思ったら、今まで気付かずにいたのを見つけた。
 車道横の歩道から階段ではなく緩い傾斜の通路で上の連絡通路に上がれるところがある。最近、足を怪我して階段をなるべく避けるようになったので、歩いてみる気になった。その途中の蛇行した通路にある。今まで、まどろっこしい感じがして、歩いたことがなかったので、気付かなかったようだ。
 ちなみに、月のひろばにエレベーターがあるが、以前休日に利用しようとしたら動いていなかった。官庁の来客用ということらしい。
 豚の鼻の穴を連想する、妙に愛嬌がある形だ。
 

いせさき手織絣

 羽織の縫い方の本に、柄合わせの仕方が図入りで説明されていた。それによると、自分が縫った着物の模様の上下が伝統的な方法と違っていた。
 着物は柄の上下が前と後ろで逆になる。自分で考えて上下が互い違いになったほうがよいと思った。これは正解だったが、前身頃とおくみは互い違いにせず同じ向きにするのが伝統的方法なのに、自分はこれも互い違いにしてしまった。
 身頃の裏表を逆にすると本に出ているようになおせる。自分が縫った布地は眼で見て裏表の区別がつかないので、可能だが、すぐにはやり直す気にならない。ほどいて洗って縫いなおすときには、本に出ているとおりにやってみようと思う。
 布の裏表が同じになるのは、糸をあらかじめ織りあげたときに模様になるように染め分けているからだ。
 手順を考えてみると、かなり手がかかっていると思う。でも、普段着なので着物にしては、安かった。30年くらい前に買ったので、今でも作られているのか、同じくらいの値段か気になる。
 ネットで見たら、産地が東武伊勢崎線の終点の伊勢崎市だと気付いた。

2015年9月20日日曜日

着物と羽織

 母親が、長年ため込んでいたものを整理していたら、30年くらい前に買った着物と羽織のアンサンブルの反物が手つかずで、でてきた。
 私が、母親の付き合いで買わされたものだ。仕立ててから渡すと言われたものが、それっきりになっていたらしい。
 図書館で縫い方の本を見ながら縫った。羽織のほうは、裏なし、そで口は三つ折りしてまつい、まちをつけずに簡単にして縫ったので、着物とあわせて一週間ぐらいで縫えた。
 方法は簡単だと思ったが、襟の所は、技術的に難しく感じた。
 羽織の襟は、数枚も重なりあい、仕立てたままで洗濯したら、季節によっては、乾くまでにカビが大量発生しそうだ。洗い張りする理由はこんなところにもあるのだろうか。
 着物は家の中で気楽に着ると、利点が多い。まず、体温調節が楽だ。それに、脱ぎ着の際に足をあげなくてもよいのが楽だ。
 これは、年をとって気付いたことだ。
 着物に限らず、食べ物も年をとって、そのよさに気付いたところが、いろいろある。日本文化は年寄り文化のように感じる。

2015年9月3日木曜日

小物入れ

 最後に残ったビーズを使って、鍋つかみを小物入れにした。
 作りながら考えたらこうなった。子供のころ祖母の東京みやげにもらった首飾りの桜の花びらのビーズをとうとう作品化できた。
 祖母が東京に行くときに見送りに行ったのを覚えている。当時、青函連絡船の出港の際に紙テープを投げていた。来年の春には、新幹線が走るのだと思うと感慨深い。
 ビーズの形がよくわからないので、角度を変えて写した。


2015年9月2日水曜日

無趣味のすすめ

 図書館で「無趣味のすすめ」という題名を読み、退職した人に趣味を持てというのはよく聞くので、それを否定する生き方とはどんなものかと思い立ち読みした。
 「基本的に趣味は老人のもの」とある。老人は完全に対象外の本らしい。短文の随筆集で、冒頭の一遍を読んだだけで読む気がなくなり、借りるのを止める。
 読書が趣味という人は多いが、老人を対象読者とする本は少ない。老人だっていろいろ人生に思い悩み本に助けを求める人は多いと思う。
 老人でなくても働く必要がなく、多くの時間を趣味に費やすことができる人で、成果品が残る趣味を持っている人は、その成果品をどうしているのだろうか。
 働いていて、その余暇に趣味をやっている場合は、自分で使う分で消費できる。
 自分や家族で使っても余る場合、知り合いや友人にプレゼントする人は多いと思う。しかし、たいていの場合、もらった人は迷惑していると思う。
 時間がたくさんあると、作る量を必要な量に合わせるのは難しい。この問題について、ほかの人はどう解決しているのだろうか。
 完成に時間が多くかかる大作に取り組めばよいようなものだが、完成したときの達成感は、当分お預けになる。

2015年8月30日日曜日

鍋つかみ

 鍋つかみを新しく作った。
 鍋つかみが必要というよりも、使っていない刺繍テープとビーズを整理するために、これだけ作ってしまった。
 鍋つかみというと大きな手袋状のものが一般的なようだが、これは、直径16センチの円形のもの。これで十分用が足りるし、作るのが簡単で場所をとらない。

2015年7月31日金曜日

セミ

 朝、散歩のため家を出ると大きなセミが階段の手すりに止まっていた。
 「もうすぐ、秋」と思う。自分には、セミのイメージは盛夏ではなく「夏の終わり、秋の訪れ」だ。
 ここのところ、あまりの暑さに早朝に散歩することにした。5時から7時半の間の時間帯だ。朝早いので、別所沼公園は人が少ないだろうと思ったら、公園から大勢の人が列を作って出てきたので驚いた。どこかのグループの何かの催しかと思った。
 次に、公園に入ったらラジオ体操をしているところだった。北側の遊具がある場所は人がいっぱいで、その外側にも人が広がっている。
 今日、公園についたら、これからラジオ体操が始まるところらしく、人が集まりだしている。何かが始まるのを待つ期待感と緊張感が漂っている感じがいい。
 終わったら、一度にたくさんの人が公園から出て行くのだろう、早朝散歩の初日に見た人の行列の謎が解けた。
 沼の周りを歩いていたら、噴水が噴出した。噴き出す瞬間を始めてみた。ラジオ体操の開始時間に噴水も始まるのかもしれない。
 今日は、木の周りに人が集まっている。何かとのぞいてみたら、セミの抜け殻らしい。50センチ×1メートルくらいのところにびっしりセミの抜け殻が列になってついているように見える。となりの木には一匹だけついている。行列になっているのは、誰かが集めてそこにつけたのか、実際に集まって並んで羽化したのか、どっちかわからない。
 いままで、何度も公園に行っているのにセミの抜け殻を初めて見た。時間帯を変えると、まだまだ新しい発見がある。帰るとき、セミの大合唱に気付いた。改めて、秋に近付いたと思う。

2015年7月9日木曜日

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人

 読み直して、セドリック・ディゴリーとチョウ・チャンがクィディッチのシーカーとしてハリーと対戦しており、炎のゴブレットでいきなり登場したのではないことがわかった。
 シリウスがどうやって脱獄したのかも忘れていた。吸魂鬼の目が見えず囚人の姿が変わってもわからないという点が、炎のゴブレットの前振りにもなっていた。
 ロンのペットのフクロウがシリウスからの贈り物だということと、シリウスからの手紙をバーノンおじさんに見せておじさんをビビらせたということもわかった。
 一度読んだはずだが、全然覚えていなかった。これからあまり思いださないようにしようと思う。そうしたら、また楽しむことができる。

2015年7月8日水曜日

ハリー・ポッターと秘密の部屋

 改めて読み直して、細かい点にいくつか気づいた。
 第3章「隠れ穴」でジョージが「だけど家にいるのは、やかましい屋根裏お化けと庭に巣食ってる小人だけだもんな」と話していて、ロンは「僕の部屋、屋根裏お化けの真下だし。あいつ、しょっちゅうパイプを叩いたり、うめいたりするんだ」と話している。ここで既にウィーズリー家に屋根裏お化けが登場していることは、すっかり忘れていた。第12章「ポリジュース薬」では「彼の妻は記者団に対し、『とっとと消えないと、家の屋根裏お化けをけしかけるわよ」と発言した」と出てくる。
 第8章「絶命日パーティー」では、ピーブズが「ほとんど首無しニック」に焚きつけられて「姿をくらます飾棚」をフィルチの事務室の真上に墜落させて壊す。飾棚がいつどうやって壊れたかが書かれていたことは、全く覚えていなかった。
 第9章「壁に書かれた文字」では、ロンがクモ嫌いになった理由が書かれている。ロンが三つのとき、フレッドのおもちゃの箒の柄を折ったので、フレッドがロンのテディ・ベアをバカでかい大蜘蛛に変えた。「熊のぬいぐるみを抱いているときに急に脚がニョキニョキ生えてきて」想像して見ると蜘蛛に対して克服できない恐怖をもつようになったのも当然と納得できる。
 いままで、ロンを少し弱虫だと思っていて申し訳ないように感じる。
 

2015年7月6日月曜日

みぞの鏡

 「ハリー・ポッターと賢者の石」を読み、最初に読んだ時に気づかなかったことに気づいた。
 「みぞの鏡」の名前の意味がわかった。「みぞ」の「鏡」だと思い、どうして「みぞ」なのだろうと思っていたが、「のぞみ」を逆読みして「みぞの」鏡になるのだとわかった。鏡の枠に字が彫ってあり、それを逆向きに読むと意味が通じるところから気づいた。
 ハリーが最後にベットに寝ているときに、ロンの双子の兄からトイレの便座を送られる。読んで一日たっただけなのに、何の冗談かもう忘れている。わざわざ探して、第6章「9と3/4番線からの旅」でジニーに言った冗談だとわかった。

2015年7月4日土曜日

禁句

 昨年、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読んだ時には、結婚式の最中に襲われて死の秘宝を探す旅を始めた最初に、非魔法界のカフェで居所を直ちに突き止められたエピソードは、あまり重要に感じられなかった。ただ、どうして居所が突き止められたのかという理由は記憶に残った。
 今年、実はかなり重要なエピソードだということに気づいた。
 このエピソードがなければブラック邸に行くことはなく、行かなければロケットも見つからない。食べ物がろくに手に入れられない野宿を続けることの説得的理由もつかず、以降の物語の流れがつくれなくなる。
 最初に読んだ時には、流れを追うのにいっぱいいっぱいな感じだったが、二回目になると、いろいろ細かいことにも気が回るようになった。

最強の杖

 去年ハリー・ポッターの死の秘宝を読んだ時は、最強の杖を持った人間を決闘で破って、その杖を手に入れるのは、不可能なように思った。とはいえ、盗んだりだまし取った人間でないと最強の杖を持つ最強の魔法使いになれないというのも、卑怯者が勇者になるようで、何か違和感を感じる。
 それにダンブルドアは正々堂々と決闘して相手を破り最強の杖を手に入れたようなので、決闘で負ける杖は最強ではないだろうと思った。
 今年、読み直して、最強の杖を持つから最強になるのではなく、最強の魔法使いだから最強の杖を持てる、杖が所有者と認めてくれるという意味だとわかった。
 それにしても、この杖を持っていると腕に覚えがある魔法使いが次々と決闘を挑んでくるので、まともな人間なら持ちたいとは思わないだろう。

