2019年4月23日火曜日

北海道新幹線の座席指定

 新函館北斗駅で乗車して大宮駅で下車し、京浜東北線に乗り換える場合。
 座席指定は8号車の通路側にとり、下車15分前にデッキに出て進行方向に向かって左側に位置し、新幹線改札通過後向かいの改札から中央通路に出て、東側乗車口からパスモで入場すること。
 下車駅で清算もできるが、並ぶ場合がある。
 改札入った後の通路は階段を駆け上がってくる人などがいて、人とぶつかる危険の点では、中央通路を通った方が安全。
 駅ネットで自分で座席指定ができるが、システムに任せてみた。今後AIで最適な座席指定をしてくれることを期待したい。
 

2019年3月9日土曜日

新書太閤記

 吉川英治の「新書太閤記」を読んだ。
 明智光秀が織田信長を殺した事情は、今風に言うと「上司のパワハラにより精神的に追い詰められ正常な判断ができなくなったから」だと思う。
 つい、赤穂浪士を連想した。
 もともと殺人動機としては、恨みによるのが普通で、自己や他人の利をはかったり、世の中のためを思ったりする場合のほうが少ないように思う。
 ただ、この当時は、政治的な動機で戦争をするのが通常だし、もともと頭がよく理性的な人間が、後先考えず感情的に行動したとは考えづらく、つい、深読みしてしまうようだ。
 でも、最近のニュースなどをみると、「パワハラによるストレスのため」というのは実に説得的だ。
 さすがは、吉川英治だと思う。作品が時代遅れにならない。
 主人公が秀吉だが、晩年の朝鮮出兵の前で作品が終わっている。三国志も諸葛孔明が死んだところで終り、最後のあまりおもしろくないところは割愛しているので、単純に秀吉のしたことが面白くなくなったから終わったのだとは思うが、日本の植民地政策との関係で時代的に難しい点があった影響もあったのではないだろうか。
 光秀の重臣の斎藤利三の娘が後の春日野局(家光の乳母)だということを知った。「光」といえば光秀の「光」、いとこの名も「光」がついている。明智家で代々つける字だとするとなにか因縁を感じる。どうして誰が「光」の字を選んだのだろう。

2019年1月6日日曜日

トム・リプリー

 ハイスミスの小説の主人公トムが、5作品で何人殺害するか数えてみた。
 有名な映画「太陽がいっぱい」の原作では二人。二作目「贋作」では一人。三作目「アメリカの友人」では五人。三作目「リプリーをまねた少年」では一人。五作目「死者と踊るリプリー」では誰も殺していない。
 全部で9人になる。作者の死で結果的に五作で終わったが、作者が長生きしたら六作目もあったのではないか。どんな内容になるか考えてみるのもおもしろい。
 一作目は三回、二作目以降は二回読んだ。結構忘れている。トムが結婚していることは完全に忘れていた。

2018年11月21日水曜日

初暖房

 2018年11月21日、朝起きたら室内気温17度、今年初めて気温20度を下回ったので、暖房を入れる。
 服装は、毛糸のセーターにして、外出時にコートを着用することにした。

