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2016年9月4日日曜日

勝敗

 ピラミッドダービーを見ていて、不思議に思ったことがある。料理人が自分がつくった料理を当てられるかという勝負で、テレビでやっている方法では、勝者を決められない場合があるのではないかということだ。
 テレビのやり方は、自分がつくったのではないものから、あてていく。これだと、4つあるうち、最初か、二番目に指摘したのが本人が作ったものだった場合は、誰が勝者になるのだろうか。三番目に選んだのが本人が作ったものなら最後に残った人が勝者になり、最後に残ったのが本人のだったら、本人が勝者になる。
 最初か二番目に選んだのが本人のつくったものだった場合に、残りの二つがどちらも本人がつくったものではないとわかっていながら、より本人に近いほうを本人に選んでもらうのだろうか。
 今まで、本人が作ったものではないと指摘して本人のだったことはないが、だんだん数を減らしていく方法ではなく、いきなり本人がつくったと思うものを選ばせないと、方法としてはおかしいのではないだろうか。
 ピラミッドということで、徐々に数を減らしていく方法にこだわりたいのかもしれないが、常にだんだん脱落していく方法がとれるわけではなく、無理に盛り上げる見せ方にこだわる必要はないと思う。
 それに、この勝負で本人が勝っても、すっきりしない感じが残る。というのは、本人と区別がつかない味を出す人がいても、最後に二人残って、どちらを本人と当てるか確率は同じなので、本人が勝っても実は確率二分の一をたまたま当てたのか、本当に見極めたのか、テレビを見ている人間にはわからないからだ。おまけに、四人のうち最初の二人は確実に見破れることが前提になっているのだから、結局どの回も本人が勝てる確率は最低50%はあることになるのではないだろうか。
 書いてからネットで検索したら、本人じゃないといって本人だったら、残り何人でも残った人が勝者になるということがわかった。

2016年5月8日日曜日

ジャンパースカート

 パソコンで、作家二人をゲストに招いたトーク番組を見ていたら、女性ゲストがノダメの主人公がワンピースを着ているという発言をした。
 それを聞いて「あれ、ワンピースじゃなくてジャンパースカートだよね?」と思った。
 大人の女性が着るワンピースとジャンパースカートでは、印象も意味合いもかなり違う気がする。
 こういう違和感が生じるのも世代の違いかと思った。

2015年11月13日金曜日

動脈硬化度

 11月11日、たまたま浦和駅東口に行ったら、無料健康診断のパンフレットをもらった。検査項目に動脈硬化度があったので受けてみた。
 実年齢とぴったり一致した。がっかりした。実年齢が若くないので、血管が年をとっていることになり、心配だ。
 血液検査でコレストロールが高めと出ているので、運動と食事の改善が必要だと一層思う。
 置いてあるパンフレットを家でよく見ると介護老人保健施設の案内だ。特養、ケアハウス、グループホーム、有料老人ホームは聞いたことがあるが、この施設名は聞いたことがなかった。簡単に言うとリハビリをして家に戻すための施設で、死ぬまで暮らすための施設ではない。
 11月11日は「介護の日」だから、この日にこの行事が行われたらしい。これからも動脈硬化度を調べてみたいので、毎年実施するのかわからないが、この日は覚えておこうと思う。

2015年10月17日土曜日

流れる

 幸田文の「流れる」のなかに、朝布団から起きるときの動作の描写がある。
「・・片手を力にすっと半身を起すと同時に膝が縮んできて、それなり横座りに起きかえる。」
 その後、座った状態から立ち上がる動作がわからない。文中の次の動作が「すうっと蒲団のあいだへ手を入れると、二ツ折りの古風な懐中時計をひらいてほつれ毛を撫でつける。」とあるので、ここまでは、まだ座ったままなのだろう。
 子供のころ浴衣を着たが、大人になってはじめて着物を着てみて、座った状態からどうたち上がればいいかわからない。
 すそを乱さず、すねが出ないように、おしりを突き出さないように立とうとするとそうとうの筋力がいる。両手にお盆を持ったまま立ち上がることなど到底無理だ。
 着物は洋服と違って着物自体のデザインの違いはほとんどない。体の線もあまり出ない。いままで、着物は模様だけの勝負かと思っていたが、立ち居振る舞いで他人と差がつくようだ。
 