破れぬ誓い

 ハリー・ポッター第六巻「謎のプリンス」の最大の謎、スネイプはどっち側なのか?についての答えは第七巻に持ち越される。
 第六巻の最後では、ダンブルドアのスネイプに対する信頼は裏切られたようにもみえるが、ダンブルドアが命乞いをするとも思えないので、表面どおり受け取ることができない。
 スネイプがやっぱりダンブルドアの信頼を裏切っていないと思わせる最大の要因は、ハリーがプリンスを「指南役でもあり、友達でもあった」(第24章セクタムセンブラ)と思い続けており、スネイプは本当はいい人間だと思えるところだ。その点でプリンスの正体は、この巻で重要な役割をはたしているように思う。
 この点で、原作は教科書を隠したのが、スネイプに没収されるのを恐れ、あくまでも手放さないようにという意図だったのが、映画の方は、教科書を手放す意図で隠したように見えるのは、少し違うように思う。
 第七巻を読んでも、スネイプがどういう考えで破れぬ誓いをしたのか、ダンブルドアはそのことを知っていたのか、知っていたとしたらいつ知ったのかがわからない。
 自分はダンブルドアは最後まで知らなかったのではないかと思う。ドラコが闇の帝王に命じられた行為をスネイプが代わって実行することは、実現可能であり、危険が少ないようにも思われるが、ドラコが他の人間にも危害が及ぶような方法をとる場合に、それを妨げるのは、誓いを破ることにもなりかねず死の危険性はかなり高いように思う。
 ドラコが素直にスネイプの忠告を聞かなくなっているので、誓いをした時点で考えた以上の危険が発生したように思う。
 この困難さを考えたとき、ダンブルドアのスネイプに対する態度は非情にも感じられる。だから、ダンブルドアはスネイプが破れぬ誓いをしたことを知らなかったのではないかと思った。
 ただ、優秀な人間は自分が簡単にできるので、他人にとっては難しいことであることに気づかず、他人に対する要求が高く非情に見えることがあるので、知っていた可能性も否定できない。

2015年7月1日水曜日

伏線(2)

 第六巻「ハリー・ポッターと謎のプリンス」第24章「セクタムセンプラ」でハリーは魔法薬の教科書を必要の部屋に隠す。隠す場所を探す途中で「姿をくらますキャビネット棚」のところを左折し、隠し場所を後日見つけるための目印に、本を隠した戸棚の上に胸像を置き、その頭に古い鬘と黒ずんだティアラを載せた。
 最初に読んだ時は、重要な意味を持つとは全く思わず、あとでそのことを持ち出されても全く心当たりがなかった。
 映画では、ここのところをどうやって処理するのかに注目した。

2015年6月29日月曜日

伏線

 一年前にハリー・ポッターの原作全巻を読んだが、最近映画を見て、かなり忘れていることに気づき第四巻から読み返してみた。
 後になって重要な意味を持ってくることがわかっていると、最初に読んだ時には流していたエピソードに注意が向いてくる。
 第五巻不死鳥の騎士団の第28章「スネイプの最悪の記憶」のなかで、ロンの双子の兄がモンタギューを二階の『姿をくらます飾棚』に頭から突っ込み、どこに送ったかわからないと話す。学校を去る決心をした二人はもう処罰を恐れる必要もない。
 ハリーがスネイプに閉心術を教えてもらっているときに、ドラコがスネイプを呼びにくる。モンタギューが五階のトイレに詰まっていたのがみつかり、モンタギューがどうしてそうなったか説明できないので来て助けてくれということだ。
 ハリーはスネイプの留守に憂いの篩でスネイプの過去の記憶を見てしまう。
 魔法で移動する方法は、姿くらまし・姿あらわしの他にも移動キー、煙突飛行がある。学校の中で姿くらまし・姿あらわしはできないことになっていて、煙突飛行は監視できる。
 移動キーについては、ダンブルドアが校長室から移動キーをつかって移動させるところと逆に魔法省から校長室に送り込むところが第五巻に出てくる。
 学校内外の移動に移動キーが使用できる条件がよくわからない。第四巻で優勝杯を移動キーにしてハリーを学校外に連れ出している。ハリーが必ずその移動キーに触り、しかも他の人間は触らないようにする方法は、優勝杯を移動キーにする以外にも簡単な方法はたくさんあっただろうにと思うと同時に、どうして学校襲撃に移動キーを使用しなかった(できなかった)のだろうと思う。

2015年6月15日月曜日

延滞税の回避

 ジュリスト6月号の租税判例速報が、またまたおもしろい。
 相続税の申告納付をした人が、減額更正請求したことに対して、税務署長が相続財産の評価の誤りを理由に減額更正して還付加算金を加算して過納金を還付した。その後、税務署長は相続財産の評価の誤りを理由に増額更正し、この増えた分の税額に応じた延滞税が発生するとした。
 増額更正後の税額は当初の申告納税額より低かったため、納税者は延滞税の納付義務を争い最高裁は納税義務がないと判断した。
 ちなみに還付加算金は減額請求してから三ヶ月以内は発生せず、延滞税については、増額決定までの期間は、法定納期限(本来の申告納税期限)から一年分だけ発生する。そのため、納税者が還付加算金狙いで故意に過大に申告しても課税庁が迅速に処理すると還付加算金は発生せず、課税庁の増額更正処理の遅れによって一年分以上延滞税が増えることはない。
 下級審が延滞税の発生を認めたのは延滞税は本税に付随して発生することを重視したためで、条文どおり機械的に延滞税を計算するなら、延滞税が発生すると考える方が話が簡単になる。
 最高裁は「そして,延滞税は,納付の遅延に対する民事罰の性質を有し,期限内に申告及び納付をした者との間の負担の公平を図るとともに期限内の納付を促すことを目的とするものであるところ,上記の諸点に鑑みると,このような延滞税の趣旨及び目的に照らし,本件各相続税のうち本件各増差本税額に相当する部分について本件各増額更正によって改めて納付すべきものとされた本件各増差本税額の納期限までの期間に係る延滞税の発生は法において想定されていないものとみるのが相当である。」と判断した。
 解説者は「本判決においては、立法者意思等が十分に吟味されたとはいえず、問題が残るといえよう。また、こうした解釈により、延滞税を回避するために意図的に過大に申告・納付をし、更正の請求を行う可能性もあり得るため、慎重であるべきであろう。」と書いている。
 自分も最高裁が「民事罰の性質を有し」と決めつけたのは、言い過ぎではないかと思うが、延滞税を回避するため以下の記述については、全く理解できない。
 以下の筆者の記述にあるように、本件の射程は「課税庁の行為によって未納付状態が作出された」場合に限られるので、どうやったら課税庁が減額しすぎてから増額する行為を期待して、延滞税を回避するために意図的に過大に申告・納付する人がいるかもしれないと考えることができるのか不思議でしょうがない。
 事案の内容がよくわからないせいかと思い最高裁のHPの判決文を読んで驚いた。まず延滞税の金額が一人あたり一万円台だ。
 そして、事案の内容だが、納税者が減額更正請求した一部が認められて減額更正されたが、それに対して異議申し立てをしたところ、減額しすぎとの判断がされ、その判断を受けて課税庁が増額更正したというものだ。最初の減額更正も異議申し立ての判断も同じ税務署だ。これでは、「せっかく減額してあげたのに、それに納得せず更に争うから、かえって損したでしょ」といっているようなものだ。しかも最初の減額更正の判断については還付加算金が発生するくらい時間をかけているのだから、一回でちゃんと判断できなかった言いわけができないように思う。
 今度もまた、結論としてはこれしかないと思うが、理論面の説明は苦しい。法律は課税庁がこんなまねをすることまでは、想定していなかったとしか言いようがない。
 念のため関係する判決文の一部を示すと以下のとおり(平成25年(行ヒ)第449号)

他方,所轄税務署長は,本件各更正請求に係る税務調査に基づき,本件相続土地の評価に誤りがあったことを理由に,上告人らの主張の一部を認めて本件各減額更
- 5 -
正をしたにもかかわらず,本件各増額更正に当たっては,自らその処分の内容を覆し,再び本件各減額更正における本件相続土地の評価に誤りがあったことを理由に,税額を増加させる判断の変更をしたものである。
以上によれば,本件の場合において,仮に本件各相続税について法定納期限の翌日から延滞税が発生することになるとすれば,法定の期限内に本件各増差本税額に相当する部分を含めて申告及び納付をした上告人らは,当初の減額更正における土地の評価の誤りを理由として税額を増額させる判断の変更をした課税庁の行為によって,当初から正しい土地の評価に基づく減額更正がされた場合と比べて税負担が増加するという回避し得ない不利益を被ることになるが,このような帰結は,法60条1項等において延滞税の発生につき納税者の帰責事由が必要とされていないことや,課税庁は更正を繰り返し行うことができることを勘案しても,明らかに課税上の衡平に反するものといわざるを得ない。そして,延滞税は,納付の遅延に対する民事罰の性質を有し,期限内に申告及び納付をした者との間の負担の公平を図るとともに期限内の納付を促すことを目的とするものであるところ,上記の諸点に鑑みると,このような延滞税の趣旨及び目的に照らし,本件各相続税のうち本件各増差本税額に相当する部分について本件各増額更正によって改めて納付すべきものとされた本件各増差本税額の納期限までの期間に係る延滞税の発生は法において想定されていないものとみるのが相当である。

2015年6月14日日曜日

白い宴

 渡辺淳一が日本初の心臓移植について書いた小説を読んだ。
 読んでみて、これは確かに医者が書いた小説だと思った。心臓移植手術には批判的に描かれてはいるものの、手術するかどうかの決定は医者に委ねられており、患者の家族はその医師の専門家としての判断を信用するしかないことについては肯定的なように読める。また、実験的手術も医学の進歩のためには必要であることについても肯定的なように思う。
 結局、もう少し、慎重に手順を踏んで実施していれば、よかっただけのことという結論になる。そして、それができなかったのは、医師が自分の功をあせったためであり、そういう気持ちもわからなくもないというふうに読めた。
 麻酔医は、心臓移植に反対だが、その理由は、心臓移植ができる基準が決められると、その基準に達した患者に対してそれ以上の蘇生術が行われなくなり、蘇生術についての医学の進歩が止まるということと、これ以上蘇生術を行わないという判断が麻酔医ではなく心臓外科の医師に委ねられることになるかららしい。こういう視点も医師でなければでてこないだろう。
 自分が気になる一番の問題は、死ぬことが確実だが、実際にはまだ死んでいない人間の心臓を取り出すことの是非だ。
 麻酔医がまだ蘇生術を続けようとし、それを妨げられて、心臓を摘出されるということは、つまりそういうことだと思うのだが、医師にとっては、だれがいつ決定するかということと医学の進歩という点が一番の関心事らしい。
 現行の臓器移植法では、臓器は「死体」から摘出すること、死体には脳死した者の身体を含むと規定している。法律でいくら死んだ後でなければ臓器摘出されることはないと決めても、脳死の判断は素人にとっては、結局医師の判断を信頼するしかない。
 臓器移植は専門家に対する信頼がないと成り立たないと思う。
 この心臓移植のテーマについて法律家が小説を書いたら全く違うものになるだろう。
 専門家に対する信頼と言う点では、医師と法律専門家については、全く逆になったように思う。同じ生死に対する判断について、法律の方では専門家ではなく素人の判断に従う方がよいということになったようだ。
 弁護士であり小説家である人もいるが、現役裁判官で小説家はいるのだろうか。裁判員裁判の審理を実際に経験できる法律専門家は裁判官しかいないのだから、そのうちに現職裁判官が裁判員裁判の小説を書いて退官したということがあれば、その小説は是非読みたいと思う。

