渡辺淳一が日本初の心臓移植について書いた小説を読んだ。
読んでみて、これは確かに医者が書いた小説だと思った。心臓移植手術には批判的に描かれてはいるものの、手術するかどうかの決定は医者に委ねられており、患者の家族はその医師の専門家としての判断を信用するしかないことについては肯定的なように読める。また、実験的手術も医学の進歩のためには必要であることについても肯定的なように思う。
結局、もう少し、慎重に手順を踏んで実施していれば、よかっただけのことという結論になる。そして、それができなかったのは、医師が自分の功をあせったためであり、そういう気持ちもわからなくもないというふうに読めた。
麻酔医は、心臓移植に反対だが、その理由は、心臓移植ができる基準が決められると、その基準に達した患者に対してそれ以上の蘇生術が行われなくなり、蘇生術についての医学の進歩が止まるということと、これ以上蘇生術を行わないという判断が麻酔医ではなく心臓外科の医師に委ねられることになるかららしい。こういう視点も医師でなければでてこないだろう。
自分が気になる一番の問題は、死ぬことが確実だが、実際にはまだ死んでいない人間の心臓を取り出すことの是非だ。
麻酔医がまだ蘇生術を続けようとし、それを妨げられて、心臓を摘出されるということは、つまりそういうことだと思うのだが、医師にとっては、だれがいつ決定するかということと医学の進歩という点が一番の関心事らしい。
現行の臓器移植法では、臓器は「死体」から摘出すること、死体には脳死した者の身体を含むと規定している。法律でいくら死んだ後でなければ臓器摘出されることはないと決めても、脳死の判断は素人にとっては、結局医師の判断を信頼するしかない。
臓器移植は専門家に対する信頼がないと成り立たないと思う。
この心臓移植のテーマについて法律家が小説を書いたら全く違うものになるだろう。
専門家に対する信頼と言う点では、医師と法律専門家については、全く逆になったように思う。同じ生死に対する判断について、法律の方では専門家ではなく素人の判断に従う方がよいということになったようだ。
弁護士であり小説家である人もいるが、現役裁判官で小説家はいるのだろうか。裁判員裁判の審理を実際に経験できる法律専門家は裁判官しかいないのだから、そのうちに現職裁判官が裁判員裁判の小説を書いて退官したということがあれば、その小説は是非読みたいと思う。
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