2015年9月23日水曜日

いせさき手織絣

 羽織の縫い方の本に、柄合わせの仕方が図入りで説明されていた。それによると、自分が縫った着物の模様の上下が伝統的な方法と違っていた。
 着物は柄の上下が前と後ろで逆になる。自分で考えて上下が互い違いになったほうがよいと思った。これは正解だったが、前身頃とおくみは互い違いにせず同じ向きにするのが伝統的方法なのに、自分はこれも互い違いにしてしまった。
 身頃の裏表を逆にすると本に出ているようになおせる。自分が縫った布地は眼で見て裏表の区別がつかないので、可能だが、すぐにはやり直す気にならない。ほどいて洗って縫いなおすときには、本に出ているとおりにやってみようと思う。
 布の裏表が同じになるのは、糸をあらかじめ織りあげたときに模様になるように染め分けているからだ。
 手順を考えてみると、かなり手がかかっていると思う。でも、普段着なので着物にしては、安かった。30年くらい前に買ったので、今でも作られているのか、同じくらいの値段か気になる。
 ネットで見たら、産地が東武伊勢崎線の終点の伊勢崎市だと気付いた。

2015年9月20日日曜日

着物と羽織

 母親が、長年ため込んでいたものを整理していたら、30年くらい前に買った着物と羽織のアンサンブルの反物が手つかずで、でてきた。
 私が、母親の付き合いで買わされたものだ。仕立ててから渡すと言われたものが、それっきりになっていたらしい。
 図書館で縫い方の本を見ながら縫った。羽織のほうは、裏なし、そで口は三つ折りしてまつい、まちをつけずに簡単にして縫ったので、着物とあわせて一週間ぐらいで縫えた。
 方法は簡単だと思ったが、襟の所は、技術的に難しく感じた。
 羽織の襟は、数枚も重なりあい、仕立てたままで洗濯したら、季節によっては、乾くまでにカビが大量発生しそうだ。洗い張りする理由はこんなところにもあるのだろうか。
 着物は家の中で気楽に着ると、利点が多い。まず、体温調節が楽だ。それに、脱ぎ着の際に足をあげなくてもよいのが楽だ。
 これは、年をとって気付いたことだ。
 着物に限らず、食べ物も年をとって、そのよさに気付いたところが、いろいろある。日本文化は年寄り文化のように感じる。

2015年9月3日木曜日

小物入れ

 最後に残ったビーズを使って、鍋つかみを小物入れにした。
 作りながら考えたらこうなった。子供のころ祖母の東京みやげにもらった首飾りの桜の花びらのビーズをとうとう作品化できた。
 祖母が東京に行くときに見送りに行ったのを覚えている。当時、青函連絡船の出港の際に紙テープを投げていた。来年の春には、新幹線が走るのだと思うと感慨深い。
 ビーズの形がよくわからないので、角度を変えて写した。


2015年9月2日水曜日

無趣味のすすめ

 図書館で「無趣味のすすめ」という題名を読み、退職した人に趣味を持てというのはよく聞くので、それを否定する生き方とはどんなものかと思い立ち読みした。
 「基本的に趣味は老人のもの」とある。老人は完全に対象外の本らしい。短文の随筆集で、冒頭の一遍を読んだだけで読む気がなくなり、借りるのを止める。
 読書が趣味という人は多いが、老人を対象読者とする本は少ない。老人だっていろいろ人生に思い悩み本に助けを求める人は多いと思う。
 老人でなくても働く必要がなく、多くの時間を趣味に費やすことができる人で、成果品が残る趣味を持っている人は、その成果品をどうしているのだろうか。
 働いていて、その余暇に趣味をやっている場合は、自分で使う分で消費できる。
 自分や家族で使っても余る場合、知り合いや友人にプレゼントする人は多いと思う。しかし、たいていの場合、もらった人は迷惑していると思う。
 時間がたくさんあると、作る量を必要な量に合わせるのは難しい。この問題について、ほかの人はどう解決しているのだろうか。
 完成に時間が多くかかる大作に取り組めばよいようなものだが、完成したときの達成感は、当分お預けになる。