2015年6月12日金曜日

白夜

 やかまし村の子供たちの映画のDVを見た。直前に小説を読んだので、内容的に目新しいところはなかったが、夏の夜遅くまで外が明るいのを見て、「そうか、スウェーデンの話だから、これが白夜というものか」と思った。
 小説の中で子供たちが夜中に家を抜け出す計画を立てるところがある。読んでいるときには真っ暗な外に出ていくのだと思っていたが、映画を見ると実際は昼間と同じくらい明るい外に出ていく話だった。
 作者がスウェーデン人だから、小説の中には白夜の説明はない。当たり前のことだからわざわざ説明するまでもないということだろう。他にも作者がおかれている自然環境とこちらの自然環境が違い、作者の考えている状況と全く違う状況を思い描いていることがあるのだろうと思った。
 渡辺淳一の自伝的小説「白夜」を読んだ。札幌の夏に白夜はないから、どうしてこの題名なのだろうと思う。医者の白衣の白のイメージだろうか。出てくる道内の地名がアルファベットの最初の一文字で表現されている。N温泉が登別温泉なのは間違いないが、K市は釧路かそれとも北見か、Y市は余市だろうか。余市町なので迷う。自分も札幌に長く住んでいたので、春になって一斉に花が咲き、関東なら順番に咲いていくところが、札幌だとほぼ同時に咲くところの描写はよくわかる。このことがわざわざ書くに値することだということは埼玉に数年住んでみてよくわかった。
 日本で初めての心臓移植が行われた時に、作者がその病院にいたことを初めて知った。当時自分は子供だったが、手術が行われてから移植手術を受けた患者のことが連日報道され、一か月過ぎたころに成功してこれから長く生きるのではと思いかけたら、結局亡くなりがっかりしたのを思い出した。
 
 

2015年6月9日火曜日

主題

 今、ハリー・ポッターシリーズの前半四作品がテレビ放映されていて、三作目まで終わったところだ。テレビで三作目がシリーズ最高傑作と呼び声高いと紹介されていた。正直、自分も三作目が映画のおもしろさとしてはピークだったように思う。四作目は期待したような面白さと違い、五作目以降はテレビで前半見ただけで10時になったらいつものように寝てしまった。録画は裏のドラマを録画した。
 ところが原作の小説を読むとその逆だ。三作目までは一冊で終わり四作目以降は上下二巻の倍の分量になり、それぞれ後半になると先が気になり一気に読み進めていくという感じだ。
 そのかわり、各篇の独立性と言うかまとまりは弱くなったように思う。
 一作目は、学校のなかで何か大事な物が守られていて、それがどういうもので誰が狙っているのかが主題であることは、はっきりしている。その主題にそって、物が何か、誰が狙っているのか、それが、最後に明かされ、推理小説で最後に意外な犯人が明かされるのと同じような楽しみを味わう。
 二作目は、秘密の部屋がどこにあり、以前その部屋を開けたのは誰で、今誰が開けようとしているのか、これも主題が明らかで、最後にやはり驚く真相が明らかになる。
 三作目は、タイムトラベルの話がからみ、これだけでもおもしろいし、ハーマイオニーが機転を利かし、ハリーは優秀な魔法使いでなければできないようなことをし、主人公達のヒーローさに気持ち爽快になれる。
 四作目の映画の宣伝で魔法学校対抗戦というのを聞き、ハリーがどういうふうに知力と魔力をつくして戦うのか、ゲーム的面白さと冒険小説の主人公のようなヒーローとしてのハリーを期待してしまった。
 そして、ハリーが思いがけず選手として引っ張り出されたことから、敵が大会にかこつけてハリーを襲って殺そうとするのではないかと思った。
 しかし、真相はその逆だった。敵(ヴォルデモート)の狙いはハリーに優勝させて優勝カップに触れさせることだった。だから、ハリーが勝つのを妨害するどころか逆に勝たせようと干渉してくる。
 ハリーが他の人間を押しのけても優勝を狙いにいくような人間だったら、敵の目的は容易に達成されただろう。ところが、ハリーは競技の相手が危機に陥ると救いにいって、共に危険にさらされるので、干渉の目的が最後まで読者にも映画を見る者にも明かされない。
 ハリーがさらされている危険と思っていたものが実は違っていたというのは、三作目も同じだ。ハリーを殺そうとしていると思った脱獄犯は逆に味方だった。最後に明かされる真相の主題そのものが謎になっていてふせられていること自体は悪くはないのだろう。
 ただ、四作目については、はじめに敵(ヴォルデモート)の計画をもらしていた方がより危機感が増し、これからどうなるのだろうという期待が増したように思う。正直どうハラハラしたりドキドキすればよいかわからず、かわりになんだかくだらない恋愛感情のもつれのようなものを見せられて終わったという感じだ。
 それから、英雄としてのハリーを期待しすぎてしまった。原作を通して読むとハリー自身は生まれつき時別な能力も才能もなく、赤ん坊の時は母親の愛がハリーを救い、そのあとは友情と勇気によって、他の人にも助けられヴォルデモートに勝つことができたとわかる。
 五作目以降は前半しか映画を見ていないが、どういう謎について不思議に思ったらいいのか、どういう危機に対してハラハラすればよいのか主題がわからなかった。
 映画をつくる段階で原作が全部できていなかったことが影響しているのだろうか。新シリーズの映画をつくるよりも、四作目以降をリメークしてほしいように思う。
 
 

2015年6月8日月曜日

親戚たち

 テレビドラマ「親戚たち」の脚本の本を持っている。市川森一が書いている。原作はなくオリジナルで、あとがきによると諫早は作者の故郷ということだ。ドラマは1985年(昭和60年)制作なので、諫早湾には干潟が広がっている。
 主人公は、この干潟を干拓した地元では有名な名家の出身だが、今その名家は没落している。
 干潟の土地の所有権は持っているが、土地の価値はなく、リゾート開発の話が起きている。
 この後、国の干拓事業が始まり、現在水門を開ける、開けないの相反する判決が出て混乱しているわけだけれど、ドラマの中の干潟の風景は、もう見ることができないのだろう。
 論極ジュリスト2015年春号に諫早湾の排水門の開閉を巡る裁判についての記事が出ている。
 いままで、干拓してできた農地と有明海の漁業のどちらの利益を守るかの争いかと思っていたが、川の氾濫による水害予防が問題になっているようだ。
 満潮時に河口の水面が上昇し、川の水が排水されずに水害が起こるのを防ぐため、大雨の時に排水門を閉じて川の水を調整池にため、干潮時に排水門を開けて溜まった水を海に排出するという仕組みだ。
 大雨の時に排水門を閉じて河口からの水の流入を防ぎ、一時的に排水門の手前に上流から流れてきた水を溜めるということなら、さいたま市内でも鴻沼川、鴨川、荒川の水門で同様の仕組みになっている。
 埼玉にくるまでは大きな排水門を見たことがなく、普段水門が開いているのを見て、いつ閉めるのか不思議だった。大雨が降って川の水を海に出す必要があるときに、逆に排水門を閉じて川の水を溜めるということが不思議だった。他の大きな河川や海からの逆流を防ぐためと言われるとなるほどと思った。
 ジュリストの解説を読むと、開門の判決が出た後の事情の変更として、河川の治水工事の進行による水害防止のための排水門の必要性の高まりを考慮すべきとしているが、河川の治水工事が進んだらむしろ逆ではないかと思ったが、これは河川の治水工事により上中流で川から水が溢れることが少なくなり、以前より多くの水が河口まで運ばれるようになるからということらしい。
 河口だけでなく上中域にも調整池を設けるようにしたらよかったのにと思うが、適当な土地がなかったのだろう。
 結局、諫早湾の排水門の問題は水害の点では、いつ閉めていつ開けるかの問題でしかないように思う。
 今まで、諫早湾の問題は、農地の干拓問題がない地域には無縁の話かと思ったが、水害防止と水の流れを止めることによる水質悪化、環境破壊の問題なら、関東地域でも同じような問題はたくさんあるのだろうと思う。
 荒川流域で桜草が自生するには、定期的に川の水が溢れることが必要なようだが、今の治水状況からいって、それは無理のように思う。
 人口が減少していくようだから、無理やりコンクリートで自然を改変するより、条件の悪い場所には住まないようにしていけばよいのにと思う。

2015年6月5日金曜日

幻の動物とその生息地

 ハリー・ポッターのスピンオフ映画が作られるというニュースを見て、どういうストーリーの映画になりそうか全然わからないので、『幻の動物とその生息地』を読んでみた。
 100頁の本で32頁から最後まで幻の動物についてアルファベット順に説明が続く。この部分は読んでいてだんだん退屈してくる。特に面白いエピソードやストーリーはない。
 魔法動物の定義のところは面白かった。人間の形に似ているが知性がない、動物の形態をしているが、知性がある、人間の形をし知性もあるが、現在生きていない場合、どう扱うか。
 SFで宇宙人とどう付き合うかという問題に近いような気がする。知的ゲームとしては面白いように思うが、映画のストーリーにはなりそうにない。
 主人公が幻の動物の発見と研究のために各地に出かけて冒険をする話になりそうだが、具体的なエピソードやストーリーは、全く新しくこれから考えだされるのだろうと思う。
 作者の才能を思うと期待できるが、ハリー・ポッターの本篇の四作目以降の映画を見た感想からは、わかりやすく見て楽しい映画になるか、少し心配でもある。
 最近、「トータル・リコール」の再映画化された映画を見て、前に作られた映画と出だし以外は、結構違っていたので、原作がどうなっているのか気になり、原作の小説を読んで驚いた。映画が原作どおりなのは、主人公が記憶を取り戻した直後襲われて、逃げ出すところまでで、その後原作の方はブラックユーモアで笑えるオチがついてすぐ終り、逃げ出した後の話は映画の創作ストーリーだった。どうりで前作と違うストーリーになるはずだ。
 映画が原作の設定だけ拝借するという点では同じことになりそうだ。
 エンデの「はてしない物語」の映画化は、第一部だけで終わってしまったのは残念だったが原作が長いのでそれも仕方ないと思った。原作のイメージとは違ったがアトレーユの美少年ぶりが気に入り、第二部を期待したが、時間が空きすぎて同じ少年で作ることができずがっかりした。ただ、原作の第二部は大人がじっくり読んでも理解するのがちょっと難しく、簡単にいうと空想にひたって、それに頼りきるのは危険だということになるかと思う。第二部の映画を撮ったとしても第一部のようにわかりやすいストーリーで、見て楽しい子供向けのファンタジー映画には、なりそうになかった。
 二作目以降の映画も見たが、ファルコンは前と違っておもしろいところもあったが、第一作のおもしろさには全然及ばないという感想だ。原作の内容とも違う。
 ハリー・ポッターの方は、同じ俳優が同じ役を演じるということで、かなり期待したが、正直言って裏目に出た気がする。原作の内容が映画化するには難しく、内容的にも楽しいファンタジー映画にはならず、むしろ暗くてつらいものだという点は共通しているように思う。
 ハリー・ポッターの本篇の方こそ、別の俳優に変えて、原作と全く違った内容で楽しいファンタジー映画にして欲しかったように思う。
 

