一年前にハリー・ポッターの原作全巻を読んだが、最近映画を見て、かなり忘れていることに気づき第四巻から読み返してみた。
後になって重要な意味を持ってくることがわかっていると、最初に読んだ時には流していたエピソードに注意が向いてくる。
第五巻不死鳥の騎士団の第28章「スネイプの最悪の記憶」のなかで、ロンの双子の兄がモンタギューを二階の『姿をくらます飾棚』に頭から突っ込み、どこに送ったかわからないと話す。学校を去る決心をした二人はもう処罰を恐れる必要もない。
ハリーがスネイプに閉心術を教えてもらっているときに、ドラコがスネイプを呼びにくる。モンタギューが五階のトイレに詰まっていたのがみつかり、モンタギューがどうしてそうなったか説明できないので来て助けてくれということだ。
ハリーはスネイプの留守に憂いの篩でスネイプの過去の記憶を見てしまう。
魔法で移動する方法は、姿くらまし・姿あらわしの他にも移動キー、煙突飛行がある。学校の中で姿くらまし・姿あらわしはできないことになっていて、煙突飛行は監視できる。
移動キーについては、ダンブルドアが校長室から移動キーをつかって移動させるところと逆に魔法省から校長室に送り込むところが第五巻に出てくる。
学校内外の移動に移動キーが使用できる条件がよくわからない。第四巻で優勝杯を移動キーにしてハリーを学校外に連れ出している。ハリーが必ずその移動キーに触り、しかも他の人間は触らないようにする方法は、優勝杯を移動キーにする以外にも簡単な方法はたくさんあっただろうにと思うと同時に、どうして学校襲撃に移動キーを使用しなかった(できなかった)のだろうと思う。
2015年6月29日月曜日
2015年6月15日月曜日
延滞税の回避
ジュリスト6月号の租税判例速報が、またまたおもしろい。
相続税の申告納付をした人が、減額更正請求したことに対して、税務署長が相続財産の評価の誤りを理由に減額更正して還付加算金を加算して過納金を還付した。その後、税務署長は相続財産の評価の誤りを理由に増額更正し、この増えた分の税額に応じた延滞税が発生するとした。
増額更正後の税額は当初の申告納税額より低かったため、納税者は延滞税の納付義務を争い最高裁は納税義務がないと判断した。
ちなみに還付加算金は減額請求してから三ヶ月以内は発生せず、延滞税については、増額決定までの期間は、法定納期限(本来の申告納税期限)から一年分だけ発生する。そのため、納税者が還付加算金狙いで故意に過大に申告しても課税庁が迅速に処理すると還付加算金は発生せず、課税庁の増額更正処理の遅れによって一年分以上延滞税が増えることはない。
下級審が延滞税の発生を認めたのは延滞税は本税に付随して発生することを重視したためで、条文どおり機械的に延滞税を計算するなら、延滞税が発生すると考える方が話が簡単になる。
最高裁は「そして,延滞税は,納付の遅延に対する民事罰の性質を有し,期限内に申告及び納付をした者との間の負担の公平を図るとともに期限内の納付を促すことを目的とするものであるところ,上記の諸点に鑑みると,このような延滞税の趣旨及び目的に照らし,本件各相続税のうち本件各増差本税額に相当する部分について本件各増額更正によって改めて納付すべきものとされた本件各増差本税額の納期限までの期間に係る延滞税の発生は法において想定されていないものとみるのが相当である。」と判断した。
解説者は「本判決においては、立法者意思等が十分に吟味されたとはいえず、問題が残るといえよう。また、こうした解釈により、延滞税を回避するために意図的に過大に申告・納付をし、更正の請求を行う可能性もあり得るため、慎重であるべきであろう。」と書いている。
自分も最高裁が「民事罰の性質を有し」と決めつけたのは、言い過ぎではないかと思うが、延滞税を回避するため以下の記述については、全く理解できない。
以下の筆者の記述にあるように、本件の射程は「課税庁の行為によって未納付状態が作出された」場合に限られるので、どうやったら課税庁が減額しすぎてから増額する行為を期待して、延滞税を回避するために意図的に過大に申告・納付する人がいるかもしれないと考えることができるのか不思議でしょうがない。
事案の内容がよくわからないせいかと思い最高裁のHPの判決文を読んで驚いた。まず延滞税の金額が一人あたり一万円台だ。
そして、事案の内容だが、納税者が減額更正請求した一部が認められて減額更正されたが、それに対して異議申し立てをしたところ、減額しすぎとの判断がされ、その判断を受けて課税庁が増額更正したというものだ。最初の減額更正も異議申し立ての判断も同じ税務署だ。これでは、「せっかく減額してあげたのに、それに納得せず更に争うから、かえって損したでしょ」といっているようなものだ。しかも最初の減額更正の判断については還付加算金が発生するくらい時間をかけているのだから、一回でちゃんと判断できなかった言いわけができないように思う。