2015年8月30日日曜日

鍋つかみ

 鍋つかみを新しく作った。
 鍋つかみが必要というよりも、使っていない刺繍テープとビーズを整理するために、これだけ作ってしまった。
 鍋つかみというと大きな手袋状のものが一般的なようだが、これは、直径16センチの円形のもの。これで十分用が足りるし、作るのが簡単で場所をとらない。

2015年7月31日金曜日

セミ

 朝、散歩のため家を出ると大きなセミが階段の手すりに止まっていた。
 「もうすぐ、秋」と思う。自分には、セミのイメージは盛夏ではなく「夏の終わり、秋の訪れ」だ。
 ここのところ、あまりの暑さに早朝に散歩することにした。5時から7時半の間の時間帯だ。朝早いので、別所沼公園は人が少ないだろうと思ったら、公園から大勢の人が列を作って出てきたので驚いた。どこかのグループの何かの催しかと思った。
 次に、公園に入ったらラジオ体操をしているところだった。北側の遊具がある場所は人がいっぱいで、その外側にも人が広がっている。
 今日、公園についたら、これからラジオ体操が始まるところらしく、人が集まりだしている。何かが始まるのを待つ期待感と緊張感が漂っている感じがいい。
 終わったら、一度にたくさんの人が公園から出て行くのだろう、早朝散歩の初日に見た人の行列の謎が解けた。
 沼の周りを歩いていたら、噴水が噴出した。噴き出す瞬間を始めてみた。ラジオ体操の開始時間に噴水も始まるのかもしれない。
 今日は、木の周りに人が集まっている。何かとのぞいてみたら、セミの抜け殻らしい。50センチ×1メートルくらいのところにびっしりセミの抜け殻が列になってついているように見える。となりの木には一匹だけついている。行列になっているのは、誰かが集めてそこにつけたのか、実際に集まって並んで羽化したのか、どっちかわからない。
 いままで、何度も公園に行っているのにセミの抜け殻を初めて見た。時間帯を変えると、まだまだ新しい発見がある。帰るとき、セミの大合唱に気付いた。改めて、秋に近付いたと思う。

2015年6月14日日曜日

白い宴

 渡辺淳一が日本初の心臓移植について書いた小説を読んだ。
 読んでみて、これは確かに医者が書いた小説だと思った。心臓移植手術には批判的に描かれてはいるものの、手術するかどうかの決定は医者に委ねられており、患者の家族はその医師の専門家としての判断を信用するしかないことについては肯定的なように読める。また、実験的手術も医学の進歩のためには必要であることについても肯定的なように思う。
 結局、もう少し、慎重に手順を踏んで実施していれば、よかっただけのことという結論になる。そして、それができなかったのは、医師が自分の功をあせったためであり、そういう気持ちもわからなくもないというふうに読めた。
 麻酔医は、心臓移植に反対だが、その理由は、心臓移植ができる基準が決められると、その基準に達した患者に対してそれ以上の蘇生術が行われなくなり、蘇生術についての医学の進歩が止まるということと、これ以上蘇生術を行わないという判断が麻酔医ではなく心臓外科の医師に委ねられることになるかららしい。こういう視点も医師でなければでてこないだろう。
 自分が気になる一番の問題は、死ぬことが確実だが、実際にはまだ死んでいない人間の心臓を取り出すことの是非だ。
 麻酔医がまだ蘇生術を続けようとし、それを妨げられて、心臓を摘出されるということは、つまりそういうことだと思うのだが、医師にとっては、だれがいつ決定するかということと医学の進歩という点が一番の関心事らしい。
 現行の臓器移植法では、臓器は「死体」から摘出すること、死体には脳死した者の身体を含むと規定している。法律でいくら死んだ後でなければ臓器摘出されることはないと決めても、脳死の判断は素人にとっては、結局医師の判断を信頼するしかない。
 臓器移植は専門家に対する信頼がないと成り立たないと思う。
 この心臓移植のテーマについて法律家が小説を書いたら全く違うものになるだろう。
 専門家に対する信頼と言う点では、医師と法律専門家については、全く逆になったように思う。同じ生死に対する判断について、法律の方では専門家ではなく素人の判断に従う方がよいということになったようだ。
 弁護士であり小説家である人もいるが、現役裁判官で小説家はいるのだろうか。裁判員裁判の審理を実際に経験できる法律専門家は裁判官しかいないのだから、そのうちに現職裁判官が裁判員裁判の小説を書いて退官したということがあれば、その小説は是非読みたいと思う。