2015年5月27日水曜日

法律専門家の使命

 論究ジュリスト2015年春号で憲法特集をやっている。今ホットな憲法問題は集団的自衛権だろう。
 学者の論文を読むと、昨年閣議決定で行使を認めている集団的自衛権は、これまで認めてきた個別的自衛権の範囲を超えるものではなく、それまでの政府見解を容認する立場からは、特に問題視するようなことではないらしい。
 「一般メディアの議論に流されずに、しっかりと法的理論を見極めるのが、法律専門家の使命であろう。」と締めくくられている。
 問題はそういうことではないように思う。今は集団的自衛権として、個別的自衛権の行使として認められることしか行わないとしても、集団的自衛権を認めることによって、将来的に集団的自衛権でできることを拡大していこうという思惑があることは自明だ。
 現在大丈夫で将来問題が起きたときに対処すればいいというだけでは、現実の世界を将来に向けてどうしていくかという問題には何の役にもたたないように思う。少なくても能動的ではなく受動的だ。
 結局、法律専門家の出る幕ではなく、政治家の仕事ということになるらしい。

2015年5月26日火曜日

フランス人は服を10着しかもたない

 本のタイトルを見て、トータルで10着だと思い、具体的内容がすごく知りたくなった。常夏の南の島なら簡単だけどと思ったら、テレビで著者が春秋10着、夏10着、冬10着でコート類は含まないと言っていた。
 つまり、今日何を着ようか、10着の候補から選ぶという感じらしい。多くの人はよく着る好きな服だけ残して、それ以外を処分したら実現しそうだ。
 だから、アマゾンの書評を見ると内容に共感して持っている服を思い切って整理したという人が結構いる。
 自分の姉はオシャレで流行に敏感で服をたくさん買うが、物が溢れずすっきりしている。どんどん買ってどんどん捨てているからだ。
 本の趣旨はもちろんたくさん買ってたくさん捨てるという意味でも、たくさん買ってその中から10着に絞るという趣旨でもないだろう。
 ただ、本を読んで共感した人は、まず今ある服を処分して10着にするところから始めようとするようだ。
 片付けのテレビ番組を見ても思うことだが、既に今あるものを無理に捨てなくても、すっきりした生活ができるんじゃないかと思う。
 それから、一番の疑問は一年を三つのシーズンに割り切れるのかということ。真夏と真冬に着る服ははっきりしているが、その間に着る服が問題だ。一年に一週間ぐらいしか着る機会がない服がある。それでも連続同じ服は着れないので、良質の値段の高い服でなくても何十年も持っている服がある。
 テレビドラマの「すいか」で売れない漫画家の女性のファッションが素敵だったが、札幌で同じ恰好ができるのは一週間ぐらいしかないように思う。これは、季節の狭間のかっこうではなく、札幌でもっとも暑くなる時の昼間に着たら寒いのを我慢せずに着られる服で、最近のさいたまなら何カ月も着る機会がある服装だ。
 関東は一番多くの季節の服を楽しめるように思う。それから春と秋に同じ服でいいはずがない。春には夏を先取りした色と質感の服を、秋には冬を先取りしたそれを考える。桜が咲く花見に着る服と、紅葉を愛でる観楓会に着る服は違う。
 多分、それでいくと年間30着ではなく数十着になるように思う。更に、買って失敗したり、気候的に年間に着る機会が少ない服など、捨てれば捨てられるけれどまだ着られる服をいれるとトータル100着くらいになるんじゃなかろうか。

2015年5月25日月曜日

N

 最近、自転車を止めてバスに乗るようにした。停留所のバス停で時刻を見ると時間のところにNの表示が目についた。ノンステップバスで、バスの床が低くなっていて乗り降りの時に階段を上り下りしなくてもよいバスらしい。
 確かに乗り降りは楽だが、バスの中でステップを上り下りせずに座れる座席は少なく、その席はあらかた、またはすべて優先席になっている。そこで先頭の車輪の上の席に座った。以前からその席は登って座る感じだったが、バスの床が低くなったせいで、更に高い席になった。背の低い人なら座席に座ったままでは床に足が届かない。子供と年寄りは危ないから座らないようにという注意書きまである。
 見た目は優先席に座れるほどの年寄りでも身体障害者でもないが、筋力低下で運動能力の衰えた中高年には、かえってバスに乗るのが厳しくなったような気がする。

二郷半用水路緑道

 「るるぶ埼玉」を見ていたら、二郷半用水路緑道の写真があった。
 場所は、三郷放水路から下流の部分らしい。
 二郷半領は治水の話によく出てくるので、今はどんなふうになっているのか興味があったので、行ってみることにした。
 最寄りの駅は、つくばエキスプレスの三郷中央駅で、軽く歩ける距離だ。同じ場所を戻るのも芸がないと思い、地図を見ると、用水路の先の第二大場川沿いに歩くと水元公園に行きつき、水元公園と金町駅との最短距離が歩ける距離なので、帰りは金町駅からJRに乗ることにした。
 三郷中央駅には武蔵野線南流山駅で乗り換えて行くことにした。ところが、京浜東北線の南浦和駅でぼんやりしていて武蔵野線に乗り換えのため降りるのを忘れたので、このまま金町に行くことにして、予定とは逆向きに金町駅から三郷中央駅まで歩いた。
 緑道はよく整備されていて、近所に住んでいたら、しばしば行きたいと思うが、水元公園から緑道までの間は、また歩きたいという感じではない。治水関係の歴史的遺跡の案内板は、見当たらなかったが、庚申塔が脇の道にあった。

2015年5月24日日曜日

JR常磐線と地下鉄千代田線

 水元公園に行くため京浜東北線に乗り日暮里駅で常磐線快速に乗り換えた。金町駅には快速は停車しないので各停に乗り換えるため北千住で降りた。同じホームで乗りかえるのかと思ったら、各停乗り場に行くには下のホームに降りなければならないことがわかり、行ってみると遠目からは千代田線の乗り場しか見当たらず、まごまごしたが、千代田線のホームの降り口の壁に常磐線の表示があるので、同じホームらしいとわかった。
 千代田線の方ではなくJRの各停が来たので、安心して乗り込んで座ったら、中学生くらいの年齢で同じ運動着を着た20名程度の団体が、アナウンスを聞いて降りた。2、3名くらいが乗ったままでいいと思ったらしく、降りなくてもいいと呼び掛けた。それに応じていったん降りた何名かがまた乗ってきた。
 何度も降りる降りないのやり取りを繰り返し、相当バタバタしていて思わず笑えた。綾瀬がどうとか言っている。どこで降りるのかと思ったら亀有駅で降りた。亀有駅に行きたかったのか、北綾瀬に行きたかったので間違いに気づき、綾瀬で千代田線に乗り換えるために引き返そうとしたのか、どっちかわからない。
 以前、母親とスカイタワー、柴又と回り金町から帰る時、千代田線に乗り、日暮里に行く途中で常磐線に乗り換えるつもりでいたら、西日暮里まで直通で行けたので、西日暮里で京浜東北線に乗り換えたことがあった。西日暮里で千代田線の改札を通ったら、JRしか乗れない周遊の切符を持っていた母親が改札で止められてしまった。かなりの混雑で止められたのに気付かず、母親の姿を見失いはぐれてしまった。あとで聞いたら、追加料金は取られなかったらしい。
 この経験がなかったら、北千住で千代田線と常磐線のホームが同じことに気づくのにもっと時間がかかったかもしれない。

2015年5月23日土曜日

彩湖自然学習センター

 彩湖自然学習センターに行った。
 武蔵浦和駅から下笹目行きバスに乗って修行目の停留所で降り、徒歩10分とのことだった。
 建物のすぐ目の前で一般車両が通行できないように鉄格子の扉が道路を塞いでいるので、迷ったが、ここを通らないと案内の停留所から徒歩10分ではこれないので、扉の横を回って入った。
 後でパンフレットを見ると歩行者・自転車道に色分けされていたので、通ってよかったらしい。
 いままで何度もさいたま市側から自転車で来ていたが、建物に気づかなかった。公園内の遊歩道の行きどまりからだと建物がほとんど見えないので、気づかなかったのも当然だと思った。
 樹の間に白い建物が見えるのがそれだが、斜面の石段の下に立つと斜面に遮られてそれも見えない。
展示では、1階のミニ水族館がおもしろかった。ムサシトミヨの実物を初めて見た。最初にその名前を知ったのはマンホールの蓋に書かれていたからで、女性の名前かと思った。小さくて青く透き通ったようなきれいな魚だ。

すっぽんも初めて見た。全体に亀そっくりだが、口の上に鼻の穴のようなものが上に長く伸びていて、珍しく目が釘付けになる。
 大きめの水槽にたくさんの魚が泳いでいて、こちらを向いている魚がいる。魚を横からではなく、正面から見るのは初めての経験だ。こちらが見ているのではなく、魚に見られているようでなんだか恥ずかしくなってくる。これまで水族館で同じような経験をしたことがないのはなぜなのか気になる。
 

2015年5月19日火曜日

県立久喜図書館

 初めて県立久喜図書館に行ってみた。
 「随筆銭形平次」(旺文社文庫)の作品年譜を見るのが目的だ。
 「銭形平次 青春篇」の後書きに、作品数を数えたら386あり、野村胡堂が383あると言っていたのより3多いと書いているのを読み、確認したかった。
 確かに3多く数え違いではない。最近出た短編集に作品一覧がついていたので、それと一つ一つ照らし合わせて見ると、漏れているのは、昭和23年の「愛情二筋道」(時代読物傑作集十月号)、昭和24年の「冠兵衛の倅」(大衆読物3月号)、「万事上首尾」(小説の華6月号)のようだ。
 これを図書館で読むのは無理のように思う。河出書房の全集にも載っていないようで、読者が読みたくても読めない状況になっていたので、作品数から落としたのでないかと推測する。
 ついでに、図書館の新着本と小説の棚を眺めて見た。よさそうな本がたくさんあるが、どうにも利用しづらい。その本の存在を知っていたら、市立図書館に頼んで取り寄せられるが、棚にある実物を見なければ、その存在すらわからない本はたくさんある。これは開架になく書庫に収められている本にも同じことが言える。
 兼ねてから読みたいと思っていた本を検索すると書庫に入っている本が多い。おもしろい本なのにすぐに世の中に忘れられてしまうのだなぁと思う。
 それにしても、芥川賞や直木賞は何なのだろうと最近思う。そもそも直木さん自身どういう小説を書いたのか知らないし、読んだこともない。
 それでも、後世の人に読まれる可能性は、今の流行作家より高いかもしれない。