今度もまた、結論としてはこれしかないと思うが、理論面の説明は苦しい。法律は課税庁がこんなまねをすることまでは、想定していなかったとしか言いようがない。
念のため関係する判決文の一部を示すと以下のとおり(平成25年(行ヒ)第449号)
他方,所轄税務署長は,本件各更正請求に係る税務調査に基づき,本件相続土地の評価に誤りがあったことを理由に,上告人らの主張の一部を認めて本件各減額更
- 5 -
正をしたにもかかわらず,本件各増額更正に当たっては,自らその処分の内容を覆し,再び本件各減額更正における本件相続土地の評価に誤りがあったことを理由に,税額を増加させる判断の変更をしたものである。
以上によれば,本件の場合において,仮に本件各相続税について法定納期限の翌日から延滞税が発生することになるとすれば,法定の期限内に本件各増差本税額に相当する部分を含めて申告及び納付をした上告人らは,当初の減額更正における土地の評価の誤りを理由として税額を増額させる判断の変更をした課税庁の行為によって,当初から正しい土地の評価に基づく減額更正がされた場合と比べて税負担が増加するという回避し得ない不利益を被ることになるが,このような帰結は,法60条1項等において延滞税の発生につき納税者の帰責事由が必要とされていないことや,課税庁は更正を繰り返し行うことができることを勘案しても,明らかに課税上の衡平に反するものといわざるを得ない。そして,延滞税は,納付の遅延に対する民事罰の性質を有し,期限内に申告及び納付をした者との間の負担の公平を図るとともに期限内の納付を促すことを目的とするものであるところ,上記の諸点に鑑みると,このような延滞税の趣旨及び目的に照らし,本件各相続税のうち本件各増差本税額に相当する部分について本件各増額更正によって改めて納付すべきものとされた本件各増差本税額の納期限までの期間に係る延滞税の発生は法において想定されていないものとみるのが相当である。
相続税の申告納付をした人が、減額更正請求したことに対して、税務署長が相続財産の評価の誤りを理由に減額更正して還付加算金を加算して過納金を還付した。その後、税務署長は相続財産の評価の誤りを理由に増額更正し、この増えた分の税額に応じた延滞税が発生するとした。
増額更正後の税額は当初の申告納税額より低かったため、納税者は延滞税の納付義務を争い最高裁は納税義務がないと判断した。
ちなみに還付加算金は減額請求してから三ヶ月以内は発生せず、延滞税については、増額決定までの期間は、法定納期限(本来の申告納税期限)から一年分だけ発生する。そのため、納税者が還付加算金狙いで故意に過大に申告しても課税庁が迅速に処理すると還付加算金は発生せず、課税庁の増額更正処理の遅れによって一年分以上延滞税が増えることはない。
下級審が延滞税の発生を認めたのは延滞税は本税に付随して発生することを重視したためで、条文どおり機械的に延滞税を計算するなら、延滞税が発生すると考える方が話が簡単になる。
最高裁は「そして,延滞税は,納付の遅延に対する民事罰の性質を有し,期限内に申告及び納付をした者との間の負担の公平を図るとともに期限内の納付を促すことを目的とするものであるところ,上記の諸点に鑑みると,このような延滞税の趣旨及び目的に照らし,本件各相続税のうち本件各増差本税額に相当する部分について本件各増額更正によって改めて納付すべきものとされた本件各増差本税額の納期限までの期間に係る延滞税の発生は法において想定されていないものとみるのが相当である。」と判断した。
解説者は「本判決においては、立法者意思等が十分に吟味されたとはいえず、問題が残るといえよう。また、こうした解釈により、延滞税を回避するために意図的に過大に申告・納付をし、更正の請求を行う可能性もあり得るため、慎重であるべきであろう。」と書いている。
自分も最高裁が「民事罰の性質を有し」と決めつけたのは、言い過ぎではないかと思うが、延滞税を回避するため以下の記述については、全く理解できない。
以下の筆者の記述にあるように、本件の射程は「課税庁の行為によって未納付状態が作出された」場合に限られるので、どうやったら課税庁が減額しすぎてから増額する行為を期待して、延滞税を回避するために意図的に過大に申告・納付する人がいるかもしれないと考えることができるのか不思議でしょうがない。
事案の内容がよくわからないせいかと思い最高裁のHPの判決文を読んで驚いた。まず延滞税の金額が一人あたり一万円台だ。