2015年6月12日金曜日

白夜

 やかまし村の子供たちの映画のDVを見た。直前に小説を読んだので、内容的に目新しいところはなかったが、夏の夜遅くまで外が明るいのを見て、「そうか、スウェーデンの話だから、これが白夜というものか」と思った。
 小説の中で子供たちが夜中に家を抜け出す計画を立てるところがある。読んでいるときには真っ暗な外に出ていくのだと思っていたが、映画を見ると実際は昼間と同じくらい明るい外に出ていく話だった。
 作者がスウェーデン人だから、小説の中には白夜の説明はない。当たり前のことだからわざわざ説明するまでもないということだろう。他にも作者がおかれている自然環境とこちらの自然環境が違い、作者の考えている状況と全く違う状況を思い描いていることがあるのだろうと思った。
 渡辺淳一の自伝的小説「白夜」を読んだ。札幌の夏に白夜はないから、どうしてこの題名なのだろうと思う。医者の白衣の白のイメージだろうか。出てくる道内の地名がアルファベットの最初の一文字で表現されている。N温泉が登別温泉なのは間違いないが、K市は釧路かそれとも北見か、Y市は余市だろうか。余市町なので迷う。自分も札幌に長く住んでいたので、春になって一斉に花が咲き、関東なら順番に咲いていくところが、札幌だとほぼ同時に咲くところの描写はよくわかる。このことがわざわざ書くに値することだということは埼玉に数年住んでみてよくわかった。
 日本で初めての心臓移植が行われた時に、作者がその病院にいたことを初めて知った。当時自分は子供だったが、手術が行われてから移植手術を受けた患者のことが連日報道され、一か月過ぎたころに成功してこれから長く生きるのではと思いかけたら、結局亡くなりがっかりしたのを思い出した。
 
 