2015年5月17日日曜日

秩父往還道

 テレビで秩父往還道を歩きとおすという番組の予告を見てかなり期待して見た。というのは、かねてから秩父の山の中を通って埼玉から山梨に歩いて抜けることが可能か疑問に思っていたからだ。地図を見ると現在ではトンネルを通る自動車道があることがわかるが、このトンネルは歩いて抜けられるようには見えず、登山上級者でない普通の人が歩けるような道路も見当たらないからだ。
 結果、番組ではトンネル内は通りかかった自動車に乗せてもらって通った。放送内の説明では、歩いて越す道はあるが、早朝出発しなければならず、雪がまだ残っていたので、この時の状況では歩いて越すことはやっぱり不可能だったようだ。
 自動車が通るようになったら、宿を利用する人もいなくなり、道も整備されなくなるだろうから、現在歩ける街道はなくなったと考えるしかないようだ。
 科学技術の進歩のせいで、逆に不便になることがあるとかねがね思っていた。
 道路の関係では高速道路の開通のせいで、高速道路と交差する道路が通り抜けられなくなったという点がある。
 見沼代用水東縁から埼玉スタジアムに自転車で行こうとして何度か試行錯誤してしまった。
 ラジオで5月17日に南部領辻獅子舞があると聞き見に行きたかったが、ばら祭りの吉武大地の歌の方を優先してしまった。ラジオで交通機関については、どこどこに問い合わせてくれということで説明がなかった。
 最近自分で近くの見沼自然公園に歩いて行った経験では、日光御成道沿いのバス停で大宮駅行きと東浦和駅行きの路線バスが利用できるのでこれを利用するのがいいように思った。
 ただ、インターネットを見ていたら埼玉高速鉄道を利用して来てくださいとあった。これは、東京方面から来る人を考えているのだろうか。浦和美園駅からもバス路線はあるようだが、歩こうとしたら、どこで高速を超すのか迷いそうだ。
 以前、庚申塔を探して歩いた時、なかなか場所が見つからず、南部領辻獅子舞が各家を回って歩く動画を見ていて場所がわかったことがあった。
 
 
 現在でも庚申塔の場所を知っていると、道を歩く時の目印として役にたつことがある。
 

与野公園バラ祭り

 例年通り吉武大地さんが歌うということで聞きに行った。
 そこで配られたコンサートのチラシを見て、この場所は見たことがあると思ったら、さいたま芸術劇場のガレリアだった。
 ただ、立っているだけなのにカッコイイ。立っている人間がかっこいいのか、来ているチョッキがかっこいいのか、場所がかっこいいのか、その比率の判断は難しい。
 ちなみにその場所を自分で写したことがあるので、それをアップする。
 
 奥に見える人影は無関係の人間で、チラシでは堂々と中央に立っている。
 
 
 


2015年5月11日月曜日

テープレコーダー

 久しぶりにテープレコーダーを使ってみようとしたら、壊れているのに気付いた。
 新しいレコーダーを買う気になれないので、持っているテープでCDで買いかえることができないものがないかチェックしてみた。
 ひとつだけCDを買えそうにないものがあった。ヤン・スギョンの「愛されてセレナーデ」だ。ドラマの主題歌が気にいって買ったものだ。ラジオでもテレビでもこの曲が流れているのを全く聞くことがない。
 試しにネットで検索したらたくさんヒットした。久しぶりに聞いた。ドラマはところどころしか見ていなかったので、今度はドラマの内容が気になった。
 本がないか調べたら市立図書館にちゃんとあったので借りてみることにした。
 どうして、テープレコーダーを使ってみる気になったかといえば、ミュージックフェアーの予告で郷ひろみが「よろしく哀愁」を歌うと聞いたので、録画して、その曲だけテープに録音してエンドレスで聞けるようにしようと思ったからだ。最初に発売した時の歌はCDで聞けるが、自分が聞きたいのは40代の郷ひろみが歌っている歌だ。以前テープに録音したが、暗い所で聞いたので間違えて録音のボタンを押してしまい、途中無音にしてしまった。
 こちらの方もネットで聞けるのではないかと思ったら、最初の発売時の歌以外もヒットした。探してみるものだ。
 水谷豊の「カリフォルニアコレクション」も好きで、若い時の歌と最近の歌と両方CDで持っている。どちらもそれぞれいいが、自分の好みとしては若い時の方が好きだ。
 死んだ人に会えないのは当たり前だが、生きていても若い時のその人にはやっぱり二度と会えない。自分は「同窓会には出ない派」だが、自分の会いたい人にはもう二度と会えないことを実感するのがいやなせいだ。

2015年5月5日火曜日

抽象的納税義務

 平成26年度の「重要判例解説」の租税法5の結末の「本件判決の上記判示は、抽象的納税義務が成立していない納税義務者に対して遡及的に具体的納税義務を確定させる結果を導くものであり、現行実定租税法規の解釈として、上記租税法学の通説的理解と相容れるものではないことから、首肯することができない。」という解説を読んで、頭を傾げてしまった。
 確かにカッコ書きの理屈はその通りだと思うが、このケースは、賦課期日の時点において抽象的納税義務があるように思えたので、こういう判決の理解でよいのかと思った。
 解説を読むと最高裁の理屈に反対しているだけか、結論にも反対しているのかよくわからない。
 このケースは、平成21年12月7日に新築し、所有権を取得した家屋に対して、平成22年12月1日付で固定資産税が課税されたというものだ。固定資産税の賦課期日(1月1日)の時点で、新築家屋の所有者が登記されておらず、家屋補充課税台帳にも登録されていなかったことが問題となった。
 解説者は、最高裁が、賦課期日に登記登録されていなければ、抽象的納税義務が生じないと判示したと解釈したようだ。そう思って読むと確かにそう書いているようにみえる。
 でも、普通の人なら、賦課期日に家屋を所有していたら抽象的納税義務はあると考えるのではないだろうか。
 たまたま、市の把握が遅れ、もう今年は課税されないだろうと思うころに納税通知書がきたので「なんだ?!」となっただけで、通常の課税時期に納税通知書が出された分で、1月1日の時点で登記登録されていなかった家屋はたくさんあり、それが問題にもされていなかったと思う。
 年末ぎりぎりに完成したら、登記がその年中にできないのは普通だし、役所が年末の休みに入って完成したら1月1日に役所に登庁して台帳に登録することなど考えられない。
 理屈の上では、定期課税の時期に課税しようが、それに遅れて課税しようが同じ話のはずだ。
 このケースは結論は明らかで、どう理屈づけるかの問題だと思うが、その点で、高裁の裁判官が課税を取り消したのは、何を考えていたのか理解できない。
 おかしな高裁判決が先にあったので、最高裁の理屈も変な方に向いたのではないかと思う。最高裁の結論部分だけを読むと当然のことが明瞭に書かれている。
 

 後でジュリスト5月号を読み、同じ判決について書かれていることに気づいた。
 そこでは、課税できない場合の実務上の問題点と結論の弊害が書かれ、最高裁が従来からの課税実務を支持していると締めくくっている。
 結局、法律の作り方がまずいので、理屈で考えるとおかしな結論になるということだろう。
 破産宣告を受けて破産手続き中に発生する法人道民税の均等割についてもすっきりしない問題があった(会社法の制定で事情がかわったようだ)。これは、法律が破産手続き中の会社について何も手当していないせいだと思っていた。
 法人税や所得税の国税の方は、詳しく定めすぎて法律を読んだだけでは内容がよくわからず、地方税の方は定めが簡単でわかりやすいが、法律で対応できない場合が多々発生するという印象だ。
 このように国税の法律は玄人がつくり地方税は素人がつくっているような印象になるのは、国税の方は扱っている行政庁の担当者が税のプロなのに、地方税の方は、地方はともかく国の方の担当は税の担当者ではなく地方行政の担当者だからではないかと、勝手に考えている。これこそ素人の勘違いかもしれないが。
 縦割りの弊害というが、地方税については、この縦の線がすっきり一本になっていない方が問題だ。
 市町村が国法の内容について疑問がある場合は、都道府県の担当者を介して国の担当者に質問することになるが、その時の都道府県の担当者は都道府県の税を担当している人ではなく市町村行政を担当している人になる。仮に都道府県の税の担当者に話をするとしても市町村と都道府県で課税する税目は一致しないので、話を聞ける人がいないことになる。
 市町村と都道府県の税の関係者で同じことを自分の担当として実務をしているのは、国税徴収法に関係することや、課税関係では固定資産税及び不動産取得税の新築家屋の評価や法人の均等割についてなど一部の点だけになる。
 法律を実際に適用しておこる問題を解決するのに役立つように作っていくには、法律を作る人が実務を知っていなければならないが、自ら実務を経験せず、実務を担当している人の声が充分に届かない仕組みのもとで作っているのなら、充分な法律をつくるのは難しいと思う。

2015年4月29日水曜日

気づいたこと

 いつもの散歩コースと違うところを歩いてみた。
 普通の一軒家の玄関前にゴミが山と積まれていた。ゴミ袋のようなビニール袋、プラスチック衣装ケース、自転車が無秩序に積まれているので、ゴミと判断した。テレビでよく見かけるゴミ屋敷のようだ。ただ、住宅が新しく、空家の荷物を出して片付ける途中のようにも見える。
 家の前に引っ越し用のトラックが止まっていて、ゴミを運び出すところかと思ったら、別の方向から普通の引っ越し用の段ボールを持ってきて積んでいる。たまたま駐車していただけのようだ。
 少し離れたところにある個人商店の前に店主らしい初老の男性が道に立って眺めている。
 ようやっと、ゴミが片付けられると思って、見ているのだろうか。事情がわからず「もやもや」する。
 与野駅東口から伸びている昔からの商店がところどころ残っている道路なので、「さまぁーず」にぶらぶら歩いてもらってかわりに聞いて欲しい。
 与野駅西口の交差点のところで、歩道上に「シェア畑」の広告を見つけた。工事中の場所によく見かけるプラスチックの円錐形のものに、クリアケースに挟んだチラシをてっぺんにかぶせ、チラシを入れた透明の箱を横腹に付けている。
 三週間ぐらい前に近所のゴミ集積所に出現したのと同じものだ。よく見ると、設置期限らしく5/11と書かれている。
 近所のゴミ集積所に置かれたものは、ゴミとして回収されることもなく、だれがどういうつもりで置いたのか不思議に思っていた。
 帰ってきて改めて見ると「4/29」と書かれている。今日だ。明日撤去されているのだろうか。わざわざここに置いたのか、誰かが勝手に動かしたのか気になる。
 それにしても、ゴミ収集の人は、これがゴミとして出されたものではないことが、すぐにわかったのか、よくわかったなぁと思う。
 

2015年4月17日金曜日

布ぞうり

 新都心のけやき広場でおやつを食べてから帰ろうとして、「布ぞうり」を売っているのを見かけた。「2500円」の値がついているのを見て、母親になんだか申し訳ないような気がした。
 というのは、以前母親からわらじの作り方を教えてもらったので、そのやり方で端切れを使ってつくったからと、半強制的にもらったものと同じようなものだったからだ。
 どういうふうに使ったらいいのかよくわからず、少しもてあましていたので、2500円も値がつくような物をもらっていながら、軽んじていて申し訳ない。
 これで外を歩いたら変な目で見られないかとためらっていたが、同じような物が売られているのを見たので、安心して履いて歩けそうだ。