2018年7月12日木曜日

峠の群像

 堺屋太一の「峠の群像」を読み終わった。面白い小説だと思ったが、読後感がよくない。
 赤穂浪士を題材にしているが、仇討以外の道を選び、仇討以上に意義のあることを成し遂げたと思ったら、世間の仇討に加わらなかった人間にたいする評価のせいで、それが無に帰してしまう。史実に基づいているので、この結果は作者のせいではないが、暗い気分にさせられる。
 最初に赤穂浪士を題材にした小説を読んだのは、吉川英治の「新編忠臣蔵」。それぞれがどのような気持ちで仇討を決意したのかについて、吉川英治がどう書くかに興味があった。吉川英治なら、当時の考え方としてあり得る範囲内で、現代人にも共感が感じられるものにするのではないかと思ったのだ。
 大石内蔵助の内心が書かれている。当時の生類憐みの令により、人間が犬以下の存在になっており、武士もまさに犬侍になりはて、武士本来の仕事をするより時の権力者にすりよることばかり考えている。これは、人間の尊厳を取り戻すため、ということになるのだろうか。
 途中で離脱した高田群兵衛の心の内も書かれている。こちらは、仇討以上に意義のある人生を選んだという感じはしない。堀部安兵衛は、仇討が終わった後、祝いの言葉をいう高田に対して、仇討以外の道を選ぶのを否定はしないが、その道を立派にやりとおすべきだと思う。
 ここで、仇討に加わらなかった人間で、立派な生き方をしたと思えるような人がいたのか気になった。
 そこで、井上ひさしの「不忠臣蔵」を読んだ。仇討に加わらなかった人の話だ。こちらも面白い小説だが読後感はよくない。
 仇討には加わらなかったが、陰ながら協力した人、本人の意思によらない事情で参加できなかった人、仇討に参加する気にならなかったもっともな理由があったが、仇討する以上に意義のあることをしたとはいえない人、仇討に加わらなかった人間に対する世間の冷たい風をかわすために卑怯な手を使った人、仇討以上に意義あることをしているといえそうな人が一人いたが、命を惜しんだのではないことを証明するため、毒を飲んで死のうとした(薬がすり替えられていたため死ななかった)。
 世間の偏狭な考えのためにバッシングされてひどい目に合うのは今もよくあることなので、読後感はよくない。
 NHKの大河ドラマを思い出して、「元禄太平記」を読んだ。討ち入りまでの生活の仕方を読み、堀部安兵衛がきらいになった。カモフラージュのために道場と寺子屋を始めるが、繁盛しすぎて人が集まると困るので、のらくらしている。他にも討ち入りまでの間、ちゃんと生きたらどうかと思う人間が多い。
 討ち入りに加わった人間に、禄高が高いものが少なく、下級武士が多いとある。「元禄太平記」では、下級武士の方が、武士道というものに対する思いが純粋だったというような書き方だが、下級武士が商人や農民より上だと思えるのは武士であるということだけだからだろうか。武士であるという誇りだけが頼りなら武士としてはこうあるべきという規範をより大事にするだろう。「峠の群像」を読むと、上士は浪人しても経済的に困窮することもないが、下級武士は経済的に困窮するので、つらい人生を続けるより華々しく人生を終わった方がよいと考えたから討ち入りに参加したのだと思えてくる。捨てる命の軽重の違い、その後の人生の苦楽の違いか。それとも金持ち喧嘩せずか。
 これではがっかりだ。どのように生きるのがよいか、どのように死ぬのがよいのかの答えには全然ならない。
 「峠の群像」では、大石がそれぞれの仇討に関する思いの違いを考えるところが出てくるが、大石自身がどうしたいと思っていたのかはよくわからない。仇討の意義を考え出すと割れるので、その手段の方に集中するように仕向けている。目的を達成することが目的になるように。
 これは、今のサラリーマンにも思い当たるところがあるように思う。自分の仕事の意義が感じられなくても、その仕事を達成するために、知恵を絞ったり、工夫することに仕事の楽しさを感じて、仕事を続けている人はたくさんいるように思う。
 「峠の群像」を読むとこれまで悪役と思われていた人間の別の面が出てくる。吉良は、本人はよかれと思っておせっかいをして、逆に嫌がられ、一言多くて、相手の感情を害してしまう。自分も思い当たるところが多々あり、思わず同情してしまう。
 吉良が浅野に柳沢に対する贈り物について助言するところがある。
 第一部九黄門と側用人のなかで、「この時代の慣例として、幕府の要人に加増や国替え、位階昇給があれば、諸大名はみな高価な祝いを贈ることになっていた」「政治家や行政官に対する贈進物に関する感覚は時と所によって大いに違う。今日の日本では、それが贈収賄や汚職といった悪い印象で見られがちだが」とある。
 幕府の要人を国家公務員、諸大名を地方公務員とすると公務員が公務員に贈進物を贈っても今日でも贈収賄罪にはならないのではないだろうか。「官官接待」が世間で問題視されたのも、この小説が書かれたのよりも大分あとのことだ。今では、不適切な支出として住民訴訟が起こされるだろうが、刑事事件にはならないだろう。
 公務員の経験がないからこういう理解なのかと思ったら、元官僚だった。