2015年6月9日火曜日

主題

 今、ハリー・ポッターシリーズの前半四作品がテレビ放映されていて、三作目まで終わったところだ。テレビで三作目がシリーズ最高傑作と呼び声高いと紹介されていた。正直、自分も三作目が映画のおもしろさとしてはピークだったように思う。四作目は期待したような面白さと違い、五作目以降はテレビで前半見ただけで10時になったらいつものように寝てしまった。録画は裏のドラマを録画した。
 ところが原作の小説を読むとその逆だ。三作目までは一冊で終わり四作目以降は上下二巻の倍の分量になり、それぞれ後半になると先が気になり一気に読み進めていくという感じだ。
 そのかわり、各篇の独立性と言うかまとまりは弱くなったように思う。
 一作目は、学校のなかで何か大事な物が守られていて、それがどういうもので誰が狙っているのかが主題であることは、はっきりしている。その主題にそって、物が何か、誰が狙っているのか、それが、最後に明かされ、推理小説で最後に意外な犯人が明かされるのと同じような楽しみを味わう。
 二作目は、秘密の部屋がどこにあり、以前その部屋を開けたのは誰で、今誰が開けようとしているのか、これも主題が明らかで、最後にやはり驚く真相が明らかになる。
 三作目は、タイムトラベルの話がからみ、これだけでもおもしろいし、ハーマイオニーが機転を利かし、ハリーは優秀な魔法使いでなければできないようなことをし、主人公達のヒーローさに気持ち爽快になれる。
 四作目の映画の宣伝で魔法学校対抗戦というのを聞き、ハリーがどういうふうに知力と魔力をつくして戦うのか、ゲーム的面白さと冒険小説の主人公のようなヒーローとしてのハリーを期待してしまった。
 そして、ハリーが思いがけず選手として引っ張り出されたことから、敵が大会にかこつけてハリーを襲って殺そうとするのではないかと思った。
 しかし、真相はその逆だった。敵(ヴォルデモート)の狙いはハリーに優勝させて優勝カップに触れさせることだった。だから、ハリーが勝つのを妨害するどころか逆に勝たせようと干渉してくる。
 ハリーが他の人間を押しのけても優勝を狙いにいくような人間だったら、敵の目的は容易に達成されただろう。ところが、ハリーは競技の相手が危機に陥ると救いにいって、共に危険にさらされるので、干渉の目的が最後まで読者にも映画を見る者にも明かされない。
 ハリーがさらされている危険と思っていたものが実は違っていたというのは、三作目も同じだ。ハリーを殺そうとしていると思った脱獄犯は逆に味方だった。最後に明かされる真相の主題そのものが謎になっていてふせられていること自体は悪くはないのだろう。
 ただ、四作目については、はじめに敵(ヴォルデモート)の計画をもらしていた方がより危機感が増し、これからどうなるのだろうという期待が増したように思う。正直どうハラハラしたりドキドキすればよいかわからず、かわりになんだかくだらない恋愛感情のもつれのようなものを見せられて終わったという感じだ。
 それから、英雄としてのハリーを期待しすぎてしまった。原作を通して読むとハリー自身は生まれつき時別な能力も才能もなく、赤ん坊の時は母親の愛がハリーを救い、そのあとは友情と勇気によって、他の人にも助けられヴォルデモートに勝つことができたとわかる。
 五作目以降は前半しか映画を見ていないが、どういう謎について不思議に思ったらいいのか、どういう危機に対してハラハラすればよいのか主題がわからなかった。
 映画をつくる段階で原作が全部できていなかったことが影響しているのだろうか。新シリーズの映画をつくるよりも、四作目以降をリメークしてほしいように思う。
 
 

2015年6月8日月曜日

親戚たち

 テレビドラマ「親戚たち」の脚本の本を持っている。市川森一が書いている。原作はなくオリジナルで、あとがきによると諫早は作者の故郷ということだ。ドラマは1985年(昭和60年)制作なので、諫早湾には干潟が広がっている。
 主人公は、この干潟を干拓した地元では有名な名家の出身だが、今その名家は没落している。
 干潟の土地の所有権は持っているが、土地の価値はなく、リゾート開発の話が起きている。
 この後、国の干拓事業が始まり、現在水門を開ける、開けないの相反する判決が出て混乱しているわけだけれど、ドラマの中の干潟の風景は、もう見ることができないのだろう。
 論極ジュリスト2015年春号に諫早湾の排水門の開閉を巡る裁判についての記事が出ている。
 いままで、干拓してできた農地と有明海の漁業のどちらの利益を守るかの争いかと思っていたが、川の氾濫による水害予防が問題になっているようだ。
 満潮時に河口の水面が上昇し、川の水が排水されずに水害が起こるのを防ぐため、大雨の時に排水門を閉じて川の水を調整池にため、干潮時に排水門を開けて溜まった水を海に排出するという仕組みだ。
 大雨の時に排水門を閉じて河口からの水の流入を防ぎ、一時的に排水門の手前に上流から流れてきた水を溜めるということなら、さいたま市内でも鴻沼川、鴨川、荒川の水門で同様の仕組みになっている。
 埼玉にくるまでは大きな排水門を見たことがなく、普段水門が開いているのを見て、いつ閉めるのか不思議だった。大雨が降って川の水を海に出す必要があるときに、逆に排水門を閉じて川の水を溜めるということが不思議だった。他の大きな河川や海からの逆流を防ぐためと言われるとなるほどと思った。
 ジュリストの解説を読むと、開門の判決が出た後の事情の変更として、河川の治水工事の進行による水害防止のための排水門の必要性の高まりを考慮すべきとしているが、河川の治水工事が進んだらむしろ逆ではないかと思ったが、これは河川の治水工事により上中流で川から水が溢れることが少なくなり、以前より多くの水が河口まで運ばれるようになるからということらしい。
 河口だけでなく上中域にも調整池を設けるようにしたらよかったのにと思うが、適当な土地がなかったのだろう。
 結局、諫早湾の排水門の問題は水害の点では、いつ閉めていつ開けるかの問題でしかないように思う。
 今まで、諫早湾の問題は、農地の干拓問題がない地域には無縁の話かと思ったが、水害防止と水の流れを止めることによる水質悪化、環境破壊の問題なら、関東地域でも同じような問題はたくさんあるのだろうと思う。
 荒川流域で桜草が自生するには、定期的に川の水が溢れることが必要なようだが、今の治水状況からいって、それは無理のように思う。
 人口が減少していくようだから、無理やりコンクリートで自然を改変するより、条件の悪い場所には住まないようにしていけばよいのにと思う。