そして、事案の内容だが、納税者が減額更正請求した一部が認められて減額更正されたが、それに対して異議申し立てをしたところ、減額しすぎとの判断がされ、その判断を受けて課税庁が増額更正したというものだ。最初の減額更正も異議申し立ての判断も同じ税務署だ。これでは、「せっかく減額してあげたのに、それに納得せず更に争うから、かえって損したでしょ」といっているようなものだ。しかも最初の減額更正の判断については還付加算金が発生するくらい時間をかけているのだから、一回でちゃんと判断できなかった言いわけができないように思う。
今度もまた、結論としてはこれしかないと思うが、理論面の説明は苦しい。法律は課税庁がこんなまねをすることまでは、想定していなかったとしか言いようがない。
念のため関係する判決文の一部を示すと以下のとおり(平成25年(行ヒ)第449号)
他方,所轄税務署長は,本件各更正請求に係る税務調査に基づき,本件相続土地の評価に誤りがあったことを理由に,上告人らの主張の一部を認めて本件各減額更
- 5 -
正をしたにもかかわらず,本件各増額更正に当たっては,自らその処分の内容を覆し,再び本件各減額更正における本件相続土地の評価に誤りがあったことを理由に,税額を増加させる判断の変更をしたものである。
以上によれば,本件の場合において,仮に本件各相続税について法定納期限の翌日から延滞税が発生することになるとすれば,法定の期限内に本件各増差本税額に相当する部分を含めて申告及び納付をした上告人らは,当初の減額更正における土地の評価の誤りを理由として税額を増額させる判断の変更をした課税庁の行為によって,当初から正しい土地の評価に基づく減額更正がされた場合と比べて税負担が増加するという回避し得ない不利益を被ることになるが,このような帰結は,法60条1項等において延滞税の発生につき納税者の帰責事由が必要とされていないことや,課税庁は更正を繰り返し行うことができることを勘案しても,明らかに課税上の衡平に反するものといわざるを得ない。そして,延滞税は,納付の遅延に対する民事罰の性質を有し,期限内に申告及び納付をした者との間の負担の公平を図るとともに期限内の納付を促すことを目的とするものであるところ,上記の諸点に鑑みると,このような延滞税の趣旨及び目的に照らし,本件各相続税のうち本件各増差本税額に相当する部分について本件各増額更正によって改めて納付すべきものとされた本件各増差本税額の納期限までの期間に係る延滞税の発生は法において想定されていないものとみるのが相当である。
2015年6月14日日曜日
白い宴
渡辺淳一が日本初の心臓移植について書いた小説を読んだ。
読んでみて、これは確かに医者が書いた小説だと思った。心臓移植手術には批判的に描かれてはいるものの、手術するかどうかの決定は医者に委ねられており、患者の家族はその医師の専門家としての判断を信用するしかないことについては肯定的なように読める。また、実験的手術も医学の進歩のためには必要であることについても肯定的なように思う。
結局、もう少し、慎重に手順を踏んで実施していれば、よかっただけのことという結論になる。そして、それができなかったのは、医師が自分の功をあせったためであり、そういう気持ちもわからなくもないというふうに読めた。
麻酔医は、心臓移植に反対だが、その理由は、心臓移植ができる基準が決められると、その基準に達した患者に対してそれ以上の蘇生術が行われなくなり、蘇生術についての医学の進歩が止まるということと、これ以上蘇生術を行わないという判断が麻酔医ではなく心臓外科の医師に委ねられることになるかららしい。こういう視点も医師でなければでてこないだろう。
自分が気になる一番の問題は、死ぬことが確実だが、実際にはまだ死んでいない人間の心臓を取り出すことの是非だ。
麻酔医がまだ蘇生術を続けようとし、それを妨げられて、心臓を摘出されるということは、つまりそういうことだと思うのだが、医師にとっては、だれがいつ決定するかということと医学の進歩という点が一番の関心事らしい。
現行の臓器移植法では、臓器は「死体」から摘出すること、死体には脳死した者の身体を含むと規定している。法律でいくら死んだ後でなければ臓器摘出されることはないと決めても、脳死の判断は素人にとっては、結局医師の判断を信頼するしかない。
臓器移植は専門家に対する信頼がないと成り立たないと思う。
この心臓移植のテーマについて法律家が小説を書いたら全く違うものになるだろう。
専門家に対する信頼と言う点では、医師と法律専門家については、全く逆になったように思う。同じ生死に対する判断について、法律の方では専門家ではなく素人の判断に従う方がよいということになったようだ。