2015年4月14日火曜日

耳袋秘帖

 江戸時代を舞台にした捕物帖が意外に面白く、半七、銭形平次の次に耳袋秘帖を読むことにした。
 こちらは、岡っ引きが主人公ではなく、実在の人物の南町奉行の根岸肥前守が主人公で、二人の若い武士を手足に動かしている。
 三人チームが魅力かと思ったら、シリーズを読んでいるうちに元老中の松平定信の人物の方が面白くなってきた。
 逆に、シリーズ十段くらいからつまらなくなってきた傾向もある。最近のストーカー、いじめ、ブラック企業を思わせるような出来事がはいってきた点だ。
 同じ人間だから江戸時代にも似たようなことは、あったかもしれない。とはいえ、現実世界のニュースでいやな気持になるだけでもたくさんなのに、楽しみで読む小説でも同じようにいやな気持にさせられるのは勘弁と思う。

ふなっしーの正体

 エレベーターに乗っていたら、乗り合わせた男性が連れの女性に「月光仮面の歌知ってる?」と突然聞いた。
 返事がないので、自分で思いだして言っている。「どこのだれかは知らないけれど」次が「だれもがみんな知っている」「どっちなんだ。と思って、あれは不思議だったな。」と一人で言っている。
 自分も子供のころは、好きでよく歌っていたが、なんの疑問も感じていなかった。改めて歌詞を思い出してみた。
 歌詞の続きは「月光仮面のおじさんは正義の味方だ。よい人だ。はやてのように現れて、はやてのように去っていく」だ。
 つまり月光仮面は知っているが、その正体は知らないということだ。今でいえば、ふなっしーは知っているが、着ぐるみの中に入っている人のことは知らないようなものだ。それとも、もう知れていて自分が知らないだけなのか。
 試しに検索して見た。それでいうと知られていない設定になっているのは確かなようだが、つきとめたと思っている人はいた。

2015年4月10日金曜日

粛々と

 買いたい本があり、ネットで見ると4月10日発売とあったので、買いに行った。
 国道17号線沿いの埼京線北与野駅隣の書楽に行くと、売り場の3階が閉鎖されて1階と2階だけになっていた。去年発売の本はあったが今年発売の本がなかった。新都心のコクーン内にある紀伊国屋に行くことにした。
 浦和の県立図書館も閉鎖され、人文関係の専門的な本は、また距離が遠くなったが、仕方がない粛々と新都心に行くだけだ。と思ったところで、「粛々と」なんて普段使わない言葉がつい思い浮かんだのは、最近ニュースで「粛々と進める」という言い方を「上から目線」と言うのを聞いて、「意味がわからない、この言い方がどうして上から目線なのか?」と疑問に感じたせいだと気付いた。
 そこで、自分が「粛々と」と言う言葉を使った心境を考えてみた。
 これは、余計なことを考えて文句を言ったり不平を言ったりせずに、淡々とすることをする、とでもいったつもりで使っていた。ここから、「粛々と進める」とは、作業を止めて話し合ったりせず、また、周囲の苦情を聞いてそれにとらわれたりせずに、自分だけでどんどん進めますよ、という意味になると気付いた。
 弱い立場の人間が使えば、むしろ忍従的態度なのに、立場が強い人間が使えば、「上から目線」ないい方になりそうだ。
 問題の本は紀伊国屋に行ってもなかった。家に帰ってから気づいたが、今日が11日のつもりでいたが、10日だった。扱いを止めたのではなく入荷前だったのだろう。
 とはいえ、午前中とはいえ発売日当日に買えないのは、やっぱり東京に近いとはいえ、さいたま市は田舎なのだろうかと思う。
 

2015年4月3日金曜日

八五郎のおばさん

 銭形平次の子分の八五郎は、おばさんの住む長屋の二階に居候をしている。このおばさんは、八五郎の母親の姉か妹のようだが、「叔母さん」となっている話と「伯母さん」となっている話があり、母親の姉なのか妹なのかはっきりしない。
 ハリー・ポッターもおばさんの家にいたが、訳が「伯母さん」になっている話と「叔母さん」になっている話がある。
 ハリー・ポッターの場合は、どっちが姉で妹かによって違いが出てくるのは、二人の子供の時の話が出てくる第六巻の「謎のプリンス」からだ。英語の原文だと第六巻までどっちかに決める必要がないのに、日本語だと第一巻からどっちかに決めざるを得ないので、途中から設定変更になったのは、原作者と翻訳者の責任ともいえないだろう。
 八五郎の場合は、最初に「叔母さん」だったのが、最後の方で「伯母さん」に変わったように思うが、書かれた順に全部読んでいないので、いつから変わったのか、一度だけ変わったのかよくわからない。
 河出書房の全集第21巻に載っている「八五郎売り出す」が八五郎が25歳で平次の子分になった時の話だと知ったので、もしかしたらここで設定が変わるような出来事でも出てくるのか気になった。
 長く読んでいると平次よりもむしろ八五郎ファンになってくる。八五郎のことがもっと知りたくなり、都立多摩図書館に読みに行った。
 結果、「伯母さん」でも「叔母さん」でもどっちでも話に影響しないように思った。こっちの「おばさん」問題は未解決だ。

2015年3月26日木曜日

マンションの塀

 近くで用を足して帰る途中に、最近完成したマンションの塀がかなり風変わりなのに気付いた。
 遠くで見たときは絵を描いているように見えたのが、近くで見ると生の植物だった。
 塀の格子の間にプラスチックのポットをはめて、そのポットの中に植物を植えているようだ。裏側を見ていないが、奥行きがほとんどないようなので、植物が成長したら、この土の量で大丈夫なのかと思う。塀に蔦が張っている場合を考えると、そんなにたくさんの土は必要ないのかもしれない。
 今は、まだ葉が他の植物と重なるほど伸びていないが、植物が成長したらどうなるのか、見るのが楽しみだ。

 

2015年3月19日木曜日

銭形平次(短編3)

 未読の短編は次のとおり。
潮出版第一巻
 死骸の花嫁(河出書房全集10巻にあり)
同二巻
 橋の上の女(26巻)
 笛吹兵二郎(24巻)
 橋場の人魚(21巻)
 お六の役目(21巻)
 一と目千両(11巻)
 棟梁の娘(8巻)
 髷切り(9巻)
中公文庫(随筆あり)
 鉄砲の音(26巻)
光文社文庫
 小便組貞女(10巻)
 尼が紅(9巻)
PHP文庫
 遠めがねの殿様(11巻)
文春文庫三巻
 荒神箒(8巻)
 二つの刺青(8巻)
 死の秘薬(21巻)
 八五郎子守唄(21巻)

2015年3月18日水曜日

銭形平次(短編2)

 傑作選がいくつか出ているが、最近では文春文庫から3冊出ている。2014年の5月、6月、7月。昨年、ルパン三世の実写映画がつくられたのと何か関係があるのだろうか。銭形警部から銭形平次を知る人もいるのだろう。
 一巻二巻の収録小説は、嶋中文庫で読めるが、最後に随筆が載っていて注解、後書がついている。
 三巻には河出書房の全集7巻から二作、8巻から二作、10巻から一作(光文社の傑作選にもあり)、18巻から一作(潮出版社の傑作選にもあり)、21巻から二作の短編が収録されている。その他、随筆と注解、銭形平次作品一覧、著者略歴、解説もある。
 さいたま市図書館で借りられる傑作選、光文社文庫一冊、中公文庫一冊、PHP文庫一冊、潮出版社三冊で打ち止めにしようと思ったが、青樹社から出ている新100選その1からその10の10冊が気になった。発行年が作者が亡くなった後なので、全作品から選んでいるのなら、まだ読んでいない作品が読める。
 試しに最後のその10を借りて見た。河出書房全集の20巻から二作、21巻から三作、七巻から5作収録されている。広済堂出版と同じ手法だ。昭和40年代の出版界のはやりなのだろうか。読む方からすると書いた順に読みたい。
 青樹社の残りの巻も全部借りて確かめてみると、嶋中文庫とダブっているのは「その9」に二編(河出書房7巻)、「その10」に5編だけだった。
 文春文庫傑作選3の『胡堂百話』よりを読むと百話を出すために追加で13編書き下ろしたとある。嶋中文庫は150編ある。嶋中文庫の10巻までが、その百話を元にしているので、青樹社は既に出された百話とダブってはいないことになる。

2015年3月15日日曜日

銭形平次(短編)

 嶋中文庫15冊を読むと河出書房の全集の1巻から7巻までを読んだことになる。全集の12、15、16、17、19巻は埼玉県立図書館所蔵の本で読んだので、他の本でまだ読んでいない短編が載っている本を探してみた。
 市立図書館で毎日新聞社から出ている二冊を見つけた。少し長めの短編10編が載っている。これは、全集13、14巻に載っているので、まだ読んでいないことになる。ただ、この二冊で13、14巻をすべてカバーできないのは、残念だ。
 市立図書館に、広済堂出版の「天の巻」、「人の巻」の二冊があった。県立図書館に「地の巻」があることになっているので、借りて見たら実物は「濡れた千両箱」となっていて、中身を確かめると全篇「天の巻」に載っていて、「天の巻」には更に二編追加されている。「人の巻」には、全集の17巻中の11編、3巻中の14編が載っており、全部読んだ短編だった。
 広済堂出版の本には目次がないので自分で作った。末尾に登載されている全集の巻数を入れた。
「天の巻」
3p 血塗られた祝言 17
30p 美しき人質 18
(2巻に登載されている5編)
153p 妾の貞操 11
169p 嘆きの幽沢 11
185p 心中崩れ 11
204p 鐘の音 11
222p 猿蟹合戦 11
254p 三つの菓子 11
(17巻に登載されている3編)
323p 井戸端の逢引 18
339p 花見の留守 18
355p 匕首の行方 18*
372p 影法師 18
400p 聴虫の宴 18*
ということで、まだ読んでいない短編が12編読める。*印は「濡れた千両箱」には載っていないが、それ以外は同じ。

2015年3月14日土曜日

銭形平次(長編)

  埼玉県立図書館にある河出書房の全集は、3、5、12、15、16、17、19巻で、その中に載っている長編が、12巻「怪盗系図」、「お部屋様お退屈」、15巻「地獄の門」、16巻「娘変相図」、19巻「幽霊大名」。
 県立図書館には、桃源社のポピュラー・ブックスの「怪盗系図」と「江戸の恋人達」の二冊あり、「江戸の恋人達」(全集13巻)には「小判地獄」(全集22巻)も載っている。
 さいたま市立図書館に講談社「現代長編小説全集26」があり、このなかには「幽霊大名」、「鬼女」(全集20巻)、「小判地獄」(全集22巻)、「お転婆娘」(全集23巻)、「べら棒御曹司」(全集22巻)が載っている。
 手軽に読める長編は全部で10編になる。
 その後、青樹社の100選が嶋中文庫の100選と内容に違いがあるのがわかり、確かめてみると「その1」に「闇に飛ぶ箭」、「その6」に「青い眉」、「有徳人殺害」が載っていることがわかった。
 潮出版の傑作選1の後書きによると、長篇20篇、中篇30篇書かれたらしい。
 

