2015年1月21日水曜日

オリエント急行の殺人

 テレビドラマで「オリエント急行殺人事件」を見た。その中で探偵は12人の殺人者を12人の陪審員にみたてている。ドラマでは誘拐事件の犯人は証拠不十分で無罪になったとされている。仮に陪審員に裁かれたならば有罪になったはずだということだろうか(裁判官のみで裁く制度に対する批判か?)。日本なら裁判で12人の陪審員に裁かせるのは法制度上無理だが、原作なら、陪審員に裁かせることは可能だし、ドラマ第一夜は原作どおりのはずなので、不思議に思った。
 相当前に原作(日本語訳なので厳密にいうと、これも原作どおりとは限らない)を読んだので、細かいことを覚えていないので、本を取り出して拾い読みした。
 創元推理文庫で99頁に「~やつは、ため込んでおいた莫大な金を使い、また、いろいろな人物の秘密を握っていたりしたもんで、証拠不十分として釈放されてしまった。しかし、民衆は承知しなかった。あわや捕えられて、リンチにされるところだった~」とある。
 つまり、警察に逮捕されたが、裁判にかけるだけの証拠がないとして釈放されたということだ。誘拐犯は新聞までは買収できなかったようだ。そうでなければ、どうやって世間の人間が真犯人について確信を持てたのかがよくわからない。ドラマはどうして原作どおりにしなかったのか?警察あるいは検察が腐敗していると言いたくなかったのか?それとも「無罪放免」は厳密に法律的な意味で使ったのではなく、単に罪を問われることなく釈放されたという日常用語的な意味だったのだろうか?普段新聞やテレビの報道でも正しい法律用語が使用されていないので、意味がよくわからないことがある。日本でリンチにされそうになることが、ありえなさそうに思ったのか?現在ならそういう感覚だが、当時の日本なら充分ありそうに思う。
 それから、309頁でポワロはこう言っている。「~私は、十二人の陪審員が、彼の死刑を評決し、また、事態が緊急を要するので、みずから死刑執行人の役を買って出た~」
 ただ、317頁で殺人者(アメリカ人)は「~社会は彼に死刑を宣告しました。私どもはただその判決を執行しただけなのです。」と言っている。
 ポワロよりも殺人者の方が陪審裁判を尊重しているように思う。
 別の殺人者(イギリス人)は、158頁でポワロに「あなたは、個人的な復讐より、法律に従うほうがよいとお考えなんですな?」と聞かれたのにたいして、「そうですね。あなただって、コルシカ人やマフィア人のように、おたがいに血を流したり刺したりして争うのはおいやでしょう。つまり、陪審裁判がいちばん健全なシステムでしょうな」と言っている。
 陪審裁判の本質が被害者が個人的に判断するのではなく、複数の一般の国民に判断を委ねるということなら、ポワロが言うように被害者が裁くのではなく、殺人者の言う民衆の裁きに基づき執行しただけという考えの方が陪審裁判を尊重しているように思う。そういえば、ポワロはベルギー人で大陸法系の人間だった。
 テレビドラマ第二夜は、ところどころしか見ていないが、殺人者の一人が標的が本当に誘拐犯だったのかどうかを、誘拐被害者の屋敷の様子を知らないと言っていたのに、よく知っていることを示す言葉だけで、決めつけるところがあった。でも、この判断には疑問を感じる。自分が疑われていると思ったら、行ったことがあっても行かないというのは自然な事だ。
 それから、殺人計画をゲームを遂行するように楽しんでやっている様子についていけなかった。脚本家は、喜劇に向いているが、この内容は喜劇には向かないように思う。殺人事件の犯人当てはゲーム感覚で楽しめるが、殺人計画の実行はゲーム感覚では楽しめない。犯行計画の実行をゲーム感覚で楽しめるのは、詐欺とか窃盗とかを人を殺傷しないで実行する場合ぐらいのように思う。
 二日通して見通しておもしろかった人はどのくらいいるのだろうか。 

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