弁護士であり小説家である人もいるが、現役裁判官で小説家はいるのだろうか。裁判員裁判の審理を実際に経験できる法律専門家は裁判官しかいないのだから、そのうちに現職裁判官が裁判員裁判の小説を書いて退官したということがあれば、その小説は是非読みたいと思う。
読んでみて、これは確かに医者が書いた小説だと思った。心臓移植手術には批判的に描かれてはいるものの、手術するかどうかの決定は医者に委ねられており、患者の家族はその医師の専門家としての判断を信用するしかないことについては肯定的なように読める。また、実験的手術も医学の進歩のためには必要であることについても肯定的なように思う。
結局、もう少し、慎重に手順を踏んで実施していれば、よかっただけのことという結論になる。そして、それができなかったのは、医師が自分の功をあせったためであり、そういう気持ちもわからなくもないというふうに読めた。
麻酔医は、心臓移植に反対だが、その理由は、心臓移植ができる基準が決められると、その基準に達した患者に対してそれ以上の蘇生術が行われなくなり、蘇生術についての医学の進歩が止まるということと、これ以上蘇生術を行わないという判断が麻酔医ではなく心臓外科の医師に委ねられることになるかららしい。こういう視点も医師でなければでてこないだろう。
自分が気になる一番の問題は、死ぬことが確実だが、実際にはまだ死んでいない人間の心臓を取り出すことの是非だ。
麻酔医がまだ蘇生術を続けようとし、それを妨げられて、心臓を摘出されるということは、つまりそういうことだと思うのだが、医師にとっては、だれがいつ決定するかということと医学の進歩という点が一番の関心事らしい。
現行の臓器移植法では、臓器は「死体」から摘出すること、死体には脳死した者の身体を含むと規定している。法律でいくら死んだ後でなければ臓器摘出されることはないと決めても、脳死の判断は素人にとっては、結局医師の判断を信頼するしかない。
臓器移植は専門家に対する信頼がないと成り立たないと思う。
この心臓移植のテーマについて法律家が小説を書いたら全く違うものになるだろう。
専門家に対する信頼と言う点では、医師と法律専門家については、全く逆になったように思う。同じ生死に対する判断について、法律の方では専門家ではなく素人の判断に従う方がよいということになったようだ。
弁護士であり小説家である人もいるが、現役裁判官で小説家はいるのだろうか。裁判員裁判の審理を実際に経験できる法律専門家は裁判官しかいないのだから、そのうちに現職裁判官が裁判員裁判の小説を書いて退官したということがあれば、その小説は是非読みたいと思う。
2015年6月12日金曜日
白夜
やかまし村の子供たちの映画のDVを見た。直前に小説を読んだので、内容的に目新しいところはなかったが、夏の夜遅くまで外が明るいのを見て、「そうか、スウェーデンの話だから、これが白夜というものか」と思った。
小説の中で子供たちが夜中に家を抜け出す計画を立てるところがある。読んでいるときには真っ暗な外に出ていくのだと思っていたが、映画を見ると実際は昼間と同じくらい明るい外に出ていく話だった。
作者がスウェーデン人だから、小説の中には白夜の説明はない。当たり前のことだからわざわざ説明するまでもないということだろう。他にも作者がおかれている自然環境とこちらの自然環境が違い、作者の考えている状況と全く違う状況を思い描いていることがあるのだろうと思った。
渡辺淳一の自伝的小説「白夜」を読んだ。札幌の夏に白夜はないから、どうしてこの題名なのだろうと思う。医者の白衣の白のイメージだろうか。出てくる道内の地名がアルファベットの最初の一文字で表現されている。N温泉が登別温泉なのは間違いないが、K市は釧路かそれとも北見か、Y市は余市だろうか。余市町なので迷う。自分も札幌に長く住んでいたので、春になって一斉に花が咲き、関東なら順番に咲いていくところが、札幌だとほぼ同時に咲くところの描写はよくわかる。このことがわざわざ書くに値することだということは埼玉に数年住んでみてよくわかった。
日本で初めての心臓移植が行われた時に、作者がその病院にいたことを初めて知った。当時自分は子供だったが、手術が行われてから移植手術を受けた患者のことが連日報道され、一か月過ぎたころに成功してこれから長く生きるのではと思いかけたら、結局亡くなりがっかりしたのを思い出した。
小説の中で子供たちが夜中に家を抜け出す計画を立てるところがある。読んでいるときには真っ暗な外に出ていくのだと思っていたが、映画を見ると実際は昼間と同じくらい明るい外に出ていく話だった。
作者がスウェーデン人だから、小説の中には白夜の説明はない。当たり前のことだからわざわざ説明するまでもないということだろう。他にも作者がおかれている自然環境とこちらの自然環境が違い、作者の考えている状況と全く違う状況を思い描いていることがあるのだろうと思った。