2015年6月5日金曜日

幻の動物とその生息地

 ハリー・ポッターのスピンオフ映画が作られるというニュースを見て、どういうストーリーの映画になりそうか全然わからないので、『幻の動物とその生息地』を読んでみた。
 100頁の本で32頁から最後まで幻の動物についてアルファベット順に説明が続く。この部分は読んでいてだんだん退屈してくる。特に面白いエピソードやストーリーはない。
 魔法動物の定義のところは面白かった。人間の形に似ているが知性がない、動物の形態をしているが、知性がある、人間の形をし知性もあるが、現在生きていない場合、どう扱うか。
 SFで宇宙人とどう付き合うかという問題に近いような気がする。知的ゲームとしては面白いように思うが、映画のストーリーにはなりそうにない。
 主人公が幻の動物の発見と研究のために各地に出かけて冒険をする話になりそうだが、具体的なエピソードやストーリーは、全く新しくこれから考えだされるのだろうと思う。
 作者の才能を思うと期待できるが、ハリー・ポッターの本篇の四作目以降の映画を見た感想からは、わかりやすく見て楽しい映画になるか、少し心配でもある。
 最近、「トータル・リコール」の再映画化された映画を見て、前に作られた映画と出だし以外は、結構違っていたので、原作がどうなっているのか気になり、原作の小説を読んで驚いた。映画が原作どおりなのは、主人公が記憶を取り戻した直後襲われて、逃げ出すところまでで、その後原作の方はブラックユーモアで笑えるオチがついてすぐ終り、逃げ出した後の話は映画の創作ストーリーだった。どうりで前作と違うストーリーになるはずだ。
 映画が原作の設定だけ拝借するという点では同じことになりそうだ。
 エンデの「はてしない物語」の映画化は、第一部だけで終わってしまったのは残念だったが原作が長いのでそれも仕方ないと思った。原作のイメージとは違ったがアトレーユの美少年ぶりが気に入り、第二部を期待したが、時間が空きすぎて同じ少年で作ることができずがっかりした。ただ、原作の第二部は大人がじっくり読んでも理解するのがちょっと難しく、簡単にいうと空想にひたって、それに頼りきるのは危険だということになるかと思う。第二部の映画を撮ったとしても第一部のようにわかりやすいストーリーで、見て楽しい子供向けのファンタジー映画には、なりそうになかった。
 二作目以降の映画も見たが、ファルコンは前と違っておもしろいところもあったが、第一作のおもしろさには全然及ばないという感想だ。原作の内容とも違う。
 ハリー・ポッターの方は、同じ俳優が同じ役を演じるということで、かなり期待したが、正直言って裏目に出た気がする。原作の内容が映画化するには難しく、内容的にも楽しいファンタジー映画にはならず、むしろ暗くてつらいものだという点は共通しているように思う。
 ハリー・ポッターの本篇の方こそ、別の俳優に変えて、原作と全く違った内容で楽しいファンタジー映画にして欲しかったように思う。
 

