2015年6月9日火曜日

主題

 今、ハリー・ポッターシリーズの前半四作品がテレビ放映されていて、三作目まで終わったところだ。テレビで三作目がシリーズ最高傑作と呼び声高いと紹介されていた。正直、自分も三作目が映画のおもしろさとしてはピークだったように思う。四作目は期待したような面白さと違い、五作目以降はテレビで前半見ただけで10時になったらいつものように寝てしまった。録画は裏のドラマを録画した。
 ところが原作の小説を読むとその逆だ。三作目までは一冊で終わり四作目以降は上下二巻の倍の分量になり、それぞれ後半になると先が気になり一気に読み進めていくという感じだ。
 そのかわり、各篇の独立性と言うかまとまりは弱くなったように思う。
 一作目は、学校のなかで何か大事な物が守られていて、それがどういうもので誰が狙っているのかが主題であることは、はっきりしている。その主題にそって、物が何か、誰が狙っているのか、それが、最後に明かされ、推理小説で最後に意外な犯人が明かされるのと同じような楽しみを味わう。
 二作目は、秘密の部屋がどこにあり、以前その部屋を開けたのは誰で、今誰が開けようとしているのか、これも主題が明らかで、最後にやはり驚く真相が明らかになる。
 三作目は、タイムトラベルの話がからみ、これだけでもおもしろいし、ハーマイオニーが機転を利かし、ハリーは優秀な魔法使いでなければできないようなことをし、主人公達のヒーローさに気持ち爽快になれる。
 四作目の映画の宣伝で魔法学校対抗戦というのを聞き、ハリーがどういうふうに知力と魔力をつくして戦うのか、ゲーム的面白さと冒険小説の主人公のようなヒーローとしてのハリーを期待してしまった。
 そして、ハリーが思いがけず選手として引っ張り出されたことから、敵が大会にかこつけてハリーを襲って殺そうとするのではないかと思った。
 しかし、真相はその逆だった。敵(ヴォルデモート)の狙いはハリーに優勝させて優勝カップに触れさせることだった。だから、ハリーが勝つのを妨害するどころか逆に勝たせようと干渉してくる。
 ハリーが他の人間を押しのけても優勝を狙いにいくような人間だったら、敵の目的は容易に達成されただろう。ところが、ハリーは競技の相手が危機に陥ると救いにいって、共に危険にさらされるので、干渉の目的が最後まで読者にも映画を見る者にも明かされない。
 ハリーがさらされている危険と思っていたものが実は違っていたというのは、三作目も同じだ。ハリーを殺そうとしていると思った脱獄犯は逆に味方だった。最後に明かされる真相の主題そのものが謎になっていてふせられていること自体は悪くはないのだろう。
 ただ、四作目については、はじめに敵(ヴォルデモート)の計画をもらしていた方がより危機感が増し、これからどうなるのだろうという期待が増したように思う。正直どうハラハラしたりドキドキすればよいかわからず、かわりになんだかくだらない恋愛感情のもつれのようなものを見せられて終わったという感じだ。
 それから、英雄としてのハリーを期待しすぎてしまった。原作を通して読むとハリー自身は生まれつき時別な能力も才能もなく、赤ん坊の時は母親の愛がハリーを救い、そのあとは友情と勇気によって、他の人にも助けられヴォルデモートに勝つことができたとわかる。
 五作目以降は前半しか映画を見ていないが、どういう謎について不思議に思ったらいいのか、どういう危機に対してハラハラすればよいのか主題がわからなかった。
 映画をつくる段階で原作が全部できていなかったことが影響しているのだろうか。新シリーズの映画をつくるよりも、四作目以降をリメークしてほしいように思う。
 
 

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