渡辺淳一の自伝的小説「白夜」を読んだ。札幌の夏に白夜はないから、どうしてこの題名なのだろうと思う。医者の白衣の白のイメージだろうか。出てくる道内の地名がアルファベットの最初の一文字で表現されている。N温泉が登別温泉なのは間違いないが、K市は釧路かそれとも北見か、Y市は余市だろうか。余市町なので迷う。自分も札幌に長く住んでいたので、春になって一斉に花が咲き、関東なら順番に咲いていくところが、札幌だとほぼ同時に咲くところの描写はよくわかる。このことがわざわざ書くに値することだということは埼玉に数年住んでみてよくわかった。
日本で初めての心臓移植が行われた時に、作者がその病院にいたことを初めて知った。当時自分は子供だったが、手術が行われてから移植手術を受けた患者のことが連日報道され、一か月過ぎたころに成功してこれから長く生きるのではと思いかけたら、結局亡くなりがっかりしたのを思い出した。
2015年6月9日火曜日
主題
今、ハリー・ポッターシリーズの前半四作品がテレビ放映されていて、三作目まで終わったところだ。テレビで三作目がシリーズ最高傑作と呼び声高いと紹介されていた。正直、自分も三作目が映画のおもしろさとしてはピークだったように思う。四作目は期待したような面白さと違い、五作目以降はテレビで前半見ただけで10時になったらいつものように寝てしまった。録画は裏のドラマを録画した。
ところが原作の小説を読むとその逆だ。三作目までは一冊で終わり四作目以降は上下二巻の倍の分量になり、それぞれ後半になると先が気になり一気に読み進めていくという感じだ。
そのかわり、各篇の独立性と言うかまとまりは弱くなったように思う。
一作目は、学校のなかで何か大事な物が守られていて、それがどういうもので誰が狙っているのかが主題であることは、はっきりしている。その主題にそって、物が何か、誰が狙っているのか、それが、最後に明かされ、推理小説で最後に意外な犯人が明かされるのと同じような楽しみを味わう。
二作目は、秘密の部屋がどこにあり、以前その部屋を開けたのは誰で、今誰が開けようとしているのか、これも主題が明らかで、最後にやはり驚く真相が明らかになる。
三作目は、タイムトラベルの話がからみ、これだけでもおもしろいし、ハーマイオニーが機転を利かし、ハリーは優秀な魔法使いでなければできないようなことをし、主人公達のヒーローさに気持ち爽快になれる。
四作目の映画の宣伝で魔法学校対抗戦というのを聞き、ハリーがどういうふうに知力と魔力をつくして戦うのか、ゲーム的面白さと冒険小説の主人公のようなヒーローとしてのハリーを期待してしまった。
そして、ハリーが思いがけず選手として引っ張り出されたことから、敵が大会にかこつけてハリーを襲って殺そうとするのではないかと思った。
しかし、真相はその逆だった。敵(ヴォルデモート)の狙いはハリーに優勝させて優勝カップに触れさせることだった。だから、ハリーが勝つのを妨害するどころか逆に勝たせようと干渉してくる。
ハリーが他の人間を押しのけても優勝を狙いにいくような人間だったら、敵の目的は容易に達成されただろう。ところが、ハリーは競技の相手が危機に陥ると救いにいって、共に危険にさらされるので、干渉の目的が最後まで読者にも映画を見る者にも明かされない。
ハリーがさらされている危険と思っていたものが実は違っていたというのは、三作目も同じだ。ハリーを殺そうとしていると思った脱獄犯は逆に味方だった。最後に明かされる真相の主題そのものが謎になっていてふせられていること自体は悪くはないのだろう。
ただ、四作目については、はじめに敵(ヴォルデモート)の計画をもらしていた方がより危機感が増し、これからどうなるのだろうという期待が増したように思う。正直どうハラハラしたりドキドキすればよいかわからず、かわりになんだかくだらない恋愛感情のもつれのようなものを見せられて終わったという感じだ。
それから、英雄としてのハリーを期待しすぎてしまった。原作を通して読むとハリー自身は生まれつき時別な能力も才能もなく、赤ん坊の時は母親の愛がハリーを救い、そのあとは友情と勇気によって、他の人にも助けられヴォルデモートに勝つことができたとわかる。
五作目以降は前半しか映画を見ていないが、どういう謎について不思議に思ったらいいのか、どういう危機に対してハラハラすればよいのか主題がわからなかった。
映画をつくる段階で原作が全部できていなかったことが影響しているのだろうか。新シリーズの映画をつくるよりも、四作目以降をリメークしてほしいように思う。
ところが原作の小説を読むとその逆だ。三作目までは一冊で終わり四作目以降は上下二巻の倍の分量になり、それぞれ後半になると先が気になり一気に読み進めていくという感じだ。