2015年3月9日月曜日

銭形平次捕物控

 嶋中文庫で『銭形平次捕物控』を読んだ。15冊あるが、全部短編だ。長編も読んでみたくなり、河出書房の『銭形平次捕物全集』を借りた。埼玉県立図書館にあるが、残念ながら全巻揃っていない。15巻の『地獄の門』、16巻の『娘変相図』が面白かった。特に『娘変相図』がよかった。
 ただ、これは、銭形平次と八五郎をよく知った上で読んだほうがいいだろう。最後のところで、大川で八五郎がおぼれ死んだのではないかと心配した平次が涙を流すところは、思わず胸が熱くなる。
 八五郎の人間のよさと、平次と八五郎のよいコンビぶりがでている一作だ。

2015年2月24日火曜日

与野公園(水仙)

 スイセンの絵を描こうと思い、与野公園に行ってみた。思っていたとおりいい感じだった。
 薔薇園の方は、やけに見通しがよく、こざっぱりとしていると思ったら、全部茎というのか幹というのかわからないが、地面から四、五十センチのところで短く切られていた。
 

2015年2月20日金曜日

安井算哲と関孝和

 鳴海風『算聖伝―関孝和の生涯』、関孝和の伝記かと思ったが、かなりの部分が、作者の創作のようだ。
 『天地明察』は、新しい暦を作った安井算哲を主人公とした小説だが、『算聖伝―関孝和の生涯』と付き合わせて見ると、この小説の中の主人公と関孝和についての記述は、これまたほとんど作者の創作のようだ。
 『算聖伝―関孝和の生涯』で二人が直接会うのは一度だけで、この時孝和はまだ関家に養子に入る前だ。孝和の方は子供のころから算哲のうわさを聞いており、ずっと前から会って暦学について教えを請いたいと思っており、せっかく会えたのに、算哲の方は、浅学の者など相手にしない態度だ。実際に会っていたとしても、算哲の方では記憶にも残らなかっただろう。後日、算哲の方から新暦づくりのために関孝和に数学の面で協力を求めているが、断られている。
 『天地明察』の方では、算哲が「関」という人間のことを知り、しきりに会いたがったが、実際に直接会うのは、新暦づくりに失敗した後で、このとき数学の資料を受け取り暦作りに役立てている。
 どちらの出会いも関孝和の協力も正式のものではないので、両者に面識があったことと、関孝和の協力があったことの証拠はないが、なかったことを証明することもできないだろう。
 公文書に残らないことは、当人が書いた手紙や日記などでも残されていないと後世の人には、わかりようもない。
 それでいくと、今生きている人間の一生を後世の人が知ろうとした場合、どうなるのだろうと思う。メールもブログも紙として残らないと何か頼りない気がしてくる。
 
 

2015年2月12日木曜日

解き方

 問題は高さ9、底辺12の直角三角形の中に同じ長さの直径の円を二つ重ねずに三角形の辺に接するようにして入れたときの円の直径を求めるというものだ。

 円の中心点と円と辺の接点を結ぶ。三角形の斜辺の鈍角から鋭角まで三つに分割された長さをA、2X(円の半径をXとする)、Bとする。
 三角形の鈍角、鋭角と円の中心点を結ぶ線は、それぞれ角を二分割することがわかる。
 XとA、Bの比率を求めA+2X+B=15を未知数Xのみの式にする。

 鈍角を二分割する線を底辺まで伸ばし、直角点から交点までをYとする。交点から斜辺に垂直に交わるよう線を引く。3つの三角形の面積の和が全体の三角形の和に等しいので、9Y+6Y/2=9×12/2の式によりYが9/2になる。これからAとXの比率は9対9/2となりAは2Xになる。

 同様に鋭角を二分する線を縦線まで伸ばし、直角点から交点までをYとする。交点から斜辺に垂直に交わるよう線を引く。3つの三角形の面積の和が全体の三角形の和に等しいので、12Y+3Y/2=9×12/2の式によりYが4になる。これからBとXの比率は12対4となりBは3Xになる。

 上のA+2X+B=15は、7X=15となり、円の直径2Xが30/7になる。
 以上の計算を一度にやると小説に書かれている式になるかは、確かめていない。
 三角形の問題を数多くやっていたので、高さと底辺の比率が3対4の三角形の鈍角と鋭角を二等分にする三角形の高さと底辺の比率がそれぞれ1対2と1対3であることが瞬時にわかったなら、次の段階の15かける7(2足す2足す3)分の2は、即座にでてくるので、問題を見てすぐ解答できたとしてもおかしくはない。
 高さ9、底辺12の直角三角形の斜辺が15はすぐでてくる。3、4、5にせずに9、12、15にしたのは無駄に計算を繁雑にしていて洗練されていない問題のようにも感じる。7分の2は比率なので、高さと底辺の長さの比率が同じ三角形なら、この数値は変わらない。最後に斜辺の長さをかけるだけだ。3、4、5の三角形で計算すると5かける7分の2で7分の10になる。
 「10!?」、主人公が最初に間違って10と出したのは、分母の7を落として、最後に3倍するのを忘れたからかと思う。
 
 

江戸切絵図

 「半七捕物帳」の解説に、作者が江戸切絵図を眺めていたと書かれていたので、江戸切絵図に興味を持った。
 人文社から出されている「新・江戸切絵図」を読むと、解説文中にその地がでてくる小説が紹介されていた。
 その小説の中から、面白そうなのを選んで読むことにした。
 「円周率を計算した男」、「日暮らし」、「天地明察」、「恵比寿屋喜兵衛手控え」、「耳袋秘帖 赤鬼奉行根岸肥前」、「北風の軍師たち」だ。
 「天地明察」は新しい暦を作る話だが、最初の方に数学の問題が出てくる(角川文庫上巻24頁)。答えも示されるが、解法の詳しい説明はない(同113頁)。
 文中の式の意味はわからないので、自分の方法で考えて見る。結局3日目でようやっとわかった。わかって見ると実に簡単だ。
 問題は高さ9、底辺12の直角三角形の中に同じ長さの直径の円を二つ重ねずに三角形の辺に接するようにして入れたときの円の直径を求めるというものだ。答えは7分の30。
 

2015年2月10日火曜日

別所沼公園(噴水)

 2015年2月10日、約2カ月ぶりに別所沼公園に行った。
 変わったことなど起きていないだろうと思ったら、びっくり。
 噴水が二つになっていた。以前の場所と同じかどうかはわからない。
 それから、何か作業をしていると思ったら、地質調査中という表示板があった。目的は書かれていないのでわからない。
 2月17日、古い案内板を見ると、以前は接近して北側に設置されていたようで、現在は、南側に設置されているので、場所を変えたようだ。

 
 

2015年2月2日月曜日

ゴミ収集

 最近、資源ごみの紙類が一日に二回回収されていることに気づいた。
 散歩に出た時に収集場所を見たら早朝に出した自分のゴミは収集済みで、他人が出した古新聞が残っていた。帰ってきたときには、古新聞は消えていた。
 市が委託した業者が二回回っているのか、委託されていない業者が早朝持って行ったのか、どちらかわからない。
 お菓子の缶を資源ごみの日に出したら、回収されなかった。缶の表面に何か塗られていてリサイクルに向かなかったのだろうと思う。次の不燃ゴミの日に回収されるだろうと思ったら、回収日が来る前に消えていた。
 缶の蓋の模様が白地に雪の結晶が書かれたもので、通りがかりの人が物入れに使おうと思って持っていったのだろうと思う。
 小学校入学時に買ってもらった学習机をとうとう捨てることにした。表面に天然木の薄い板が張ってある。その板が一部取れかかってきたので、決心がついた。
 捨てる決心がついた途端雪が降ってきた。収集日の朝まで待っていると、雪が凍って重いものを運ぶのが危険になりそうなので、収集日前に出してしまった。
 金曜日の午後に出したら、日曜日の午前に消えていた。リサイクル業者が持って行ったのか、通りがかりの人が持っていったのかはわからない。
 どこでどういう第二の人生を送っているのか是非知りたいものだ。

2015年1月29日木曜日

現代っ子

 つらつら物思いにふけっていたら、「現代っ子」と言う言葉が出てきて、「最近全然聞かないな」と思った。
 自分が良く聞いたのは、小学生の頃で、戦前の教育を受けた大人が戦後の教育を受けた子供たちに使っていたという記憶だ。
 このころの「現代っ子」のイメージと最近テレビドラマでよく見る問題を抱えた子供のイメージとは、かなりかけ離れている。
 もっと完全に死語になっているのが「新人類」だ。職場で共通一次世代が新人として入社してきた頃、その新人をこう読んだ。何年かしたらもはや「新人類」を超える理解不能さで「宇宙人」だ、と言われるようになったと思ったら、すぐに廃れた。
 最近よく聞くのが「ゆとり世代」だ。ゆとり教育の内容もよくわからず、どういう特徴がある世代なのかもよくわからない。
 ただ、円周率を以前は3.14で教えていたのが、今は3と教えているというのを聞いておどろいた記憶がある。
 最近ドラマで、理系女子がお見合い相手の教師が「円周率を3.14で教えるか、3で教えるか悩んでいた」というのを聞いて、「円周率はπだ」と一刀両断で返答したのを聞き、思わず噴き出した。
 もちろん、その教師が円周率はπであることを知った上で、「より正しい数値」に近い3.14で教えるか、どうせ近似値なら、無駄に労力を多くさせることなく3で教えるか悩んでいたのだろう。
 その教師が「正しい数値」の3.14で教えるか近似値の3で教えるかで悩んでいるように話したのだとしたら、確かに数学的センスに欠けていたかもしれない。
 このエピソードで、自分が子供のころ、円周率が正しくは3.14ではなく、その後も割り切れない数値がずっと続くことを知った時に、軽いショックを感じたことを思い出した。
 ほかにも年齢の低さからくる理解度に合わせて少し内容を変えて教えられ、後日間違ったことを教えられたのだと知った経験がある。
 個人的には子供にその理解に合わせてよいことをしたつもりで間違えたことを教えることには反対だ。

2015年1月28日水曜日

浦和税務署

 さいたま市役所・浦和区役所の向かい側にあった浦和税務署が閉鎖され、さいたま新都心に移転された。
 所得税の申告書の郵送封筒を見ると住所が合同庁舎1号館になっていて地図を見ると通路に沿って明治安田生命ビルと隣あっている。当然高層ビルの中にはいっているのだろうと思い、申告書の提出に行って驚いた。通路を挟んだ向かい側の四角錐(ピラミッド型)の建物の内側にシートが張られて上の方に浦和税務署の文字が見える。以前は壁が全面透き通って展示などがされていたところだ。入口は階段を降りて月の広場にあった。(もう少し通路の先に行くとエレベーターがあることに後で気づいた)
 仮庁舎かと思って聞いてみたら、この場所に本決まりで、もとの税務署跡地の利用は未定だそうだ。
 県立浦和図書館は、今年の三月末に閉鎖されるしで、浦和地区は大丈夫なのかと思う。
 浦和税務署が入居する前の建物の様子

 
 

