2015年10月19日月曜日

つながった

 常盤緑道を歩いていて、今年の夏、「とうとう、つながった」と思った。
 途中で武蔵野貨物線と交差するが、その線路がコンクリートの壁に覆われていて、壁には蔦が這っている。
 左右から茎が伸びてきて、その間が開いていた。その様子が左右から手を差し伸べているようで、ミケランジェロの天地創造を連想させた。
 その指先がとうとうつながったのだ。
 秋になって葉が落ちてきて、茎の状態がよく見えるようになった。今では、どこがつながった部分か、わからないくらいだ。今度は血管網のようだと思う。
 

2015年10月17日土曜日

流れる

 幸田文の「流れる」のなかに、朝布団から起きるときの動作の描写がある。
「・・片手を力にすっと半身を起すと同時に膝が縮んできて、それなり横座りに起きかえる。」
 その後、座った状態から立ち上がる動作がわからない。文中の次の動作が「すうっと蒲団のあいだへ手を入れると、二ツ折りの古風な懐中時計をひらいてほつれ毛を撫でつける。」とあるので、ここまでは、まだ座ったままなのだろう。
 子供のころ浴衣を着たが、大人になってはじめて着物を着てみて、座った状態からどうたち上がればいいかわからない。
 すそを乱さず、すねが出ないように、おしりを突き出さないように立とうとするとそうとうの筋力がいる。両手にお盆を持ったまま立ち上がることなど到底無理だ。
 着物は洋服と違って着物自体のデザインの違いはほとんどない。体の線もあまり出ない。いままで、着物は模様だけの勝負かと思っていたが、立ち居振る舞いで他人と差がつくようだ。