そのかわり、各篇の独立性と言うかまとまりは弱くなったように思う。
一作目は、学校のなかで何か大事な物が守られていて、それがどういうもので誰が狙っているのかが主題であることは、はっきりしている。その主題にそって、物が何か、誰が狙っているのか、それが、最後に明かされ、推理小説で最後に意外な犯人が明かされるのと同じような楽しみを味わう。
二作目は、秘密の部屋がどこにあり、以前その部屋を開けたのは誰で、今誰が開けようとしているのか、これも主題が明らかで、最後にやはり驚く真相が明らかになる。
三作目は、タイムトラベルの話がからみ、これだけでもおもしろいし、ハーマイオニーが機転を利かし、ハリーは優秀な魔法使いでなければできないようなことをし、主人公達のヒーローさに気持ち爽快になれる。
四作目の映画の宣伝で魔法学校対抗戦というのを聞き、ハリーがどういうふうに知力と魔力をつくして戦うのか、ゲーム的面白さと冒険小説の主人公のようなヒーローとしてのハリーを期待してしまった。
そして、ハリーが思いがけず選手として引っ張り出されたことから、敵が大会にかこつけてハリーを襲って殺そうとするのではないかと思った。
しかし、真相はその逆だった。敵(ヴォルデモート)の狙いはハリーに優勝させて優勝カップに触れさせることだった。だから、ハリーが勝つのを妨害するどころか逆に勝たせようと干渉してくる。
ハリーが他の人間を押しのけても優勝を狙いにいくような人間だったら、敵の目的は容易に達成されただろう。ところが、ハリーは競技の相手が危機に陥ると救いにいって、共に危険にさらされるので、干渉の目的が最後まで読者にも映画を見る者にも明かされない。
ハリーがさらされている危険と思っていたものが実は違っていたというのは、三作目も同じだ。ハリーを殺そうとしていると思った脱獄犯は逆に味方だった。最後に明かされる真相の主題そのものが謎になっていてふせられていること自体は悪くはないのだろう。
ただ、四作目については、はじめに敵(ヴォルデモート)の計画をもらしていた方がより危機感が増し、これからどうなるのだろうという期待が増したように思う。正直どうハラハラしたりドキドキすればよいかわからず、かわりになんだかくだらない恋愛感情のもつれのようなものを見せられて終わったという感じだ。
それから、英雄としてのハリーを期待しすぎてしまった。原作を通して読むとハリー自身は生まれつき時別な能力も才能もなく、赤ん坊の時は母親の愛がハリーを救い、そのあとは友情と勇気によって、他の人にも助けられヴォルデモートに勝つことができたとわかる。
五作目以降は前半しか映画を見ていないが、どういう謎について不思議に思ったらいいのか、どういう危機に対してハラハラすればよいのか主題がわからなかった。
映画をつくる段階で原作が全部できていなかったことが影響しているのだろうか。新シリーズの映画をつくるよりも、四作目以降をリメークしてほしいように思う。
2015年6月8日月曜日
親戚たち
テレビドラマ「親戚たち」の脚本の本を持っている。市川森一が書いている。原作はなくオリジナルで、あとがきによると諫早は作者の故郷ということだ。ドラマは1985年(昭和60年)制作なので、諫早湾には干潟が広がっている。
主人公は、この干潟を干拓した地元では有名な名家の出身だが、今その名家は没落している。
干潟の土地の所有権は持っているが、土地の価値はなく、リゾート開発の話が起きている。
この後、国の干拓事業が始まり、現在水門を開ける、開けないの相反する判決が出て混乱しているわけだけれど、ドラマの中の干潟の風景は、もう見ることができないのだろう。
論極ジュリスト2015年春号に諫早湾の排水門の開閉を巡る裁判についての記事が出ている。
いままで、干拓してできた農地と有明海の漁業のどちらの利益を守るかの争いかと思っていたが、川の氾濫による水害予防が問題になっているようだ。
満潮時に河口の水面が上昇し、川の水が排水されずに水害が起こるのを防ぐため、大雨の時に排水門を閉じて川の水を調整池にため、干潮時に排水門を開けて溜まった水を海に排出するという仕組みだ。
大雨の時に排水門を閉じて河口からの水の流入を防ぎ、一時的に排水門の手前に上流から流れてきた水を溜めるということなら、さいたま市内でも鴻沼川、鴨川、荒川の水門で同様の仕組みになっている。
埼玉にくるまでは大きな排水門を見たことがなく、普段水門が開いているのを見て、いつ閉めるのか不思議だった。大雨が降って川の水を海に出す必要があるときに、逆に排水門を閉じて川の水を溜めるということが不思議だった。他の大きな河川や海からの逆流を防ぐためと言われるとなるほどと思った。