2015年1月25日日曜日

糸のこ

 約30年くらい前に、工作用に糸のこを買い、昨年末、初めて使用した。
 ベットを捨てることにしたが、90センチ以上になると粗大ゴミになり、市に電話してコンビニでシールを買い、収集日に自分で外にださなければならない。
 めんどうなので自分で90センチ未満に切って燃えるごみの日に出すことにした。組み立て式のベットなので、まずバラバラにして木の部分は普通のノコギリを使用した。ところが、マットがたわしみたいな材質の物が鳥の巣のようにしっかりと絡み合っていて、普通のノコギリだと抵抗が大きくて中まで入っていかない。そこで、糸のこを使ってみた。うまくいき無事捨てることができた。
 片付けたり整理整頓をするのが大好きなので、テレビで物を片付けることが問題になっていると興味深く見ている。
 その方法論で気になるのは、何年使わない物はこれからも使わないから捨てるようにというものだ。これはどうなのか?どうしてこれからも全体使わないと言い切れるのか。
 むしろ、捨てた途端使い道ができて後悔することが多いように思う。
 必要な時にまた買えるもので、今いらないものは捨てなさい。という方法論もある。こっちの方が参考になるように思う。
 ただ、必要な物だけを持っているわけではない。小学校の時の文集など気恥ずかしくて一度も読んだことがなく、これからも絶対読むことがないと思うが、捨てようと思ったことはなく、これからも捨てないだろうと思う。
 こういう、必要ないけれど、自分の歴史となるようなものはたくさんあり、取っておくものと捨てるものの基準が難しい。他の人はどうしているのだろうかと思う。

2015年1月23日金曜日

意外に気づかない

 身内のふりをしてお金をだまし取る詐欺の報道がこれだけされているのに、いまだに詐欺と気づかずにだまされる人がいるのが不思議だった。
 最近、報道で詐欺の手口を知っていても、結構自分が今その詐欺にあいそうになっていることに気づかないものだと思うできごとがあった。
 有名な都市銀行からメールがあり、それを読むと顧客情報の流出があり、現在ネットの使用をできないようにしたので、改めて登録しなおしてほしいという依頼だった。ネットの使用はしていないし、これを機会に自分の情報が無効になるほうが都合がよさそうだったので、何もしなかった。
 丁度その頃有名企業の情報流出ニュースでにぎわっていたので、この件もニュースになっているかと思い、ネットニュースを見たが出ていなかった。
 しばらくしても、その情報流出が話題にならないので、その銀行のHPで確かめてみた。そうしたら、詐欺メールの注意が出ていて、文面が自分が受け取ったのと全く同じで、ここで、ようやっと自分の受け取ったメールが、最近ニュースになっている本人が気づかずに口座のお金を盗まれるという詐欺の手段だと気付いた。
 銀行のHPを見ると、メール連絡を断っている顧客にも注意喚起のメールを出しているとあるが、自分のところにはメールが来ていないと思い、更に重要なことに気づいた。
 そもそも自分は、その銀行に口座を持っていなかった。持っているのはその銀行の系列のクレジットカードだった。
 どれだけ、うかつなのかと思う。

2015年1月22日木曜日

捕物(2)

 ポワロが真犯人を見逃すのは、「オリエント急行の殺人」だけだったように思う。ほとんどの事件の犯行動機が遺産(金銭)目的で、見逃す事情が全然ないからだろう。
 クリスティが書くものは、最後に意外な犯人と犯行トリックで読者を驚かせるのが特徴になっている。
 推理小説というものは、そういうものと思っていたが、ホームズを改めて読んでみると、最後の結末に驚かされる作品は数少ない。一番びっくりさせられたのは長編の「恐怖の谷」だった。この作品は二部に分かれているが、前半の部分は、特に意外でもなく、驚かされたのは後半の部分だ。
 ホームズの場合は、作者がことさら変わったトリックを考えだしたり、意外な犯人で最後にびっくりさせようとは思っていないようだ。探偵が調査を進めていくにつれて、探偵にも読者にも真相が徐々に明らかになるのがほとんどだ。
 日本で最初に書かれた捕物は「半七捕物帳」で、探索を進めるうちに徐々に真相が明らかになり、特に意外な犯人や変わったトリックで読者をびっくりさせようとはしていないのは、ホームズに似ているように思う。
 ホームズは、真相を世間に明らかにしないことがある。私人なので、内密にことを済ますことができるが、事件の発生が公になり警察沙汰になると隠しておくことはできないとも言っている。
 半七も事が表ざたになっていない場合に、見逃している場合がある。見逃す理由は、江戸時代の刑罰が重すぎて、この程度の事で何人もの命を奪うことはないだろうと思ってのことだ。
 「半七捕物帳」は、最後に関係者がどういう処罰を受けたかが書かれている。重い処罰ばかりだが、だいたいがやったことや生かしておくと将来的にやりそうなことに見合っている。
 ただ、江戸時代の刑罰は重いばかりと思っていたが、遠島になってもすぐに許されて戻ってきたり、江戸を離れればよいだけだったり、逃亡したらたいていそれっきりになるので、現在より重い一方ではないようだ。
 書かれた時代が半七よりも少し新しいのが「銭形平次捕物控」だが、平次は犯人を見逃すことが多い。それから、毎回、銭を投げているわけではない。犯人が見逃されるような事件では、たいてい銭は飛ばない。

2015年1月21日水曜日

オリエント急行の殺人

 テレビドラマで「オリエント急行殺人事件」を見た。その中で探偵は12人の殺人者を12人の陪審員にみたてている。ドラマでは誘拐事件の犯人は証拠不十分で無罪になったとされている。仮に陪審員に裁かれたならば有罪になったはずだということだろうか(裁判官のみで裁く制度に対する批判か?)。日本なら裁判で12人の陪審員に裁かせるのは法制度上無理だが、原作なら、陪審員に裁かせることは可能だし、ドラマ第一夜は原作どおりのはずなので、不思議に思った。
 相当前に原作(日本語訳なので厳密にいうと、これも原作どおりとは限らない)を読んだので、細かいことを覚えていないので、本を取り出して拾い読みした。
 創元推理文庫で99頁に「~やつは、ため込んでおいた莫大な金を使い、また、いろいろな人物の秘密を握っていたりしたもんで、証拠不十分として釈放されてしまった。しかし、民衆は承知しなかった。あわや捕えられて、リンチにされるところだった~」とある。
 つまり、警察に逮捕されたが、裁判にかけるだけの証拠がないとして釈放されたということだ。誘拐犯は新聞までは買収できなかったようだ。そうでなければ、どうやって世間の人間が真犯人について確信を持てたのかがよくわからない。ドラマはどうして原作どおりにしなかったのか?警察あるいは検察が腐敗していると言いたくなかったのか?それとも「無罪放免」は厳密に法律的な意味で使ったのではなく、単に罪を問われることなく釈放されたという日常用語的な意味だったのだろうか?普段新聞やテレビの報道でも正しい法律用語が使用されていないので、意味がよくわからないことがある。日本でリンチにされそうになることが、ありえなさそうに思ったのか?現在ならそういう感覚だが、当時の日本なら充分ありそうに思う。
 それから、309頁でポワロはこう言っている。「~私は、十二人の陪審員が、彼の死刑を評決し、また、事態が緊急を要するので、みずから死刑執行人の役を買って出た~」
 ただ、317頁で殺人者(アメリカ人)は「~社会は彼に死刑を宣告しました。私どもはただその判決を執行しただけなのです。」と言っている。
 ポワロよりも殺人者の方が陪審裁判を尊重しているように思う。
 別の殺人者(イギリス人)は、158頁でポワロに「あなたは、個人的な復讐より、法律に従うほうがよいとお考えなんですな?」と聞かれたのにたいして、「そうですね。あなただって、コルシカ人やマフィア人のように、おたがいに血を流したり刺したりして争うのはおいやでしょう。つまり、陪審裁判がいちばん健全なシステムでしょうな」と言っている。
 陪審裁判の本質が被害者が個人的に判断するのではなく、複数の一般の国民に判断を委ねるということなら、ポワロが言うように被害者が裁くのではなく、殺人者の言う民衆の裁きに基づき執行しただけという考えの方が陪審裁判を尊重しているように思う。そういえば、ポワロはベルギー人で大陸法系の人間だった。
 テレビドラマ第二夜は、ところどころしか見ていないが、殺人者の一人が標的が本当に誘拐犯だったのかどうかを、誘拐被害者の屋敷の様子を知らないと言っていたのに、よく知っていることを示す言葉だけで、決めつけるところがあった。でも、この判断には疑問を感じる。自分が疑われていると思ったら、行ったことがあっても行かないというのは自然な事だ。
 それから、殺人計画をゲームを遂行するように楽しんでやっている様子についていけなかった。脚本家は、喜劇に向いているが、この内容は喜劇には向かないように思う。殺人事件の犯人当てはゲーム感覚で楽しめるが、殺人計画の実行はゲーム感覚では楽しめない。犯行計画の実行をゲーム感覚で楽しめるのは、詐欺とか窃盗とかを人を殺傷しないで実行する場合ぐらいのように思う。
 二日通して見通しておもしろかった人はどのくらいいるのだろうか。 

2015年1月20日火曜日

靴下

 長袖のカーディガンをほどいて靴下を編んだ。
 編み直してみると、思ったよりも糸が傷んで細くなっている。全部で5足編めたが、糸が細くて足が透けて見えるので2枚重ねにして家の中で履いていたら、すぐに踵の所が破けてしまった。
 破けたのは捨てていったが、最後に一枚残ったのはどうしたものかと思う。
 そう思ったら、最近読んだ「まほろ駅前狂想曲」に出てきた不思議な出来事に少し説明がついた。
 主人公が、子供を預かることになり、使っていない電気炊飯器の蓋を開けると、中に靴下が5つ入っている。5足ではなく靴下の片方が5つだ。読んだ時には、どうしてそういう状況になるかさっぱり見当がつかなかったが、片方が物理的に使用不能になって捨てたが、残りの使用可能な方を捨てる踏ん切りがつかず、そうかと言って不揃いの靴下を履くほど困窮していないが将来的にはどうなるかわからないとでもいった事情だったかと思いつく。

2015年1月19日月曜日

捕物

 シャーロック・ホームズの人形劇を見ていて、原作が気になった。けっこう読んだはずなのに、原作の内容がはっきり思い出せるのは、赤毛の話くらいだ。
 改めて読んでみると、解説で岡本綺堂の「半七捕物帳」の半七が江戸のシャーロック・ホームズと書かれている。
 以前「女か虎か」をもう一度読もうと探していた時に、岡本綺堂が編集した短編集に載っているのを知ったので、あの岡本綺堂が書いたものかと興味を持ち、「半七捕物帳」を読んで見た。面白かった。時間をおいてもう一度読みたいと思った。
 捕物が意外に面白いことが分かり、他にも読んでみようと思い、一番有名だと思う「銭形平次捕物控」を読むことにした。まだ、読んでいる途中だが、全篇載っているらしい全集は、さいたま市の図書館にはなく、県立図書館にはその一部だけがあるらしいことがわかった。市の図書館で読めるのは文庫で15冊約150編だが、これで全体の半分くらいだ。
 久しぶりに県立図書館のHPを見たら、浦和図書館が平成27年の3月いっぱいで閉鎖されることを知った。実に残念だ。
 最初の話に戻り、現在、日曜日の夕方5時半からシャーロック・ホームズの人形劇が放送されているが、ほとんど原作とは違った話だと思って見る方がいいようだ。