2015年5月27日水曜日

法律専門家の使命

 論究ジュリスト2015年春号で憲法特集をやっている。今ホットな憲法問題は集団的自衛権だろう。
 学者の論文を読むと、昨年閣議決定で行使を認めている集団的自衛権は、これまで認めてきた個別的自衛権の範囲を超えるものではなく、それまでの政府見解を容認する立場からは、特に問題視するようなことではないらしい。
 「一般メディアの議論に流されずに、しっかりと法的理論を見極めるのが、法律専門家の使命であろう。」と締めくくられている。
 問題はそういうことではないように思う。今は集団的自衛権として、個別的自衛権の行使として認められることしか行わないとしても、集団的自衛権を認めることによって、将来的に集団的自衛権でできることを拡大していこうという思惑があることは自明だ。
 現在大丈夫で将来問題が起きたときに対処すればいいというだけでは、現実の世界を将来に向けてどうしていくかという問題には何の役にもたたないように思う。少なくても能動的ではなく受動的だ。
 結局、法律専門家の出る幕ではなく、政治家の仕事ということになるらしい。

2015年5月26日火曜日

フランス人は服を10着しかもたない

 本のタイトルを見て、トータルで10着だと思い、具体的内容がすごく知りたくなった。常夏の南の島なら簡単だけどと思ったら、テレビで著者が春秋10着、夏10着、冬10着でコート類は含まないと言っていた。
 つまり、今日何を着ようか、10着の候補から選ぶという感じらしい。多くの人はよく着る好きな服だけ残して、それ以外を処分したら実現しそうだ。
 だから、アマゾンの書評を見ると内容に共感して持っている服を思い切って整理したという人が結構いる。
 自分の姉はオシャレで流行に敏感で服をたくさん買うが、物が溢れずすっきりしている。どんどん買ってどんどん捨てているからだ。
 本の趣旨はもちろんたくさん買ってたくさん捨てるという意味でも、たくさん買ってその中から10着に絞るという趣旨でもないだろう。
 ただ、本を読んで共感した人は、まず今ある服を処分して10着にするところから始めようとするようだ。
 片付けのテレビ番組を見ても思うことだが、既に今あるものを無理に捨てなくても、すっきりした生活ができるんじゃないかと思う。
 それから、一番の疑問は一年を三つのシーズンに割り切れるのかということ。真夏と真冬に着る服ははっきりしているが、その間に着る服が問題だ。一年に一週間ぐらいしか着る機会がない服がある。それでも連続同じ服は着れないので、良質の値段の高い服でなくても何十年も持っている服がある。
 テレビドラマの「すいか」で売れない漫画家の女性のファッションが素敵だったが、札幌で同じ恰好ができるのは一週間ぐらいしかないように思う。これは、季節の狭間のかっこうではなく、札幌でもっとも暑くなる時の昼間に着たら寒いのを我慢せずに着られる服で、最近のさいたまなら何カ月も着る機会がある服装だ。
 関東は一番多くの季節の服を楽しめるように思う。それから春と秋に同じ服でいいはずがない。春には夏を先取りした色と質感の服を、秋には冬を先取りしたそれを考える。桜が咲く花見に着る服と、紅葉を愛でる観楓会に着る服は違う。
 多分、それでいくと年間30着ではなく数十着になるように思う。更に、買って失敗したり、気候的に年間に着る機会が少ない服など、捨てれば捨てられるけれどまだ着られる服をいれるとトータル100着くらいになるんじゃなかろうか。

2015年5月25日月曜日

N

 最近、自転車を止めてバスに乗るようにした。停留所のバス停で時刻を見ると時間のところにNの表示が目についた。ノンステップバスで、バスの床が低くなっていて乗り降りの時に階段を上り下りしなくてもよいバスらしい。
 確かに乗り降りは楽だが、バスの中でステップを上り下りせずに座れる座席は少なく、その席はあらかた、またはすべて優先席になっている。そこで先頭の車輪の上の席に座った。以前からその席は登って座る感じだったが、バスの床が低くなったせいで、更に高い席になった。背の低い人なら座席に座ったままでは床に足が届かない。子供と年寄りは危ないから座らないようにという注意書きまである。
 見た目は優先席に座れるほどの年寄りでも身体障害者でもないが、筋力低下で運動能力の衰えた中高年には、かえってバスに乗るのが厳しくなったような気がする。