ジュリストの解説を読むと、開門の判決が出た後の事情の変更として、河川の治水工事の進行による水害防止のための排水門の必要性の高まりを考慮すべきとしているが、河川の治水工事が進んだらむしろ逆ではないかと思ったが、これは河川の治水工事により上中流で川から水が溢れることが少なくなり、以前より多くの水が河口まで運ばれるようになるからということらしい。
河口だけでなく上中域にも調整池を設けるようにしたらよかったのにと思うが、適当な土地がなかったのだろう。
結局、諫早湾の排水門の問題は水害の点では、いつ閉めていつ開けるかの問題でしかないように思う。
今まで、諫早湾の問題は、農地の干拓問題がない地域には無縁の話かと思ったが、水害防止と水の流れを止めることによる水質悪化、環境破壊の問題なら、関東地域でも同じような問題はたくさんあるのだろうと思う。
荒川流域で桜草が自生するには、定期的に川の水が溢れることが必要なようだが、今の治水状況からいって、それは無理のように思う。
人口が減少していくようだから、無理やりコンクリートで自然を改変するより、条件の悪い場所には住まないようにしていけばよいのにと思う。
主人公は、この干潟を干拓した地元では有名な名家の出身だが、今その名家は没落している。
干潟の土地の所有権は持っているが、土地の価値はなく、リゾート開発の話が起きている。
この後、国の干拓事業が始まり、現在水門を開ける、開けないの相反する判決が出て混乱しているわけだけれど、ドラマの中の干潟の風景は、もう見ることができないのだろう。
論極ジュリスト2015年春号に諫早湾の排水門の開閉を巡る裁判についての記事が出ている。
いままで、干拓してできた農地と有明海の漁業のどちらの利益を守るかの争いかと思っていたが、川の氾濫による水害予防が問題になっているようだ。
満潮時に河口の水面が上昇し、川の水が排水されずに水害が起こるのを防ぐため、大雨の時に排水門を閉じて川の水を調整池にため、干潮時に排水門を開けて溜まった水を海に排出するという仕組みだ。
大雨の時に排水門を閉じて河口からの水の流入を防ぎ、一時的に排水門の手前に上流から流れてきた水を溜めるということなら、さいたま市内でも鴻沼川、鴨川、荒川の水門で同様の仕組みになっている。
埼玉にくるまでは大きな排水門を見たことがなく、普段水門が開いているのを見て、いつ閉めるのか不思議だった。大雨が降って川の水を海に出す必要があるときに、逆に排水門を閉じて川の水を溜めるということが不思議だった。他の大きな河川や海からの逆流を防ぐためと言われるとなるほどと思った。
ジュリストの解説を読むと、開門の判決が出た後の事情の変更として、河川の治水工事の進行による水害防止のための排水門の必要性の高まりを考慮すべきとしているが、河川の治水工事が進んだらむしろ逆ではないかと思ったが、これは河川の治水工事により上中流で川から水が溢れることが少なくなり、以前より多くの水が河口まで運ばれるようになるからということらしい。
河口だけでなく上中域にも調整池を設けるようにしたらよかったのにと思うが、適当な土地がなかったのだろう。
結局、諫早湾の排水門の問題は水害の点では、いつ閉めていつ開けるかの問題でしかないように思う。
今まで、諫早湾の問題は、農地の干拓問題がない地域には無縁の話かと思ったが、水害防止と水の流れを止めることによる水質悪化、環境破壊の問題なら、関東地域でも同じような問題はたくさんあるのだろうと思う。
荒川流域で桜草が自生するには、定期的に川の水が溢れることが必要なようだが、今の治水状況からいって、それは無理のように思う。
人口が減少していくようだから、無理やりコンクリートで自然を改変するより、条件の悪い場所には住まないようにしていけばよいのにと思う。
2015年6月5日金曜日
幻の動物とその生息地
ハリー・ポッターのスピンオフ映画が作られるというニュースを見て、どういうストーリーの映画になりそうか全然わからないので、『幻の動物とその生息地』を読んでみた。
100頁の本で32頁から最後まで幻の動物についてアルファベット順に説明が続く。この部分は読んでいてだんだん退屈してくる。特に面白いエピソードやストーリーはない。
魔法動物の定義のところは面白かった。人間の形に似ているが知性がない、動物の形態をしているが、知性がある、人間の形をし知性もあるが、現在生きていない場合、どう扱うか。
SFで宇宙人とどう付き合うかという問題に近いような気がする。知的ゲームとしては面白いように思うが、映画のストーリーにはなりそうにない。
主人公が幻の動物の発見と研究のために各地に出かけて冒険をする話になりそうだが、具体的なエピソードやストーリーは、全く新しくこれから考えだされるのだろうと思う。