2016年9月4日日曜日

勝敗

 ピラミッドダービーを見ていて、不思議に思ったことがある。料理人が自分がつくった料理を当てられるかという勝負で、テレビでやっている方法では、勝者を決められない場合があるのではないかということだ。
 テレビのやり方は、自分がつくったのではないものから、あてていく。これだと、4つあるうち、最初か、二番目に指摘したのが本人が作ったものだった場合は、誰が勝者になるのだろうか。三番目に選んだのが本人が作ったものなら最後に残った人が勝者になり、最後に残ったのが本人のだったら、本人が勝者になる。
 最初か二番目に選んだのが本人のつくったものだった場合に、残りの二つがどちらも本人がつくったものではないとわかっていながら、より本人に近いほうを本人に選んでもらうのだろうか。
 今まで、本人が作ったものではないと指摘して本人のだったことはないが、だんだん数を減らしていく方法ではなく、いきなり本人がつくったと思うものを選ばせないと、方法としてはおかしいのではないだろうか。
 ピラミッドということで、徐々に数を減らしていく方法にこだわりたいのかもしれないが、常にだんだん脱落していく方法がとれるわけではなく、無理に盛り上げる見せ方にこだわる必要はないと思う。
 それに、この勝負で本人が勝っても、すっきりしない感じが残る。というのは、本人と区別がつかない味を出す人がいても、最後に二人残って、どちらを本人と当てるか確率は同じなので、本人が勝っても実は確率二分の一をたまたま当てたのか、本当に見極めたのか、テレビを見ている人間にはわからないからだ。おまけに、四人のうち最初の二人は確実に見破れることが前提になっているのだから、結局どの回も本人が勝てる確率は最低50%はあることになるのではないだろうか。
 書いてからネットで検索したら、本人じゃないといって本人だったら、残り何人でも残った人が勝者になるということがわかった。

2016年5月24日火曜日

しかしながら、

 ジュリスト平成28年5月号の24ページ「しかしながら、」以下のところから話が見えなくなってしまった。
 英国で保険業を行う場合は、法制度上、事業運営法人とリスク引受法人を別会社にしなければならないという記述の次に「しかしながら、」従来の我が国の外国子会社合算法制のもとでは、事業運営法人もリスク引受法人も適用除外要件を満たさないという記述が続く。
 ついで、もっとも、従来は、英国の税率が合算税制が適用される税率を上回っていたので、この問題が顕在化しなかったと続く。
 最後まで読み、適用除外要件に該当するように28年度税制改正で対応したことがわかった。ところが、どうして、合算してはいけないのかがわからない。
 「もっとも」以下の記述中の「この問題」がどういう問題かわからない。
 ネットで「外国子会社合算税制ロイズ問題」で検索し、昨年の税制改正の際の国会質問の中の以下の記述を読み納得した。

 「英国のロイズ市場で活動いたします日本の損害保険会社に対しまして、英国の法制上の義務に沿って保険業務を二つの法人に分けるということになっておりまして、そうしますと、本来は経済実態のある事業活動を行っているにもかかわらず、各法人単位で見れば実態がないと判定されることも十分懸念されるわけでございます。」
 
 「本来は経済実態のある事業活動を行っているにもかかわらず」の文章で、やっとことの本質がわかった。
 ジュリストに書いている人は、通常一社で行っている事業を法制度上二社に分けたという説明で十分と思ったのだろう。でも、「しかしながら、」の前に追加の文章が必要な気がする。
 

2016年5月8日日曜日

ジャンパースカート

 パソコンで、作家二人をゲストに招いたトーク番組を見ていたら、女性ゲストがノダメの主人公がワンピースを着ているという発言をした。
 それを聞いて「あれ、ワンピースじゃなくてジャンパースカートだよね?」と思った。
 大人の女性が着るワンピースとジャンパースカートでは、印象も意味合いもかなり違う気がする。
 こういう違和感が生じるのも世代の違いかと思った。

2016年4月25日月曜日

青春の門

 「青春の門」の第一部から第七部まで、一気に通し読みをした。初めて読むはずなのに、第七部だけ読んだ記憶がある。あれこれ考えあわせて、北海道新聞の連載小説で読んだという結論になった。
 場所が江差町と函館市で、江差追分と北方領土問題が出てくる。第三部は函館市と札幌市が舞台になっている。
 第八部は単行本化されておらず、未完になっているらしい。主人公は30歳になるまでは、自分のやりたいことを探して生活の安定は求めず、30歳までに見つからなければあきらめるつもりでいる。昭和9年(1934年)生まれで、第七部が1961年で終わっている。
 30歳になって、自分が一生かけてやり続けたいことを見つけて、小説が終わるのだろうか。
 作者本人はどうなのだろう。主人公が求めていたものを得たのだろうか。作者が80歳を超えても、小説が完結していないのは、一生かけても結論が出ない題材を選んでしまったからじゃないだろうか。
 
 

2015年12月17日木曜日

市民の森

 久しぶりに市民の森に行った。
 大宮第二公園から市民の森に向かって見沼緑道を歩き、改めて「いいな」と思う。
 

 ただ、残念なのは、鉄道線路を越えるときに、迂回しなければならないが、そこが住宅地化して開けてしまったこと。文字通り、開けてしまい見通しがよくなりすぎてしまった。
 
            
 以前は、こんな感じだったので、見沼緑道と違和感がなかった。
 市民の森につくと、リスの家が工事中のようだった。別所沼公園の浦和うなこちゃんは行方不明中で、変わらないようでいろいろ変化がある。