2015年5月19日火曜日

県立久喜図書館

 初めて県立久喜図書館に行ってみた。
 「随筆銭形平次」(旺文社文庫)の作品年譜を見るのが目的だ。
 「銭形平次 青春篇」の後書きに、作品数を数えたら386あり、野村胡堂が383あると言っていたのより3多いと書いているのを読み、確認したかった。
 確かに3多く数え違いではない。最近出た短編集に作品一覧がついていたので、それと一つ一つ照らし合わせて見ると、漏れているのは、昭和23年の「愛情二筋道」(時代読物傑作集十月号)、昭和24年の「冠兵衛の倅」(大衆読物3月号)、「万事上首尾」(小説の華6月号)のようだ。
 これを図書館で読むのは無理のように思う。河出書房の全集にも載っていないようで、読者が読みたくても読めない状況になっていたので、作品数から落としたのでないかと推測する。
 ついでに、図書館の新着本と小説の棚を眺めて見た。よさそうな本がたくさんあるが、どうにも利用しづらい。その本の存在を知っていたら、市立図書館に頼んで取り寄せられるが、棚にある実物を見なければ、その存在すらわからない本はたくさんある。これは開架になく書庫に収められている本にも同じことが言える。
 兼ねてから読みたいと思っていた本を検索すると書庫に入っている本が多い。おもしろい本なのにすぐに世の中に忘れられてしまうのだなぁと思う。
 それにしても、芥川賞や直木賞は何なのだろうと最近思う。そもそも直木さん自身どういう小説を書いたのか知らないし、読んだこともない。
 それでも、後世の人に読まれる可能性は、今の流行作家より高いかもしれない。

2015年5月17日日曜日

秩父往還道

 テレビで秩父往還道を歩きとおすという番組の予告を見てかなり期待して見た。というのは、かねてから秩父の山の中を通って埼玉から山梨に歩いて抜けることが可能か疑問に思っていたからだ。地図を見ると現在ではトンネルを通る自動車道があることがわかるが、このトンネルは歩いて抜けられるようには見えず、登山上級者でない普通の人が歩けるような道路も見当たらないからだ。
 結果、番組ではトンネル内は通りかかった自動車に乗せてもらって通った。放送内の説明では、歩いて越す道はあるが、早朝出発しなければならず、雪がまだ残っていたので、この時の状況では歩いて越すことはやっぱり不可能だったようだ。
 自動車が通るようになったら、宿を利用する人もいなくなり、道も整備されなくなるだろうから、現在歩ける街道はなくなったと考えるしかないようだ。
 科学技術の進歩のせいで、逆に不便になることがあるとかねがね思っていた。
 道路の関係では高速道路の開通のせいで、高速道路と交差する道路が通り抜けられなくなったという点がある。
 見沼代用水東縁から埼玉スタジアムに自転車で行こうとして何度か試行錯誤してしまった。
 ラジオで5月17日に南部領辻獅子舞があると聞き見に行きたかったが、ばら祭りの吉武大地の歌の方を優先してしまった。ラジオで交通機関については、どこどこに問い合わせてくれということで説明がなかった。
 最近自分で近くの見沼自然公園に歩いて行った経験では、日光御成道沿いのバス停で大宮駅行きと東浦和駅行きの路線バスが利用できるのでこれを利用するのがいいように思った。
 ただ、インターネットを見ていたら埼玉高速鉄道を利用して来てくださいとあった。これは、東京方面から来る人を考えているのだろうか。浦和美園駅からもバス路線はあるようだが、歩こうとしたら、どこで高速を超すのか迷いそうだ。
 以前、庚申塔を探して歩いた時、なかなか場所が見つからず、南部領辻獅子舞が各家を回って歩く動画を見ていて場所がわかったことがあった。
 
 
 現在でも庚申塔の場所を知っていると、道を歩く時の目印として役にたつことがある。