作者の才能を思うと期待できるが、ハリー・ポッターの本篇の四作目以降の映画を見た感想からは、わかりやすく見て楽しい映画になるか、少し心配でもある。
最近、「トータル・リコール」の再映画化された映画を見て、前に作られた映画と出だし以外は、結構違っていたので、原作がどうなっているのか気になり、原作の小説を読んで驚いた。映画が原作どおりなのは、主人公が記憶を取り戻した直後襲われて、逃げ出すところまでで、その後原作の方はブラックユーモアで笑えるオチがついてすぐ終り、逃げ出した後の話は映画の創作ストーリーだった。どうりで前作と違うストーリーになるはずだ。
映画が原作の設定だけ拝借するという点では同じことになりそうだ。
エンデの「はてしない物語」の映画化は、第一部だけで終わってしまったのは残念だったが原作が長いのでそれも仕方ないと思った。原作のイメージとは違ったがアトレーユの美少年ぶりが気に入り、第二部を期待したが、時間が空きすぎて同じ少年で作ることができずがっかりした。ただ、原作の第二部は大人がじっくり読んでも理解するのがちょっと難しく、簡単にいうと空想にひたって、それに頼りきるのは危険だということになるかと思う。第二部の映画を撮ったとしても第一部のようにわかりやすいストーリーで、見て楽しい子供向けのファンタジー映画には、なりそうになかった。
二作目以降の映画も見たが、ファルコンは前と違っておもしろいところもあったが、第一作のおもしろさには全然及ばないという感想だ。原作の内容とも違う。
ハリー・ポッターの方は、同じ俳優が同じ役を演じるということで、かなり期待したが、正直言って裏目に出た気がする。原作の内容が映画化するには難しく、内容的にも楽しいファンタジー映画にはならず、むしろ暗くてつらいものだという点は共通しているように思う。
ハリー・ポッターの本篇の方こそ、別の俳優に変えて、原作と全く違った内容で楽しいファンタジー映画にして欲しかったように思う。
100頁の本で32頁から最後まで幻の動物についてアルファベット順に説明が続く。この部分は読んでいてだんだん退屈してくる。特に面白いエピソードやストーリーはない。
魔法動物の定義のところは面白かった。人間の形に似ているが知性がない、動物の形態をしているが、知性がある、人間の形をし知性もあるが、現在生きていない場合、どう扱うか。
SFで宇宙人とどう付き合うかという問題に近いような気がする。知的ゲームとしては面白いように思うが、映画のストーリーにはなりそうにない。
主人公が幻の動物の発見と研究のために各地に出かけて冒険をする話になりそうだが、具体的なエピソードやストーリーは、全く新しくこれから考えだされるのだろうと思う。
作者の才能を思うと期待できるが、ハリー・ポッターの本篇の四作目以降の映画を見た感想からは、わかりやすく見て楽しい映画になるか、少し心配でもある。
最近、「トータル・リコール」の再映画化された映画を見て、前に作られた映画と出だし以外は、結構違っていたので、原作がどうなっているのか気になり、原作の小説を読んで驚いた。映画が原作どおりなのは、主人公が記憶を取り戻した直後襲われて、逃げ出すところまでで、その後原作の方はブラックユーモアで笑えるオチがついてすぐ終り、逃げ出した後の話は映画の創作ストーリーだった。どうりで前作と違うストーリーになるはずだ。
映画が原作の設定だけ拝借するという点では同じことになりそうだ。
エンデの「はてしない物語」の映画化は、第一部だけで終わってしまったのは残念だったが原作が長いのでそれも仕方ないと思った。原作のイメージとは違ったがアトレーユの美少年ぶりが気に入り、第二部を期待したが、時間が空きすぎて同じ少年で作ることができずがっかりした。ただ、原作の第二部は大人がじっくり読んでも理解するのがちょっと難しく、簡単にいうと空想にひたって、それに頼りきるのは危険だということになるかと思う。第二部の映画を撮ったとしても第一部のようにわかりやすいストーリーで、見て楽しい子供向けのファンタジー映画には、なりそうになかった。
二作目以降の映画も見たが、ファルコンは前と違っておもしろいところもあったが、第一作のおもしろさには全然及ばないという感想だ。原作の内容とも違う。
ハリー・ポッターの方は、同じ俳優が同じ役を演じるということで、かなり期待したが、正直言って裏目に出た気がする。原作の内容が映画化するには難しく、内容的にも楽しいファンタジー映画にはならず、むしろ暗くてつらいものだという点は共通しているように思う。
ハリー・ポッターの本篇の方こそ、別の俳優に変えて、原作と全く違った内容で楽しいファンタジー映画にして欲しかったように思う。
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